第58話 楽しい接待
ユキナガはアンにいざなわれてムニョス男爵の元へ向かった。
ナゴヤ球場の内野席、上の方。
ムニョスの隣、さっきまでヒメネス博士が座っていた場所が空席になっていた。
「博士逃げたな。ムニョス男爵が嫌いといっていたもんな」
「嫌いだけど逃げてはいねーヨ」
「ん?」
「どうかしましたかユキちゃん」
何か聞こえた気がしてユキナガは振り返ったが、そこには粛々と自分の職務をこなす、少し緊張した面持ちの一ノ瀬アンがいただけだった。
何人かの席の前を横切って、ユキナガはムニョスの隣にたどり着いた。
「男爵、夏目殿をお連れしました」
「ああ、ご苦労。お呼び建てをして申し訳ない。エスカミーリョ・ムニョスだ」
「ええと夏目ユキナガです。リンドウ丸厨房所属」
ユキナガの左側にムニョス、右側にはアンが座った。
「ヒメネス博士から面白い男がいると聞いて、話がしてみたくなった。わたしが変わり者であることは、リンドウの諸君にも聞こえているだろう。迷惑だとは思うが少し頼むよ」
やはり、ヒメネス博士は厄介者を自分に押し付けたのだろうかと思いつつ、ユキナガは間近でみる貴人の風貌を眺めた。
黒のロングコートに斜めにかぶった帽子。おしゃれな装いだ。
面長で色が白い。銀色の短髪。そして、おっと、唇にピアス。
アンから、アゲハは伝統を重んじると聞いていた。その割には挑戦的な装いの最高司令長官だった。『変わり者』の噂が立つのも致し方がないことだろうか。
「この場所に来ることを進言したのは夏目殿だとか?」
「そうです」
アンをはじめ、周囲の人間全員が聞き耳を立てていることを感じる。ユキナガは(グラウンドの野球に集中してほしいのにな)と思った。
さあ、野球が存在しない世界の王様から、どんな質問が飛んでくることか。
選手の特徴か。野球のルールか。ユキナガは心の中で身構えた。試合は4回表、スコアは依然0対0だった。ドラゴンズ星野仙一とカープ北別府学の投手戦。
「どうして赤いのだろうか?」
え、なんて?
「片方のチームが赤い。もう片方が青い。理由は何だろう?」
「ああ、ユニフォームですね。広島東洋カープのユニフォームが赤いのは、さてなんでだったでしょうかね。元気に見えるからという話を聞いたことがあるように思いますが、はっきりとは」
「わからないか。じゃあ青い方の理由もわからないのだろうね」
「はあ」
「我らアゲハも赤をシンボルにしている企業だからね。なんだか気になった」
ユキナガはもの凄く小さな声で「赤い方が勝つわ」とつぶやいた。
「ちなみにアゲハななぜ赤いのですか?」
「さあ、知らないな」
何だこいつ。
周囲からの(お前が質問するな)という圧を一気に感じて、ユキナガは不快だった。
ムニョスから次の質問が来た。
「点数が表示されているあれ、真ん中じゃなくて少し右に寄っているのはなぜ?」
「ああスコアボード」
これもなんだかピントのずれたような質問だなと思いつつ、ユキナガは答えた。たしか敷地の問題だったはずだ。ナゴヤ球場はすぐそばに東海道新幹線の線路がある。
「ふうん、バックスクリーンと別々なのは、理にかなっているのかいないんだかだね」
「まあ、そうですね」
「恐れながら男爵。あの真後ろにあるボードは必要なのでしょうか」
アンがムニョスに向けて尋ねた。
「あれがないとバッターがボールを見づらいのだ」
「なるほど。さすが男爵、よくご存じで」
……ん?
ユキナガは違和感を覚えたが、考えがまとまる前にムニョスから不愛想な口調で次の問いが来た。
「彼らは職業としてこの競技をしているのだろう? プロフェッショナルということであれば打者はもっと打ってもよさそうなものだが」
「3割の確率で打てれば一流とみなされる世界です。それに今日は両方とも投手がいい」
「なるほど。せっかくの機会だからホームランを見てみたいものだな」
「それは確かに。このあとに期待をしましょう」
……んん?
会話が少し途絶えた。
グラウンドでは、星野仙一の投球を三村がはじき返した。セカンド正面のゴロ。
二塁手の高木守道がしっかり捕球して一塁に送球してアウトをとった。
「良い。あの二塁手はうまいな」
ムニョスがつぶやいた。
アンは王の言葉に少し不思議そうだ。
「そうでしょうか。今のは比較的容易な打球にも思えましたが」
ムニョスはアンの問いによどみなく答えた。
「確かに正面ではあった。しかしハーフバウンドだ。いちばん処理が難しい。それをいともたやすくとった。素人目にはそれが難しいプレーだとは分からないほど簡単に。まさに職人といえよう」
このムニョスの言葉を聞いていて、ユキナガのなかでひとつ結論が出た。そして彼はそれを口にした。
「あんた野球を知っているな?」
「知ってちゃ悪い?」
ムニョスはいたずらっぽく笑った。
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