霊峰の彼方

「あら、早いわね」

 凪雫がいつもと変わらぬ調子で柳ヶ森神社に姿を現した。

「凪さんこそ早いじゃないですか。まだ30分前ですよ」

「そうね。少し気持ちの整理もしたかったし、ここは静かで落ち着く場所だから」

 凪が境内に入ると何処に潜んでいたのか、種種雑多な猫の群れが彼女を取り囲むように現れた。

「猫……こんなにいたんですね。僕が散策していたときには出てこなかったのに」

「私は調査以外にも何度かここに来ているから。いつも人より猫の方が多いのよ、ここ」

「猫と神社って相性いいですよね……」

 動物をあやす凪を眺めながら、柊は再び人生について考え始めた。


「柊君、次元の扉なんて本当に開くと思う?」

「ええ。そう信じています。昴さんとカスミンが共同作業をしているというだけで、何だか信じられる気がします」

「……そうね。彼らが今取り組んでいることって、その扉が開かれた後のことを想定した保険のようなものよね。つまりこの世界とは別の次元で起こること」

「はい。夜久さんの言う通り、別次元へ行くことがイレギュラーだと考えてしまうくらい、僕たちはこの世界に馴染んでしまったんだと思います。そもそも僕らは不思議な力でこの世界にやってきた未来人なんですからね」

「まったくだわ」

 21世紀の生活に染まりかけていた未来人は、夜久の言葉によって自分たちがVRLのプレイヤーであることを思い出していた。


「なんだ、早いじゃないかおふたりさん」

「あまねっち、雫氏、おはよう!」

 一波鋭と大空光が到着した。

「おはようございます。今日は……よろしくお願いします」

 柊はやはりこの21世紀の住人を巻き込んでしまったことに少なからず罪悪感があった。

「何を今さらかしこまってんだよ。俺はついに木佐貫の野郎に会えるかと思うと感謝の気持ちしかないぜ! お、そうそうこの日のためにカメラ、新調したよ」

 一波は首から下げた最新式のカメラを自慢げに構えてみせた。

「あ……いいですね。撮影できたら超スクープですからね。ひかりんも色々ありがとう。よろしくね」

「もちろんだとも! まあ、そもそも私の解答が正しいという保証はないからね。こじつけもあるし」

「それは困ったわ。正解しないと私たち死んじゃうんだから」

 凪は笑顔で突っ込みを入れた。

「あ……すみません……」

「嘘、冗談よ。死ぬとか実感わかないし。ただのはったりかもしれないし。それよりあなたがいなかったとしたら、解と呼べるだけのロジックが完成したか怪しいところね。だからあなたには本当に感謝している。そう、みんなやれることはやったし、あとは神のみぞ知る、ってこと」

 凪は死の可能性を懸念するよりも解に至るまでの3年間に思いを馳せ、その一つひとつがこれまでのVRL経験とは比較にならないほどの実りをもたらしたことに満足していた。そして悔いのない人生とは、本来このような体験を多く積むことで得られるのではないかと考えていた。

 それは間違いなく、自己同一性を担保できないVRLというシステムでは得られない。

 自分という存在が唯一無二である、と自覚しながら経験を積むには、記憶を保持したタイムトラベルでなければならない。『特例モード』は彼女にそれを気づかせた。一波と柊の前で見せた涙の裏には、凪雫本来の感情の発露があった。


「お、集まってるね諸君!」

 かつて桜野桜としてネットアイドル界を騒がせた朝来野春が、ホムちゃんと呼ばれる霧靄霞を引き連れて到着した。

「おはようございます。ローマでの調査、本当にご苦労様でした。ホムちゃんも大活躍だったそうで」

「いやいや冗談抜きでほんと大変だったよ! まさか獄中生活を送ることになろうとはね。アマネくんもなぎちゃんもご苦労様。そして巻き込まれてしまった21世紀のおふたりさん、気の毒ではありますがしばしお付き合いを……」

「桜ちゃんだ! あ、すみません春さん、今日はとても桜ちゃんっぽいメイクだったんで!」

 ネットアイドル事情にも明るい光は、春が往年の桜メイクを施して登場したことに、目的を忘れて感激していた。

「なんか懐かしくなっちゃってさ。人生最後かもしれないし今日はこれで、って思ったのよ」

「最後……ですか……」

「あ、ごめんごめん。気にしちゃうよね。でも大丈夫だよきっと。すばちゃんがいるし……ってまだ来てないのかい!」

 春が辺りを見回すと、階段上から頼れる相棒の声が響いた。


「待たせたな。とりあえず完成した。テストまではできなかったけどまあ、大丈夫だろう。なあカスミくんよ」

「デバックは完了していますので大丈夫かと」

 今しがた作業を終えた様子の夜久昴がラーメンを好む方の霧靄霞と姿を現した。

「お疲れさまでした。昴さん、そしてカスミン。徹夜明けですよね……大丈夫ですか、体調」

「柊くん、今日死ぬかもしれないっていうのに体の心配はないんじゃない? いい感じだよ。ナチュラルハイってやつだよ」

「ボクは問題ありません」

「…………」

 カスミンのひと言が一同を笑いの渦に巻き込んだのは言うまでもない。

「君が育てたカスミくんは冗談まで言えるようになったんだな、凄いよ」

「いえ、昴さん、カスミンはいたって真面目です。多分天然なんですよ」

「天然……そうならそれこそ凄いわ!」

「違いない!」

 春は無意識にその言葉をはいた。


「ところで夜久さん、そろそろ時間になるけど、私たちは何かする必要あるかしら?」

 凪は懐中時計を取り出して時刻を確認した。

「いや、俺たちはもう条件を満たした。ここにいればいいだろう。問題はその後だ。そこから先、何が待っているかは俺も分からない。だから今まである作業をしていた。そのプログラムを動かすことになるかは、あちらへ行ってみないと分からない」

「そう……分かったわ。臨機応変、ってことね」

「ああ。そうだ」


 ――秒針が運命の時間まで60秒を切った。

 話すものはもう誰もいない。


 静まり返った柳ヶ森神社の境内に生暖かい風が通り抜けた。すると数十匹の猫がどこからともなく現れ、柊たちを囲った。と次の瞬間、大地がゆっくりと、そして大きく揺れた。

 どこかで感じたことがある奇妙な揺れに、一波と光は3年前を思い出した。

「鋭ちゃん、これって……」

「あ……ああ、間違いねえ、3年前のあの地震にそっくりだ。そうか、やはりそういうことだったのか……」

 不可解な深発地震の正体は次元の扉が開くときの現象であり、ジャーナリストの直感が正しかったと、一波は小さく頷いた。

 猫の群れは円陣を形成して柊たちを囲い、一斉に鳴き声をあげて瞳から眩い光線を放った。

「目を閉じろ! 光線をまともにみると目がやられるぞ!」

 夜久が注意を促した。

 全員が目を閉じると、その熱源は突如として消えた。


「昴さん……目、開けて大丈夫でしょうか……」

 柊は念のため確認をする。

「柊さん、皆さん、もう大丈夫です」

 カスミンは既に問題のないことを確認していた。いや、霧靄霞にとっては目を閉じる必要はなかったのだろう。


「――わぉ……」

 目の前に広がる幻想的な光景に柊は息をのんだ。

 足元一帯には薄桃色の煙幕が張られ、天に近づくに連れて白んでいき、視界が明瞭に開かれていく。

 遥か彼方の小高い丘に、鳥居と社のような建造物を確認できたが、それ以外視界に入るものは何もなかった。

「差し詰めエデンの園、ってとこかしら」

 凪が『木佐貫黙示録』のメタファーである聖書のエピソードから、この異質な空間をそう表現した。

「いや、それにしては殺風景すぎる。楽園というよりはむしろ涅槃。このピンクグラデーションは蓮の花を連想させる」

 この不可思議な情景を例えるには仏教世界が相応であると夜久には思えた。

「おもしれえ、キリスト教的には創世記、仏教的には悟りの境地、その先に神の社ってのは乙だね。各々の宗教が定義する始まりと終わりが入り混じる世界、こいつは画になるぜっ……」

 一波は異界に足を踏み入れたことに疑いを持たなかった。なぜなら、今自分がその世界に立っている現実が何よりも真実であるからだ。彼はこれを自分が知る概念世界の知見で解釈を試みようとしたのか、無意識に新調したカメラのシャッターを切った。


「とりあえず、行こっか。あれっきゃないんだし」

 春は視界に入る神の社を目指すこと以外、選択肢はないことを言葉にした。

「違いない! レッツラゴー!」

 何か恐ろしい世界が待っているに違いない、と身構えていた光だったが、予想に反して美しく幻想的な世界が現れ、彼女の好奇心は浮き足立っていた。

「よし、行こう。俺とカスミくんが殿を務める。何か異変を感じたら打てる手だてを考える」

「昴さんありがとうございます。心強いです。僕が先頭を行きます」

 柊が先陣を買って出ると一波が制止した。

「待て、ここは誕生日順だ。鳥居までの道中、何もないとはいえない。夜久は12月でキリモヤは11月だろ、殿ってのは既定路線だ。先頭は1月の俺が担当する。次が柊くん、凪ちゃん、春、ひかりんと続け」

「……そうですね。一波さん、ありがとうございます。気が回りませんでした」

「ジャーナリストの勘ってやつよ。まったく関係ないかしれないけどな」

「いえ、そんなことはないと思います。足元は霞んでいてよく見えませんし、何かしらのトラブルで底が抜けることだって考えられます。念には念を入れましょう」

「そうだな。ここはまったくもって未知の世界だからな。なあ柊くんよ、俺は本気で驚いてるんだぜ。こんな空間に立ってしまったという紛れもない事実は、俺にとっての真実が、その定義が大きく変わってしまったことを意味するからな」

 一波鋭にとっては真実こそが全てであり、その追求こそがジャーナリストの使命であると自負していた。今ここに広がる幻想空間を真実と認めるならば、今後すべての事象における前提を覆さなければならない。そう考えると 一波は少々憂鬱になった。

 一行はジャーナリストの勘を頼りに、誕生日の早い順に隊列を組んで鳥居を目指した。


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