第1話 あきらめたはずの未来

「手術は成功しましたよ」

 陽菜が目を覚ますと、ちょうど点滴を付け替えていた看護師がにこやかにそう告げてきた。

 ゆっくりと呼吸をして目を閉じると微妙に鼓動が感じられた。ここで動いているのはどこかの誰かの心臓——信じがたいが、心臓移植が成功したのなら事実そうなのだろう。他人の心臓と入れ替えることができてしまうなんて、医学の進歩は恐ろしい。

 手術後しばらくは入院したまま慎重に経過観察をしていたが、特に問題もなく、数か月後には普通に生活を送っても構わないというお墨付きを得た。実際、新しい心臓はとても優秀なようで、以前はすぐに苦しくなっていたのにそういうこともなくなり、鉛みたいだった体も信じられないくらい軽く動かせるようになっている。

 ただ、嬉しい気持ちよりも戸惑いの方が大きい。

 あきらめたはずの未来が急に目の前に広がったのだ。死ぬことしか考えていなかったのに、その心積もりしかなかったのに、急に生きろと言われても途方に暮れてしまう。今は十七歳なのであと三年も経たずに成人する。生かされるのではなく生きていかねばならないという現実は、とても重いし、とても怖い。

 姉の美雪は県外でひとり暮らしをしながら働いている。陽菜のせいで大学進学を断念させられたため、それなりの職を得るために実家を出たのだ。だから陽菜もそうしなければならないのだろうが、今はまだ通院もしなければならないので、目処がつくまでは実家に置いてもらうことにした。

 就職しようにも中卒ではまともな働き口は見つからない。こんな辺境の地ではなおさらだ。とりあえずはアルバイトから始めるしかないだろうと、情報誌を見たり街中を歩いたりして募集を探した。学歴や病歴を理由にいくつか断られたものの、どうにか近所の洋菓子店で雇ってもらえることになった。

 夫婦だけでやっている小さな洋菓子店だが、奥さんが病気療養中のためアルバイトを雇うことにしたのだという。陽菜に任されたのは店番、つまり接客や会計などである。店長は厨房にいることが多いため基本的にはひとりで行う。ぽつぽつとしか客が来ないので忙しいということはないのだが——。

「藤沢さん、もうすこし笑顔にならんかね」

「笑顔……」

 陽菜が困惑してつぶやくと、店長は苦笑する。

「一生懸命やってくれてるのはわかるんだがね。あんまりにも無表情で事務的すぎるんだわ。声も暗いからもっと明るくハキハキとさ。慣れんうちは緊張もしてるし難しいだろうから、まあ徐々にね」

「はい……」

 ここしか雇ってもらえなかったので仕方ないが、やはり接客業は向いていない。実際に働くようになってつくづくそう実感した。店長は緊張しているため表情が硬いと思っているようだが、そもそも笑い方さえ知らないのだ。笑顔を作れといわれてもそう簡単に作れるはずがない。

 だからといって次のアルバイト先を見つけるのも難しいので、当面はここで働かせてもらうしかない。鏡に向かって練習を始めたがほとんど表情は動かなかった。どう頑張ってもぎこちない不自然な面持ちになるだけだ。相談する相手もいないので何が悪いかすらわからない。日々鏡に向かい自分の顔を見ては途方に暮れていた。


 カランカラン——。

 きれいに響くドアベルの音が聞こえて顔を上げると、若い男性が入ってきた。まるでファッションモデルのようにすらりと背が高く、色白で整った顔をしているが、髪は清潔感のある黒のショートでチャラチャラした印象はない。何の変哲もない半袖シャツにチノパンという格好もやけにサマになっている。

 東京ではさほどめずらしくもないのかもしれないが、こんな辺境の地ではひどく目立つ容姿だ。何となく地元の人間ではないような気がする。出張だろうか。すこし離れたところに有名な観光地はあるものの、この近辺には何もなく、旅行者が来るということはあまり考えられない。

「へぇ、おいしそうだね」

 彼はさまざまなケーキやゼリーの並べられたガラスケースを覗き込んでそう言うと、顔を上げて陽菜に目を向ける。

「おすすめはどれ?」

「……えっ」

 まさかそんなことを訊かれるとは思わなかった。

 ただのアルバイトなのでケーキに詳しいわけではない。ここに並んでいる商品の説明さえろくにできない。食べたことがあるのも数種類だけという有り様だ。顔をこわばらせて黙り込んでしまった店員失格の陽菜に、彼は怒りもせず、まるで子供に接するかのように優しく問い直す。

「君がいちばん好きなのを教えて?」

「私は……その、フレジェが好きです」

 すこし思案をめぐらせてからそう答えを返す。

 ここで働き始めた日の帰りに店長からもらったのがフレジェである。それまで数えるほどしかケーキを食べたことがなく、それもパサパサのショートケーキだけだったので、ふんわりと甘くなめらかなそのケーキは衝撃だった。それ以来、陽菜にとって思い入れのあるケーキになったのだ。

「じゃあ、それひとつお願い」

「はい」

 まだ慣れない手つきでケーキを箱に詰め、保冷剤を入れ、会計をしてから手渡すと、ありがとうございましたとお辞儀をする。気をつけているつもりだが、やはり抑揚のない声になってしまう。そして表情もほとんど動いていない。けれど彼はにっこりと笑みを浮かべて帰っていった。


 ほとんどが主婦かお年寄りという客層で若い男性はめずらしく、また短いながらも定型外の言葉を交わしたこともあり、彼のことは印象に残った。けれどそれだけである。翌日には何事もなかったかのように淡々と店番をこなしていた。しかし——。

「フレジェ、おいしかったよ。今日もひとつお願い」

 例の男性がふらりと姿を現した。

 また来るとは思わなかったので驚いたものの、勧めたものを気に入ってもらえたことには安堵した。本当においしいと思わなければわざわざ買いには来ないはずだ。自分が作ったわけではないけれど何かとても嬉しかった。


 以降、男性はほとんど毎日のように訪れて、フレジェをひとつ買うようになった。

 旅行でも出張でもなくこのあたりに住んでいるのだろうか。それにしても毎日ケーキなどさすがに買いすぎのような気がする。それもフレジェばかり。陽菜が悪いわけではないが何となく勧めた責任を感じてしまう。彼がフレジェを買うたびに他のものを勧めてみようと思うが、結局、何も言えないままだった。


 男性が来るようになって二週間が過ぎたころ。

 陽菜がアルバイトを終えて裏口から出ると急に雨が降り出した。今日は晴れの予報だったので傘は持ってきていない。家までは徒歩十分ほどなので走って帰ればいいのだが、かつて同じ状況で発作を起こしたことがあるため、もう大丈夫だとわかっていてもすこし怖い。

「傘、持ってないの?」

 軒下で空模様を見つめながらじっと考え込んでいると、ふいに横から声をかけられた。その声だけで誰だかわかる。振り向くと、彼はくすりと笑いながら紺色の傘を差し掛けてきた。

「よかったら家まで送っていくよ」

「えっ……でも……」

「気晴らしの散歩だから気にしないで」

 肩をぽんと軽くたたいて促され、陽菜は戸惑いながらも彼の隣におさまり足を進める。並ぶとやはり上背がある。小柄な陽菜では見上げなければ顔が窺えないくらいだ。

「家はどのあたり?」

「歩いて十分くらいです」

 家の方向を指し示しながら答えると、彼は了解と微笑んだ。

 時折、彼を誘導しながらいつもの帰路を進んでいく。いつからあの店で働いてるの? もう慣れた? など差し障りのない話を振られるが、陽菜に気のきいたことなど言えるはずもない。しばしば会話が途切れて沈黙が落ちるが、傘に当たる雨音がその気まずさを打ち消してくれている気がした。

「ここです」

 やがて陽菜の自宅前に着いて足を止めた。

「へぇ、ご近所さんだったんだね」

「え?」

 思わず顔を上げると、彼は口もとに笑みを浮かべて傘を閉じる。いつのまにか雨はほとんど上がっていた。

「僕はあのアパートに住んでるよ」

 そう言いながら、道路の突き当たりに見える二階建ての小さな集合住宅を指さした。陽菜が退院したころにできたものなのでまだ真新しい。洋菓子店からそう遠くないところに住んでいるのだろうとは思っていたが、まさか陽菜のご近所さんだとは。

「じゃあね、またお店に行くよ」

「ありがとうございました……あの」

「ん?」

 帰ろうとする彼の袖をとっさに掴んでしまう。ここまでしたのだからもう後戻りはできない。幾分か緊張しながら口を開く。

「レアチーズケーキもおいしいです」

 彼は一瞬きょとんとしたが、やがて小さく肩を震わせてくすくすと笑い出した。唐突すぎて言いたいことが伝わらなかったのかもしれない。どう説明したらいいのか思案をめぐらせていると、頭にぽんと大きな手がのせられた。

「今度はそれ買ってみるよ」

「……はい」

 意図するところは正しく伝わっていたらしい。陽菜は安堵するが、同時に鼓動がドクンと打つのを感じた。まるで軽い発作が起こったかのように。遠ざかる彼の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、ぎゅっと胸を押さえた。


 それからも彼は毎日のように洋菓子店を訪れた。

 雨の日に約束したとおりレアチーズケーキを買ってくれた。どうやら気に入ったようで、以降はフレジェとレアチーズケーキを交互に買っていくようになった。プリンもおすすめだと伝えると、ほどなくしてそれもローテーションに加えられた。

 アルバイトの帰りには彼と出会うことが多くなった。気晴らしの散歩だというので何となく一緒に帰っている。陽菜のことを話したり、彼のことを聞いたりして、互いのことをすこしずつ知っていった。

 彼の名前は朝比奈総司(あさひなそうじ)。東京出身だが大学卒業後にこちらに引っ越してきたらしい。フリーランスなので時間に自由がきくのだという。言われてみれば、毎日昼間に洋菓子店を訪れたり散歩をしたりなど、普通の会社勤めの身では難しいだろう。

 やがて秋が過ぎ、あたりが白く染まる季節になった。

 そのころには総司が店に来ないと心配するようになった。帰りにも会えないと不安になった。彼にも都合があるだろうし、そもそも約束などしていないのだから、来ない日があっても当然である。頭ではわかっているが、もう二度と来ないのではないかと考えて怖くなるのだ。

 不思議だった。入院中に家族が見舞いに来なくても何も感じなかった。持て余されていても仕方がないとしか思えなかった。多少の寂しさはあっても大きく心を動かされることはなかった。なのに、彼が一日来ないだけでどうしてこうなってしまうのだろう。

 きっと贅沢になっているのだ。今までは何もないことが当たり前で望みさえせずにあきらめていた。けれど思いがけず楽しい時間を手に入れてしまい、本当はそれだけで満足しなければいけなかったのに、図々しくも勝手に継続を期待するようになっていた。

 そもそもこれほど感情を揺り動かされるのは初めてのことだ。彼と言葉を交わすだけでトクトクと鼓動が高鳴るのを感じる。彼と会えないだけでもやもやして気持ちが暗く沈むのを感じる。嫌われたのではないかと不安になり心臓がぎゅっと締めつけられる。

 まるで自分ではないみたいだった。姉に罵られてもほとんど心が動かなかったのに。会えなくなると困る人なんて今までいなかったのに。家族でさえもどうでもいいと思っていたのに。いったいどうしてしまったのだろうと戸惑いながらも、どうすることもできず、ただ自分の感情に振りまわされながら過ごすしかなかった。


 やっぱり今日もいない——。

 アルバイトの帰り道、密かにあたりを窺って白い溜息を落とした。もう四日も総司の姿を見ていない。三日以上も店に来ないことは初めてで不安が募る。彼の住んでいるアパートは知っているが押しかける勇気はないし、押しかけるだけの理由もない。

 気にしないようにしようと自分に言い聞かせながら家路を急ぐ。ショートブーツがしゃりしゃりとみぞれ状の雪を踏みしめる。自宅の前まで来ると、彼の住んでいるアパートに目を向けてわずかに目を細めた。

「久しぶり……かな?」

「?!」

 唐突に背後から声をかけられて心臓が飛び出しそうになる。それが誰かは一瞬でわかった。勢いよく振り返ると思ったとおりそこには総司が立っていた。肩にボストンバッグを掛けてにこやかに微笑んでいる。

「両親に呼び出されて実家に帰ってたんだ。いま戻ってきたところ」

「そう、だったの……よかった……」

 冷静に答えたつもりだったが声は震えていた。おまけに目は融けそうなくらい熱くなる。

 私、泣いてる——?

 頬に伝うものを感じて指先で触れると確かに濡れていた。悲しいわけでも嬉しいわけでもない。ただ安堵しただけでどうして涙がこぼれているのだろう。物心がついてから一度も泣いた記憶はなかったのに。困惑していると、壊れ物を扱うかのようにそっと優しく両腕に捕らえられた。

「ごめん、言っておけばよかったね」

「そんなこと……別に……」

 両親にさえ一度も抱きしめられたことはなかった。あたたかい体温につつまれて、バクバクと壊れそうなほど心臓が強く脈打っている。発作が起こるのではないか、死んでしまうのではないか——自分の心臓がどうなっているのかわからず怖くなる。縋るように彼のジャケットの裾をぎゅっと握りしめると、頭上で熱い吐息が落とされた。

「藤沢さん、君が好きだ」

「……?」

 耳元で囁くように言われたが、何を言われているのかすぐには理解ができなかった。抱きしめる腕にやわらかく力がこめられて、わけのわからないまま彼と密着する形になる。

「付き合ってほしい」

「付き合う……?」

「僕の恋人になって」

 小説で読んだことがあるので概念としては一応知っている。けれど自分自身に関係してくるなど想像もしなかった。完全に別世界の話で羨ましいと思ったことさえなかった。突然そんなことを言われたって——思考回路が焼き切れたかのように何も考えられない。

「……あの」

「ん?」

 陽菜が身じろぎすると腕の力をすこし緩めてくれた。彼の胸元をそっと押して体を離し、壊れそうなほど心臓が暴れるのを感じながらも、意を決してまっすぐにその双眸を見つめる。

「しばらく考えさせてください」

「……わかった」

 一瞬、彼の顔に陰が落ちたような気がしたが、すぐに笑みが浮かんだ。

「いい返事を待っているから」

「善処します」

 ぺこりとお辞儀をして逃げるように小走りで自宅に入ると、閉めた扉に背をつけて胸を押さえる。早鐘のような鼓動はすこしも治まってくれなかった。

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