第22話 魔物
水がコンクリートの硬さになるのは何メートルからだっただろうか。そんな疑問が思い浮かぶよりも先に、俺は海面にたたきつけられた。
「げほっ」
背中から着水し、痛みで息がつまる。涙目になりながら必死で腕を動かし、なんとか態勢を整えた。スイミングスクールに通わせてくれた前世の両親に感謝だ。
俺を落とす際、スプリラは魔力を使ったに違いない。崖から離れた沖合に俺はいた。
崖上を仰ぎ見ると、朧げに揺らめくスプリラの姿があった。
スプリラは妖精であり、妖精はやはり妖精だった。人間と恋に落ちることはできても、ことわりの違う世界で生きる者だ。彼女の身勝手な願いをかなえたくとも、生身の人間に水中戦は無理というもの。
シャツとズボンがまとわりついて動きづらいが、岸までならなんとか泳げそうだ。いったん浜に上がって担任のスコーラ先生を呼ぼう、と思った時だった。
何かが顔の横をかすめた。
頬が焼けたように熱い。
「シャーッ!」
振り向くと魔物がいた。スプリラが契約したという魔物だろう。イベントで倒すものとは種類が異なっていた。
水妖というのだろうか。容姿は人に近いが、水面から出た腕は鱗のようなもので覆われている。灰白色の髪は顔に張りつき、隙間からのぞく黄色い瞳が俺をにらむ。
節くれだった細い指先には長く鋭い爪が生えている。思わず頬に触れ、俺は痛みに顔をしかめた。海水が傷口にしみる。
手をかざすと、濡れた自分の指に血が滲んでいくのが見えた。
「――っ」
魔物が両腕を回した。俺との距離が一気に縮まる。
恐怖で身がすくむ。
逃げられない。
「デフォート!」
キーンという音の遠くで俺を呼ぶ声が聞こえる。
空からブレク先生が降ってきた。
白刃が夏の日差しにきらめく。
先生の一振が海を切り開いた。
海から投げ出された俺は、またもや落下していく。
海底につく寸前、背後から誰かに抱き留められた。見上げるとカイルの顔があった。彼の口元が動く。
「……か、……ト!」
何か言っているようだが、甲高い音に邪魔されてすべてがぼんやりとしか聞こえない。まるで耳だけが海中にいるかのようだ。
丸く開かれた海は水の壁で覆われ、その中心でブレク先生と魔物が対峙している。
先生は魔物の攻撃をすべて剣で受け止めていた。
「デフォ……行……ぞ」
肩をたたかれ後ろを見ると、いつの間にか岸までの道ができていた。道をエリス先生が歩いてくる。
ザアザアと海が波打っている。
いつもは穏やかなエリス先生が毅然とした声で言った。
「ふたりとも早く安全な場所に!」
戻って来た音に、俺はようやく耳鳴りがしていたことに気がついた。耳鳴りが静まると、今度は早鐘を打つ心臓がドクドクと騒がしい。
「デフォート、歩けるか?」
「ああ」
俺はガタガタと震えながら、割れ広がる道を進んだ。背中に添えられたカイルの手が、とても大きく、頼もしく感じられた。
俺たちが岸に上がると、道はひとりでに閉じていった。魔物の姿が見えなくなり、体のこわばりが少しほぐれた。後は先生たちに任せよう。
前を向くと、雪村さんに抱きしめられた。
「ゆっ、雪村さん?」
彼らしからぬ行動だけに、クラウスの出現を疑ってしまう。まだシーズンイベント中なのだろうか。
「失礼、取り乱しました」
雪村さんはキラキラしながら、すぐに体を離した。
「……お怪我はありませんか?」
「かすり傷だから、平気。怖くて震えていたけれど、それも驚いたおかげで収まった」
無理やり笑みを作ろうとすると、頬の傷が痛みを訴えてうまくいかなかった。それでも雪村さんの苦笑は引き出せた。
その後は傷の治療と、風呂と、スコーラ先生によるお説教のフルコースが待ち受けていた。魔法具を追いかける姿を見ていた子がいたらしく、俺は「魔法具を追いかけていたら魔物に遭遇した不運な奴」と思われていた。
「そういう場合は二年生の先輩に言いなさい」
スコーラ先生の言葉に、俺は神妙な顔を作ってうなずいた。スプリラのことを話さずに済んで、ほっとした。いくらファンタジーな世界でも、妖精の魂に呼ばれて魔物を退治するよう頼まれた、なんて話は信じてもらえないだろう。
魔物はブレク先生とエリス先生によって倒された。
夜の海は穏やかで、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。ホテルの部屋で書き上げた反省文を提出した俺は、浜辺をひとりで歩いていた。
海が淡く光り出し、スプリラが姿を現した。
『まだいたんだ』
『あら、私が何も言わずに去ってしまうと思っていたの?』
そんな薄情じゃないわ、とスプリラは指を立てて俺をたしなめる。彼女のお願いを叶えたのは先生たちだ。俺に対価を支払う必要性はない。
『ごめん。すぐに子供に会いに行くと思っていたから』
俺が謝ると、スプリラは首を横に振った。
『もう、魂を維持するだけで精一杯なの。力が零れ出ていってしまうのよ』
『そんな! せっかく魔物から解放されたのに……』
スプリラは微笑み、淡く透ける手で俺の頬を撫でた。
『アナタを危険な目に合わせたわね』
『本当に死ぬかと思った』
『魔物と契約したままでは、天に旅立つこともできずに消えるところだったの……』
月光の下で見る彼女は、昼間の勝気な様子が嘘みたいに寂しげだった。うるんだ瞳が小さな輝きを放つ。
『スプリラ……何か俺にできることはない?』
『どうして?』
彼女の身勝手に振り回されたことを、俺は責めることができなかった。
『悔しい、からかな。せっかく居場所がわかったのに、子供に会えないなんてあんまりだよ』
俺自身が一度は死んだ人間だけに、スプリラの気持ちが痛いほど理解できた。
彼女は少し考えて「秋分」とつぶやいた。
『秋分までに私の子を探しておいてくれるかしら?』
『わかった』
秋分……シーズンイベントか。
『貸しができたわね』
スプリラの涼しげな目元から、涙が零れ落ちた。魂だけの存在となった彼女の涙は、どこにも受け止められることなく消えていった。その姿とともに。
スプリラは天へと旅立った。
「今のはフラグ……と言うんでしたっけ?」
「雪村さん。聞いていたの?」
最後のほうだけ、と彼は小さく笑みを浮かべた。夜の攻略対象者は、暗がりの中でも表情がよく分かる。
「……イベント報酬、手に入りませんでしたね」
「ごめん」
俺は海に向かって砂を蹴った。イベント報酬の条件は魔物退治の貢献度三十パーセント以上だ。俺は何も貢献していなかった。
没になったシナリオを追いかければ、ゲームの裏をかける。そんな希望が残っていただけに、今回の失敗は痛い。
波の音に耳を傾けていると、雪村さんがつぶやいた。
「魔王を討伐するのが、少し怖くなりました」
驚いて彼を見ると、光る背中が見えた。
「イベントで倒す魔物の最後の一体が倒されたのと、あなたが海に落ちたのは、ほぼ同時でした」
シーズンイベント中、雪村さん含め攻略対象者たちはゲームの支配下にある。スプリラと契約していた魔物との遭遇は、ゲームのシナリオにない出来事だ。あの時イベントが終了していなければ、俺が助け出されることはなかったかもしれない。
「間一髪だったのか」
「はい。魔物に気づいた時の先生方や先輩の対応は、迅速なものでした。僕は、ただ茫然と見つめることしかできなかった」
「俺もそうだった」
魔力を魔法具に貯めるため、イベント中は魔力制限が解除されていた。魔物に襲われそうになった時、俺は魔法を使うことができた。
一年生は魔力の制御を覚える段階だ。実技、それも攻撃に長けた魔法は数えるほどしか習得できていないが、いくつか使える魔法はあった。
それなのに、怖くて何もできなかった。
頬の傷があった場所を指でなぞる。治癒魔法のおかげで痕も残らなかったが、刻まれた「死」という恐怖が、見えない傷を切り開いてこぼれ出てきそうな気がした。
「氷魔法だけでは駄目ですね」
「えっ」
魔王討伐をあきらめる流れかと思った。雪村さんは俺に振り向くと、静かに笑った。
「計画も立て直しです」
「ああ」
今の俺たちに魔王は倒せない。
「もっと強くなろう、雪村さん」
それでも、俺たちは魔王を倒す必要があった。
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