第33話 沼底

 円卓はひどく慌ただしい。もとは天導教への警戒を討論するために集まっていたはずなのに、気付けば開戦準備へ議論が移ろうとしている。

 こうも事態が急変すれば、元首たちも各々の国へ現状を伝えなければならない。会議が中断された寸暇に、クエリはエンラへ話しかけた。

 

「ところで、エンラ殿。貴方がたの竜の形、本来なら選べるものと受け取っても?」

「うん、その通り」

 

 クエリの視線はエンラの角に。それは知り合って以来、初めて目の当たりにした竜の証だった。

 竜が人の形を取れば、どこかに必ず証拠が残る。ナデシコが同族から嘲笑を受けてきたのも、竜になれないうえに、人型にも僅かな鱗しか残らないからだ。

 けれど、エンラの人型は常に、一切の証拠がなかった。竜にとっての常識を裏切る真相を、エンラは語る。


「自分の力を把握しているのなら、人型の操作くらい訳はない。それも知らないで、どれだけ形が残るかを揶揄するのは、自分が弱者だと喧伝するのと同じだよ」


 エンラの声には若干の苛立ちが混ざっていた。その感情の由来がナデシコの境遇にあることは、クエリから見れば明らか。

 側から見ればエンラがナデシコを愛しているのは手に取るようにわかるのに、どういうわけか、そのナデシコには本心を伝えている素振りがない。そのせいで、本当なら起きるはずのないすれ違いが続いている。クエリはどうにか呆れを抑えて、さらに尋ねた。

 

「では、ナデシコの形は?」

「あの子が無自覚に抑えている結果だろうね。三つになるまでは、ナデシコも竜の姿でいられたから」

 

 初めて耳にする話だった。クエリが視線で続きを促せば、エンラも答える。

 

「小さな頃からナデシコは聡い子だった。だから、竜の力がどれだけの破壊を招くものか悟って、怯えてしまったんだろう。その時に近くにいられればよかったんだけれど……」

「まだ母方の氏族に囲われていて、貴方も気軽には会えなかった」

 

 エンラは頷き、視線を床に落とす。同族の誰よりも強大な力があると認められ、竜帝の座に就こうとも、武力で解決できない事象にはひどく弱い。幼いナデシコの境遇は、エンラの中で最も苦々しい敗北の記憶だった。

 

「……あの子には酷なことをした」

 

 呟く声は悔恨に満ちていた。その様子を見て、クエリの脳裏には二つの記憶がよぎる。

 妹たちを道具として扱い、家族にも国にも、今もなお色濃く残る傷を与えた父親。娘を守ろうとしても逆らう術を持たず、心労で床に伏せ、早逝した母親。

 

 クエリは目を閉じて、小さくかぶりを振る。

 ウルミアとミラリスへの処遇を知ってからずっと、あの男は排除すべきだとわかっていた。それなのに父親だからと躊躇い、取り返しのつかない事態になるまで動けなかった。その失敗は覆らない。できるのは、同じ過ちを繰り返さないことだけ。

 

 クエリが憎悪を見つめるうちに、エンラは顔を上げていた。エンラが続ける声には未だ後悔が残っているものの、確かに娘を誇るものに変わっていた。


「ナデシコが竜になれないのは、自分の力を恐れているからだ。いつか恐れを自覚して受け入れられれば、僕よりもよっぽど強くなるよ」

「……ええ、まったくもって。竜の力にあの思考が加われば、脅威は一段と跳ね上がる。その点、エンラ殿と来れば、政治下手な上に娘に向き合えないくらい不器用ですものね」

 

 今度こそ呆れを隠さず、直接的に言い放たれた事実の指摘にエンラは言葉を詰まらせる。クエリは会議が始まるまでの少しの間だけ、姉としての顔でエンラを睨め付けていた。





 静まり返った離宮。ひとりぼっちの空間で、イウリィは自室のベッドに腰掛けながら、じっと手のひらの中の耳飾りを見つめていた。

 ついさっき自室で見つけた、見覚えのない小さな耳飾り。イウリィの私物ではないし、ネオンやナデシコも装飾品の類は好んでいない。明らかに、誰かが意図して持ち込んだものだった。


「……離宮に立ち入ったのは、陛下とオドゥさまだけ」


 事実を呟いてみればますます、この耳飾りに不穏なものを感じる。女王と隠密、どちらも情報を武器に変える人間だ。

 イウリィは耳飾りを手の中で転がして、ふぅ──と小さな吐息を落とす。そして、耳のヒレへ飾りつけた。


 クエリやオドゥがどんな意図を描いているのか、イウリィにはまるで読めない。けれどどちらも信頼できる相手だと感じているから、無言の指示に従った。


「ネオンさま、ナデシコさま。どうか、無事のお帰りを」


 二人が出立してから、毎夜の祈りが癖になっていた。人魚は海の慈悲に祈りを向けて、大切な二人の無事を願う。

 あとは睡魔に身を委ねるだけ。目が覚めれば、いつ二人が戻ってきてもいいように離宮の手入れを始めよう。そんな、ありふれた穏やかな時間は、暗闇の中から響いた声に崩された。


「──ハーゼンのイウリィ」


 イウリィは弾かれたように顔を上げて、すぐさまベッドのそばのカーテンを払う。月の光がわずかに差し込んで、いつの間にか部屋の隅に立っていた男の影が照らし出される。

 特徴のない装いと、姿が見えても気配を掴めないほどに作り上げられた希薄さ。ハーゼンの、という呼びかけ。男の所属は、イウリィがよく知るものだった。


 天導教の隠密。それも、教皇直下で活動するような。


「……どうして、私の居場所を」


 イウリィの心臓は荒れ狂う。痛いほどの動悸を感じながらも、イウリィは問いの答えを直感していた。


 そもそも天導教に身を置いていた頃ですら、イウリィの存在を知る人間はほとんどいなかった。教皇の隠し子という出自だけでも危ういのに、さらにその母親は天導教が封印する悪魔。容姿にも人魚の血が色濃く現れているのだから、表舞台に出せるはずがない。教皇が所属するハーゼン派の者として呼ばれている現状こそ、教皇自身がイウリィを連れ戻そうとしていることの証明だった。

 そのうえ、目の前の男が離宮に辿り着くには情報提供が欠かせなかったはず。イウリィの出自を把握したうえで離宮に匿われていることを知るのは、王族とその側近程度しかいなかったのだから。

 教皇の指示と、シュトラルからの情報提供。耳飾りを見つけた直後の襲来。回答は初めから示されていたようなものだ。


「シュトラルの双子巫女から情報提供を受けた。もっとも、何かを目論んでのことだろうが」


 男は一歩、イウリィに近付く。足音のない動きは目にする者に不安を掻き立てる。

 イウリィはぎゅっと、腕で身体をかき抱く。暴れる鼓動を抑えるために、無理やり呼吸を深くした。


「ハーゼンのイウリィ。教皇猊下が帰還をお望みだ」

「……私は、水底揺籃の娘です。その穢らわしい呼び名はお断りいたします」


 明確な拒否は突きつけつつも、立ち上がる。

 逃げ道はない。男は双子巫女──ウルミアとミラリスの関与を告げたが、二人が姉妹を裏切るはずがない。クエリの意向を受けた行動なのは確実だ。

 かの女王が作り上げた状況なら、抗う道はとっくに潰されている。逃れようとしても、状況を悪化させてしまうだけ。イウリィにできるのは、耳飾りをつけたまま、男に従うことだけだった。


 最善を探そう。イウリィは自らの足で、離宮を出た。

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