第38話 盤面支配とその崩壊

 シュトラル女王の執務室は、沈黙に満ちていた。

 執務室には五人だけ。クエリは身じろぎ一つせず、両指を絡めながらじっと視線を落としている。いつもならクエリをからかい、緊張を緩めるはずのウルミアとミラリスですら何も言わない。普段の三姉妹をよく知る紅蓮隊だからこそ、今の沈黙そのものが異常事態の証だと理解させられている。


 秒針の音だけが刻まれる。分針がゼロを指した瞬間に、クエリがようやく声を発した。


「……おかしい」


 沈黙が破られる。けれど、緊張感は消えることなく、さらに強く張り詰めていく。

 クエリは勝利を確定させてから勝負を仕掛ける。今回の宣戦布告も、天導教の勝ち筋は潰してから行った。だからこそ、クエリが弑虐を行い、王の座に就いて以来。クエリのそんな言葉を耳にした人間は存在していなかったのに。


「ナデシコは留まってくれた。天導教がエンラ殿の侵入に気付かないはずがない。もう王手はかかっている。──どうして、何の反応もないの?」


 宣戦布告から三十分経った。エンラの侵入と宣戦布告のタイミングは合わせた。この状況で動かない指導者など存在しないはずなのに、何も起きていない。

 それだけでも何かを見誤ったのは明らかなのに、クエリにとって何よりも恐ろしい兆候は、アンナリーゼからの連絡が一向にやってこないことだった。


 アンナリーゼには宣戦布告と同時に動くように伝えた。アンナリーゼの実力なら、とっくの昔にイウリィを連れて脱出しているはずだった。それなのに、連絡が来ない。

 意図がまるで読めない天導教の反応は、もはや考えても仕方ない。何よりも強く、明確な異常を証明しているのはアンナリーゼが手間取っている状況そのものだった。何かを読み違えていることは明らかなのに、何を誤読すれば今の状況が生まれるのかの逆算すら成立しない。


 読みを外した箇所さえ特定できれば、流れは編み直せる。けれど、手がかりがなければクエリの予測は機能しない。

 あまりにも歯痒くて、ネオンを裏切ってしまった自己憎悪で腹の奥が焼けそうだった。イウリィの無事だけは何があっても崩してはいけなかったのに、よりにもよって最悪の場所が見えなくなっている。


 沈黙の代わりに執務室を満たしたのは、クエリの怒りだった。そんな中、不意にミラリスだけが動いて、手のひらに収めていた琥珀の鳥をクエリに差し出す。


「姉上、オドゥさんから連絡が」

「繋いで!」


 ウルミアも翡翠の鳥を肩に乗せて、いつも通りに片割れの隣に立つ。誰かの情報を縋るように待ち望むのは、クエリにとって生まれて初めてのことだった。



「ナデシコ。お前の違和感はたぶん、竜が天使の末裔なのに生物そのものってところだ」


 エンラが飛び始めてすぐ、クエリとの通信を繋ぎながらオドゥはそう説明した。ナデシコはオドゥの言葉を数秒かけて咀嚼して──半ば崩れるように声を上げた。


「あ……そう! それ、そこ! そう、そうよ。王冠は力の器でしかないんだから、天使の素材が王冠だけなら末裔なんてものが生まれるはずがない」

「ああ。だからお前の嫌な予感ってのはまず正解だろうな。人魚のお嬢ちゃんは今すぐにでも回収しないとまずい」


 完全な理解で話を進めるのは師弟ばかり。ネオンはナデシコの袖を掴んで、不安を押し殺しながら尋ねる。


「……ナデシコ、ごめん。私にはまだ、イウリィが何をされるのかわからなくて」


 声は普段通りを装っていても、ナデシコに縋る指は震えていた。ナデシコはネオンの手を強く握って、簡単には振り解けないようにしてから答えた。


「王冠はそれ単体だと実体を持たない概念でしかない。それはあなたなら実感できるでしょ?」


 頷く。人でありながら王冠を持つ例外だから、ナデシコの説明が正しいことは自分の身体で理解できた。

 ナデシコが手に込めている力がさらに強くなる。お互いの不安を抑えようとしているように、ネオンの手が痛いほどの力で握られた。


「ただの力の塊を天使と呼んでいる可能性だってもちろんある。けれどドラキュリア派の伝承が真実なら、少なくとも竜の祖先になった天使は肉体を持っているの。だから天使は王冠だけで成立すると考えることはできない。……王冠の寄せ集めを束ねて、実体を与える核が必要になるはず」

「っ……」


 ナデシコの説明は順序立っていて、不安で揺れる思考でも理解できてしまった。

 実体を持つはずの天使。教皇の手元に置かれたままのイウリィ。

 喉の奥で呼吸が詰まる。声を出そうとして、喉に溜まったままの息に阻まれた。たった一回、たまたま声が出せなかっただけなのに、どうしてかネオンの思考は理由のない恐怖に凍りついて──ナデシコに手を握られている痛みで、意識が現在に引き戻された。


 空にいることを思い出す。ネオンはやっとの思いで息を吐き出してから、声を発した。


「……ヴァーチェ、君の意見は?」

「そうですわね。彼女の予想は、妥当と言うべきでしょう」


 ヴァーチェは伏目がちになって、けれど断言する。ナデシコの説明に何かを思い出していたのか、小さく首を横に振ってから続きを口にした。


「わたくしたちはドラゴンの伝承を繋いでいただけ。主だった者たちが何をしようとしているのかはまるで把握できていませんが……あの教皇は、どこかがおかしかった」


 わずかとはいえ、はっきりと怖気が滲む声だった。ナデシコにもネオンにも、仮にも聖職者であるヴァーチェが教皇という頂点に向けている言葉が、本来ならありえないものだということは察知できる。

 ナデシコは首を傾げて、ヴァーチェへさらに尋ねようとする。けれど、オドゥの言葉と琥珀の鳥がナデシコに放られる方が早かった。


「……そうだな。俺は遠目で見たくらいだが、あれに何かが欠けてたのは覚えてる。ナデシコ、双子の姫さんのどっちかと繋がるから維持しとけ」

「どうしてまた急に投げてくるのよ!?」

「お前ならお遊びみたいなもんだからだよ。んなことより、向こうはまず荒れてるだろうからな。構えとけ」

「え?」


 ナデシコは網が繋がった気配を感じて、手繰り寄せる。ほとんど反射で通信を繋げていたから、鳥が伝えてきた声の勢いは意識の横から殴られるに等しかった。


『っ──オドゥ殿、ナデシコ、状況は!?』

「へぁ!?」

「え──姉上?」


 悲鳴とすら思わせる、すべての余裕を失ったクエリの声。あまりにも予想外だったせいでナデシコの口からは間抜けな音がこぼれて、ネオンはクエリが焦るという現実味のなさに、声の主がクエリ本人なのか一瞬疑ったほど。

 ネオンの呼びかけが多少なりとも理性を刺激したのか。クエリは少しの間を置いて、ゆっくりと話し始めた。


『……駄目ね、このままじゃ。ごめんなさい、少し落ち着くわ。──ウルミア、ミラリス』

『ええ。我らが姉上がいつもの悪魔に戻ってくれるまで、私たちがお話ししましょう。とりあえず、こちらから見えている状況だけ伝えるわね』


 顔が見えないものだから、声も口調もまったく同じ双子はいつ言葉を交代しているのかまるでわからない。軽口じみた言葉遣いこそ変わらないが、いつもよりも硬い声音は双子も緊張状態にあることを示していた。


『戦略上は姉上の予定通り、圧勝よ。ネオンとナデシコが我慢してくれたおかげでエンラ殿が侵入できたし、破暁の奇襲が成立している状況にもなっている』

「……その、姉さん方。あたしが気付かなかったらどうするつもりだったの?」


 双子が説明する状況は明らかに、ネオンとナデシコが敵地に留まるという最悪手を前提にしていたもの。ナデシコは呆れと恐怖で半ば脱力しながら、アンナリーゼへの言及は避けて問いかける。

 双子もクエリが復活するまでは迂闊なことを言わないようにしているのか。ナデシコの問いかけと同じように、言葉を曖昧にしながら答えた。


『ふふふ、もしそうなったら姉上の悪巧みがまた始まっていたでしょうね。ナデシコなら絶対に気付いてくれるから、って姉上は疑ってなかったけど』

「……今後、あたしが要求する本は必ず仕入れてもらうから。絶対に、何があっても」


 ナデシコもクエリが動くことは確信していた。けれどまさか戦略を担わされているなんて夢にも思っていなかったし、与えられた示唆に対して要求されていた働きがあまりにも多すぎる。抗議を全力で伝えれば、双子がくすくすと笑う声が重なった。


『そうね、そのくらいのご褒美はもらいましょう。いくら姉上が人の皮を被った悪魔で人使いが最悪でも、たまには飴をくれるはずよ──きゃんっ』


 わざとらしい悲鳴が重なる。目の前で堂々と悪口を連呼していたからお仕置きでもされたのだろう。ナデシコが予想した通り、鳥が伝えたのはクエリの声だった。


『ええ、本なんていくらでも。そちらは今どこに?』

「エンラに飛ばせて総本山に向かってる。おまけでドラキュリア派の聖職者を確保した。──女王陛下、ここからは勝手に動かせてもらうぞ。あんたが作った盤面はどこかで狂ってる」


 オドゥが指摘すれば、クエリも短く肯定した。焦りは消えていないだろうが、普段の思考力は取り戻したらしい。普段と変わらない落ち着いた声で、クエリは妹の名前を呼んだ。


『ネオン』

「……姉上、大丈夫ですか?」


 鳥の向こうで息を呑む気配がした。しばらくの間を置いて、クエリは柔らかに話を再開した。


『ええ。もう平気よ、ありがとう。……ごめんね、ネオン。貴女とイウリィを裏切ってしまった』


 ゆっくりと、通信越しでも確実に聞き取れるようにクエリは言葉を紡いでいく。クエリの謝罪にネオンは一瞬だけ視線を揺らすものの、すぐに相槌を返して続きを促した。


『守れると確信していた。驕っていた。私の判断が、イウリィとリズを危険に晒しているかもしれない』

「……姉上、やっぱり──」

『ええ、リズは私たちの味方よ。あの子はずっと、私たちの姉妹のままだった。イウリィのこともリズに託したの』


 躊躇うことなく、クエリはアンナリーゼの名前を明言した。

 ネオンの手が握り込まれる。ナデシコは口を閉ざしたまま、ネオンの片手と自分の手を重ねた。


 強張っていたネオンの呼吸がほどける。通信越しで、しかもエンラの翼が空気を常に裂いているのだ。聞こえるはずがないのに、クエリはその瞬間を見計らったかのように穏やかな声でネオンへ話しかけた。


『リズの事情は、ネオンにはまだ耐えられないと思ってずっと隠していたの。けれど、今の貴女ならきっと大丈夫だから──話しても、いい?』


 もしかしたら、クエリがネオンに判断を委ねるのはこれが初めてだったのかもしれない。

 ネオンはぱちぱちと瞬きを繰り返して、すぅと深呼吸をする。動揺を鎮めて、しっかりと頷いてから姉に答えた。


「聞く。聞かせてください。私だって、リズ姉にはずっと会いたかったんだから」


 失踪した姉妹の行方という大事を、ネオンの心を守るために隠さざるを得なかったと断言するほどの事情。

 クエリがあらゆる手段を使って自分を守り続けてくれていると知っているからこそ、ネオンの瞳の奥には恐怖が覗く。けれど声に震えはない。ナデシコは無言のまま、ネオンに体温を分け続けていた。

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