銀河とさよなら
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イオス①
学校帰りの夕暮れは、いつも僕の心に小さな棘を刺す。
校庭ではまだ遊び足りない子供たちが、夕焼け色のボールを追いかけている。楽しげに笑う声が風に乗って耳に届くたび、胸の奥が少しだけきゅっとする。ポケットの中で小さく揺れる銅貨の存在を確かめながら、僕はアスファルトの坂道を早足に下っていく。
そうしないと、クラスメェトに意味の無く怒鳴ってしまいそうだったから。声が出ない様に空気を肺いっぱいに吸い込んで足を進め、どうにか校門の前でひと息ついた、その時だった。
「あれ、貧乏君だ」
背後から空気を裂くような声。
振り向かなくても、誰の声かはすぐにわかる。
数人の取り巻きを引き連れて、クラスメェトのアレンがいた。僕より背が高く、痩せているくせに腕っぷしだけは妙に強い。教室でも、いつも大声で他人を圧倒して弱い者に威張り散らす、嫌な奴だ。
僕の存在なんて眼中にないでいてくれればいいのに、どうしてか彼はいつも僕に絡んでくる。
ぼろぼろの鞄の肩紐を握りしめ、目も合わせず通り過ぎようとしたその瞬間。ガシッと、肩をつかまれた。
「どこ行くんだよ、暇だろ?貧乏君」
虫歯だらけの歯を見せて、アレンが底意地の悪い笑みを浮かべる。
「暇じゃない。今日は大事な仕事があるんだ。それに、僕の名前はイオス。貧乏なんかじゃない!」
「は?お前んち親父いないんだろ?だから学校終わりに働かされてんじゃん。ウチの父さんが言ってたぞ。お前と関わると、貧乏がうつるってさ。貧乏神に取り憑かれてる子供なんだってよ」
拳が勝手に動きそうになった。けれど、僕はぐっと耐えた。
本当のことだからだ。
父親はいない。母さんは無理が祟って、午後にはほとんど起き上がれない。教科書も先生がこっそり譲ってくれたお下がり。鞄は父さんの古いものを母さんが縫い直してくれたけれど、もう底が擦り切れてペンを落とすこともある。
「なんだよ、言い返さないのか? 情けな!!」
アレンの声が耳障りに笑う。
僕は乱暴に彼の手を振り払い、そのまま走るように職場へと続く道を進んだ。背後から聞こえる笑い声が、少し遠ざかっていく。
しっかりしろ。……母さんのために、牛乳を買わなきゃいけないのだから。
秋の空は、もうすっかり夜の帳を下ろしかけていた。茜色に染まっていた西の空が、ビロォドのような濃紺へと変わり始める。美しいそのグラデェションが、どこか寂しげに見えた。
街灯に火を灯す作業員が、通りにぽつぽつと光を点していく。オレンジの灯りが灯るたびに、ひんやりとした空気が少しだけやわらぐ気がした。
もし、あの光をたくさん集められたなら。家の中も、もう少し暖かくなるだろうか。隙間風の吹く部屋も、夜の勉強も、ほんの少しだけましになるかもしれない。
……そんな叶わない妄想が、ふと胸の中でふくらんだ。
牛乳屋の扉を開けると、カランカラン、と古びたベルが鳴る。
「おや、イオス。学校、もう終わったのかい?」
いつもの優しい声。店長は大きなお腹を揺らしながら、冷蔵庫から牛乳瓶を取り出し、タオルで丁寧に水滴を拭ってくれる。
僕は銅貨をそっとカウンターに並べた。
「すみません、お願いします」
「偉いねぇ、十三で毎日働いて。うちの馬鹿息子に爪の垢でも飲ませたいよ」
笑いながら、店長は小さなチーズも一緒に袋に入れてくれる。
「チーズ代……ないです」
情けないくらい小さな声で言うと、彼はにこりと笑った。
「いいんだよ。頑張ってるご褒美さ。またおいで」
その言葉に僕は深々と頭を下げ、袋を胸に抱えて店を出た。
カラン……とベルの音が遠くで揺れ、扉が閉まる音がした――その瞬間。
世界が、音を失った。
目の前が、すとんと闇に沈む。自分の瞬きさえもわからなくなる様な、重く深い暗闇。耳に届く音は一切なく、息をする感覚すら曖昧になる。
それは、まるで深い海の底に引きずり込まれるような感覚だった。
意識が、ゆっくり、けれど確実に、闇に溺れていく。
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