第20話
第7章 尾張名古屋は城でもつ
1
三重県の津は昔から伊勢神宮で
一六一五年、
中日新聞社は三の丸の内側に建っている。
「ほんとはここ、国有地なんだぞ」
先輩社員たちが笑って教えてくれた。
真偽はともかく、国有地だと思われる場所に唯一建つ民間の建物が中日新聞社だというのは確からしい。歴史的経緯があるのだろうが、いかにこの会社がこの地区で別格かということである。
社屋が大きいだけではない。
柱が太い。
壁が厚い。
どの角度から見ても堅固な造りで、まさに城塞そのものである。実際、
駐車場には高級車がずらりと
十二月に中日スポーツ総局長と局次長、そして整理部長と報道部長に挨拶してから、年内、私は
ときどき父の飼う秋田犬の
年月からすれば
明けて平成四年、一月二日に私は嫌々出社した。
「二日から来るのじゃ」
中日新聞社の人たちは中日スポーツ総局を「中ス」と縮めてよぶ。その中ス整理部長の
「業務命令じゃ。二日から来るのじゃ。あたりまえじゃ」
井村さんが広島弁なのは原爆孤児だからだ。本人からではなく部下の何人かが教えてくれた。原爆で生き残った彼は遠く離れた親戚の家に引き取られて大学まで出してもらったという。
「だから性格がひねくれてるんだよ」
部下たちは容赦なく陰でそう言うので、あまり慕われているようではなかった。
今度はこの人か……。
私は
身の丈は一七〇センチくらいあるのでこの世代としては大きなほうである。新聞社はみなそうだと思うが部長以上はスーツだ。しかし整理部の人はたいていサンダルを履いているので変な恰好に見える。
どうしても
年末に井村部長に言われていたので初日は午後三時に出社したが、スポーツ紙は朝刊だけなので整理部には数人しかいなかった。
ほとんどの机が空いていた。
報道部にはそれよりは人がいるがやはり多くない。試合などの取材へ行っているのだろう。芸能部などには半分くらい座っており、資料をいくつも開き、原稿用紙に文字を埋めていた。新聞社はどこも同じだろうが、局内にあるテレビはすべてついており、それぞれ異なる番組が流しっぱなしになっていた。
私は机に座っている人たちのところを一人ずつまわった。
「
挨拶を繰り返した。
「北海タイムス社という北海道の新聞社から来ました」
そう言うとみんな興味深そうに質問を連発した。
北海タイムスと較べるとのんびりした人が多い。おそらく仕事が北海タイムスほどは詰まっていないからだろう。
頭を下げては別の人のところをまわる。
「よろしくお願いします。北海タイムスから来ました」
「いやいやいや。北海道かね」
私の手首や裾をつかんで話をやめない人もいた。仕事を干された人たちだろうか。その話も強引に切って、私は別の席へまわる。そして井村整理部長のところに戻って「どこに座ったらいいですか」と聞いた。
「うるさいやつじゃ。適当なところに座っておればいいのじゃ」
ほんとうに忌々しそうに言った。
むかっときたが顔に出さないようにして空いているところに座った。今日付の中日スポーツを
「とりあえずこれをやってくれ。前出し面だ」
大きな封筒を数枚差し出した。
「わかりました」
受け取って開くと、それぞれにモニター原稿や手書きの生原稿、写真などがたくさん入っている。
どうやら封筒ひとつにひとつの面がまとめてあるようだ。
封筒は三つある。
つまり三つの面を作れということだ。
前出し面はフューチャー面などとも呼ばれ、その日に起きた事件記事などではなく、読書面や文化面など、先に出稿元が出し、整理部が組んでおく紙面である。最終的にはニュース面の前日などに降版し、ニュース面の降版のダンゴとバッティングしないようにする。
「倍尺、このへんに余ったのがあったと思う」
デスクがそのあたりの机の引き出しをいくつか開き、倍尺やサインペン、鉛筆、セロハンテープなどをくれた。
そして離れている棚の上を指した。
「割り付け用紙はあそこにあるから」
私は頭を下げてそこへ行き、用紙を三枚手にして机に戻った。
封筒を開いてひとつずつ確認していく。
《トラベルランド》
《ヘルス》
《レジャー》
それぞれ旅、健康、パチンコを扱っている。指示書には広告の段数が《5》《3》《5》とある。倍尺を確認した。北海タイムスのものとはかなり違うスマートで長いものだった。割り付け用紙の色も違うしデザインも違う。なんとなく居心地の悪さを感じながら私は仕事を始めた。
まわりに座るベテランの整理部員や校閲の人たちと話しながら作業した。やはりみんな札幌のことや北海タイムスのことを知りたがった。北大柔道部出身だということもすでに知れ渡っており、いろいろ聞かれた。私は適当に答えながら作業を続けた。早く帰って
二時間ほどでそれを仕上げ、デスク席へ行った。ニュース面の人たちが少しずつ出社して、ぽつぽつと座っていた。
「終わりました」
私が言うと、デスクは驚いた顔をした。
「もう?」
「はい」
「こんなに早く?」
「早いですか」
「早いよ。前の会社ではこんなに早くやってたの?」
「そのままニュース面に入るんで、前出しを早く終えないと仕事がグチャグチャになっちゃうんです」
「一日に何枚もやってたの?」
「はい」
「今日はもういいから。一枚でいいから」
「いや。三枚やってしまいましたよ」
「三枚?」
「はい」
「一枚じゃなくて?」
「はい。三枚終えました」
デスクが顔をしかめた。
「それはだめだよ」
「どうしてですか」
「組合で整理部は一日一枚って決まってるんだよ」
今度は私が驚いた。
2
どうして札幌を離れてしまったのだろうという気持ちがあった。
ここは何と退屈なところだろうと思った。
休みが多いので家で過ごすことが多かった。
二日ほど出社すると休みがあった。
長いときでも三勤である。
とにかく休みばかりだという印象を私はもった。
しかし休みといっても名古屋のベッドタウン春日井市である。JR春日井駅から五キロほども離れているので当然、歩いていける場所に酒を飲むところはなかった。だから夜は暇で仕方なかった。
大学時代住んだ北18条
北海タイムス時代の後半に暮らした
一月なのに雪がないから名古屋はアスファルトも街路樹もビルも人も
はじめレギュラーでついた面担は半分がニュース、半分が前出しで構成されている釣面であった。私は午後三時に出勤し、午後十一時半のタク送りで、十五キロほど離れた自宅に帰った。はじめの日、タク送りの乗り場所を聞いて十一時半にそこに行くと、相乗りの制作局の人に「遅い」と怒られた。
「十一時半ですよね」
私は時計を見ながら言った。
別の社から来たんですと挨拶すると「うちはタク送りは十五分前に出るという暗黙の了解があるんだ」と不機嫌そうに言われた。つまり規定時間より、十五分早く帰るのだ。ここでも私は北海タイムスと較べてしまい、溜息をついた。溜息はもちろん中日への失望ではない。自分への失望である。崖下のとんでもないどん底から、頂上に近い待遇の会社に来てしまった罪悪感である。
中ス総局は五階にあるが、スペースがとにかく狭い。
五階は中日新聞本紙の編集局と中ス総局に分かれている。スペースでいうと中日新聞本紙のほうが十倍、いや二十倍くらいありそうだ。いくらあちらのほうが人が多いとはいえ、中スは押し込まれすぎではないか。
「中スだけどいいかな」
合格したと電話してきた人事部次長が言ったのはこういうことだったのかもしれない。
窓もない。だから外を見たいときは写真部へ行ったり本紙のエリアへ行ったりした。
しかし中スの先輩たちは毅然と胸を張っていた。その様子はまるで野武士のようだった。先輩たちが自信をもって仕事をしている理由を知ったのは入社して二週間ほどたったころだった。
「うちの利益だけで五千人の社員の夏と冬のボーナスを叩きだしてるんだ」
整理部の先輩二人がこっそり教えてくれた。
中日スポーツ総局は、報道部、整理部、校閲部を合わせても百名ほどの人員しかいない。
この人数で六十五万部近い部数を毎日刷っている。
夏も冬も、一回のボーナスの社員平均額は百万円を超える。これをわずか百名で稼いでいるのだという。社内で独自の地位を得ていてもおかしくない。
「社全体では出世コースじゃない。でも俺たちが他の赤字部門を軽くすべて埋めてるからな」
先輩たちはそう言った。
しかも中日スポーツには他のスポーツ紙にはない特殊な状況がある。部数だけでいえば日刊スポーツやスポニチの
各家庭で家族みんなが読むので実質的な読者数は六十五万部の三倍くらいいる。さらにいえば日本で一番喫茶店が多いと噂されるこの地で、各店が客のために取ったりしているので、これはもう物凄い数になる。その影響力をもってドラゴンズや大相撲名古屋場所の動員をするのだという。
他県の観光スポットを中日スポーツの旅面で取り上げると、次の日曜日には名古屋ナンバーをはじめとする東海地方のナンバーの車で
こういった噂を聞いて先輩たちを見るうちに、この部署はすごいなと思うようになった。しばらくすると中スにはスポーツ経験者が多いこともわかってきた。インターハイに出た人や大学運動部の主将経験者なども多くいた。
ただひとつ馴染めないのは社屋全体に漂う泰平感である。それはそうだ。全国での販売網は持っていないが、愛知・岐阜・三重を中心とした東海圏での占有率は驚異的で、讀賣や朝日も中日新聞だけは仰ぐようにして見ていた。
殿様商売──。
私の頭にはその言葉がときどきよぎった。
名古屋城近くに建つ社屋のなかにいると特にその言葉を頻繁に思った。名古屋で新聞といえばそれは中日なのである。給与もよく福利厚生もしっかりしている。人気球団のドラゴンズも持っているし、多くの地元テレビ局の親会社でもある。中日にとって怖いものは何もない。しかしそれが私にとっては息苦しかった。私は北海タイムスの仲間を裏切ってここへ来たのだ。こんな好待遇で暮らしていいのだろうかと思い続けた。
ただし帰りにどこかへ飲みにいこうと思ってもお堀のなかなので飲み屋も何もない。何しろ城の土地なのだ。
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