5 ドッヂボール

「うぇ、ッ!へぅ


 素っ頓狂な悲鳴と共に、私は思わず落とした。「アッ、トなって下を見た。しかし、何を落としたかは判らなかった。何も持っていなかったのだから、当然と言えば当然である。


 有りもしないシミを吹き、音もしないコインを探す。最後にかゆくも無い頭をポリポリト。

 ようやく見上げた先、私はまじまじと地面から生えたソレを、流れるように見つめていった。


 小さな緑のサンダルに包まれた、短く丸く、キズの無い指。細く柔らかな足、森を編んだワンピース。

 ソコに気遣いは無かった。本来、人と人が触れあうことによって摩耗し、取れるはずのトゲ。いわば社会性、当たり前の品性。そう言ったモノを、私という生き物は、何一つ持ち合わせちゃ居なかったのだから。


 一直線の細い胴体を抜けて、健康的な白米をといだ肩にヒモが掛かる。細首を抜けて、いよいよどうだ、夏国だった。

 間違いは無かった。ここまで五秒以上掛けて未成年の身体を吟味した不審者の目には、確かに顔を赤らめて双子の水晶を波打たせる少女の顔があった。


「ひッ……、チガうんすよ。


 私は敬語になった。ソリャそうだ。そうだろ。審判居たら笛吹かれてるぞもう。確信があった。


「……ッ、


 浮かべられているのかも判らないニヤけ面に、少女は両手を重ねてたじろいだ。


 拒絶。


 見慣れてる。大丈夫、大丈夫だとも。ソレぐらいで泣く大人じゃ無い。


 ケド待って欲しい。今日だけは待って欲しい。可憐で篤実な少女よ。少しだけ私の話を聞いて欲しい。口は動かないけれど。


 どうか、どうか手を置いて欲しい。一度その指に掛かる力を解いて欲しい。いや、難しいことは言わない。


「ブザーは、ちょっと……カンベンしていただけないでしょうか……


 気がつけばヒザを付いていた。へりくだり目を据えて、確かな服従の姿勢で頭を下げていた。

 貢ぎ物が見当たらなかったが、丁度足下には赤いボールが転がっていた。子供が好きそうな小ささに、私はこれ幸いと手に抱いてソレを両手を敷いて献上した。


 少女に動きは無かった。

 足音が聞こえない。立ち去っては居ない。ブザーも聞こえない。まだ死んじゃいない。

 ただ太陽だけが照り、風だけが吹く公園。私はいよいよ全身に冷や汗が湧いていた。おびただしい数で私を取り囲んでは、それらは皆一様にして私を責め立てた。後悔の刃を突きつけた。


 ああ、なんだ、なんだ。身の程をわきまえず外の光を見たいだなと、パーカーなんか着こみやがって。オマエは何を考えてこんなマネをしたんだ。


 ウルセぇ、判ってんだよ。自分が一番、


 嗚呼クソ、溶けたい。地面が海に沈んだら良いのに。この死んだ顔から、人間みたいに涙とかいうのが流れてくれれば、今すぐにでもそうしたのに。


 どくん、どくん。心臓が近づいてくる。


 ……そのときだった。


「アハハハハ!、


 上から声がした。大きく弾む、軽やかな……声、声なんだろうか?

 久しく聞いていない声だった。正直判らなかった。自信も無かった。だから私は上を向けなかった。


 やがて自分の手から、ボールが離れていくのを感じて。

 そこで、ようやく面を上げた。


「あ、……


 顔の筋肉が揺れて。力を失い、そのまま剥がれていった。解けていった。


 ルイボスを淹れた髪はツインテール。穏やかに落ちた眉、丸い瞳は髪より一段と濃い色で輝いている。鼻は低く、口は丸くアヒル気味。ソレの両端がすぅっと上に上がって、コチラを暖かく見つめてきていた。


 何だっけコレ、


 思い出せなかった。とても穏やかで、安らいで、あんなに近くまで来ていた心臓も肺もどこか遠くに行って。


 ……なんだっけ?」


 私は最後に呟いた。

 どうしようも無くて訊いた。

 少女に向かって呟いた。

 ソレは祈りだった。予言を希求せり聖職者の、ワラをも掴む嘆願だった。


「え、う~~ん。……ボール!


 彼女は明るくそう言って、目を瞑り歯を見せてきた。


「そ、っか。ボールか。


 一つ、思い出せた。


「いっしょにあそぼ?

「……うん。あそぼう。


 彼女の小さな手を取って、私の思い思い腰は、遂にベンチから引き剥がされた。

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