銀河とさよなら

adotra22

イオス①

 

 学校帰りの夕暮れは、いつも僕の心に小さな棘を刺す。



 校庭ではまだ遊び足りない子供たちが、夕焼け色のボールを追いかけている。楽しげに笑う声が風に乗って耳に届くたび、胸の奥が少しだけきゅっとする。ポケットの中で小さく揺れる銅貨の存在を確かめながら、僕はアスファルトの坂道を早足に下っていく。

 そうしないと、クラスメェトに意味の無く怒鳴ってしまいそうだったから。声が出ない様に空気を肺いっぱいに吸い込んで足を進め、どうにか校門の前でひと息ついた、その時だった。

「あれ、貧乏君だ」

 背後から空気を裂くような声。

 振り向かなくても、誰の声かはすぐにわかる。

 数人の取り巻きを引き連れて、クラスメェトのアレンがいた。僕より背が高く、痩せているくせに腕っぷしだけは妙に強い。教室でも、いつも大声で他人を圧倒して弱い者に威張り散らす、嫌な奴だ。

 僕の存在なんて眼中にないでいてくれればいいのに、どうしてか彼はいつも僕に絡んでくる。


 ぼろぼろの鞄の肩紐を握りしめ、目も合わせず通り過ぎようとしたその瞬間。ガシッと、肩をつかまれた。

「どこ行くんだよ、暇だろ?貧乏君」

 虫歯だらけの歯を見せて、アレンが底意地の悪い笑みを浮かべる。

「暇じゃない。今日は大事な仕事があるんだ。それに、僕の名前はイオス。貧乏なんかじゃない!」

「は?お前んち親父いないんだろ?だから学校終わりに働かされてんじゃん。ウチの父さんが言ってたぞ。お前と関わると、貧乏がうつるってさ。貧乏神に取り憑かれてる子供なんだってよ」


 拳が勝手に動きそうになった。けれど、僕はぐっと耐えた。


 本当のことだからだ。


 父親はいない。母さんは無理が祟って、午後にはほとんど起き上がれない。教科書も先生がこっそり譲ってくれたお下がり。鞄は父さんの古いものを母さんが縫い直してくれたけれど、もう底が擦り切れてペンを落とすこともある。


「なんだよ、言い返さないのか? 情けな!!」

 アレンの声が耳障りに笑う。

 僕は乱暴に彼の手を振り払い、そのまま走るように職場へと続く道を進んだ。背後から聞こえる笑い声が、少し遠ざかっていく。


 しっかりしろ。……母さんのために、牛乳を買わなきゃいけないのだから。

  



 秋の空は、もうすっかり夜の帳を下ろしかけていた。茜色に染まっていた西の空が、ビロォドのような濃紺へと変わり始める。美しいそのグラデェションが、どこか寂しげに見えた。


 街灯に火を灯す作業員が、通りにぽつぽつと光を点していく。オレンジの灯りが灯るたびに、ひんやりとした空気が少しだけやわらぐ気がした。

 もし、あの光をたくさん集められたなら。家の中も、もう少し暖かくなるだろうか。隙間風の吹く部屋も、夜の勉強も、ほんの少しだけましになるかもしれない。


 ……そんな叶わない妄想が、ふと胸の中でふくらんだ。


 


 牛乳屋の扉を開けると、カランカラン、と古びたベルが鳴る。


 「おや、イオス。学校、もう終わったのかい?」

 いつもの優しい声。店長は大きなお腹を揺らしながら、冷蔵庫から牛乳瓶を取り出し、タオルで丁寧に水滴を拭ってくれる。

 僕は銅貨をそっとカウンターに並べた。

「すみません、お願いします」

「偉いねぇ、十三で毎日働いて。うちの馬鹿息子に爪の垢でも飲ませたいよ」

 笑いながら、店長は小さなチーズも一緒に袋に入れてくれる。

「チーズ代……ないです」

 情けないくらい小さな声で言うと、彼はにこりと笑った。

「いいんだよ。頑張ってるご褒美さ。またおいで」

 その言葉に僕は深々と頭を下げ、袋を胸に抱えて店を出た。


 


 カラン……とベルの音が遠くで揺れ、扉が閉まる音がした――その瞬間。


 世界が、音を失った。


 目の前が、すとんと闇に沈む。自分の瞬きさえもわからなくなる様な、重く深い暗闇。耳に届く音は一切なく、息をする感覚すら曖昧になる。

 それは、まるで深い海の底に引きずり込まれるような感覚だった。

 意識が、ゆっくり、けれど確実に、闇に溺れていく。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る