魔法伯爵は追放聖女に一途な愛を注ぐ

星名柚花

01:不遇な公爵令嬢

 食堂のほうから生徒たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。

 王侯貴族の子女が集められた学園は昼休憩の喧噪に包まれていた。


 皆が和気藹々と食事を楽しむ中、公爵令嬢エレンティーナ・ローズ・グラシーヌは人気のない中庭の外れのベンチで唇を噛んでいる。


 泥棒の濡れ衣を着せられ、そこかしこから冷たい視線を浴びせられれば食欲も失せるというものだ。


 エレンティーナは風に揺れる銀糸の髪を押さえつつ、親指で青緑色の目を擦った。


(私が泣くのを見ても、グリアム様は動揺なんてなさらないでしょうね。むしろ同情を引くつもりならよせ、不愉快だ、などとお叱りを受けてしまいそう。泣いているのがビアンカなら取り乱し、大騒ぎするでしょうに)


 右手に咲く沈丁花の甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 濡れた目で見上げた春の空はどこまでも青く高い。

 中庭の花々は競い合うかのように咲き誇り、花壇に蝶が舞っている。


 こんなにも世界は美しく、目に映る全てが春の喜びに溢れているというのに、エレンティーナの心だけが灰色だ。


 今頃第この国の第二王子グリアム・ヘデラ・ミバークは食堂で男爵令嬢ビアンカ・レモラと談笑していることだろう。

 エレンティーナというそこに在るべき婚約者には見向きもせず。


(ただの政略結婚。最初から愛なんてないことはわかっていた。でも、私はグリアム様に愛されるためだけに自分を磨いてきた。どの科目でも私が一位なのよ。この前のテストだって満点だった。昔もいまもこんなに努力しているのに、やっぱり私では駄目なの? 半分しか貴族の血を引いていないから? 私がカレン様の代わりだから?)


 本来ならば父――グラシーヌ公爵と義母の愛娘のカレンこそがグリアムの婚約者だ。


 不幸なことにカレンが流行り病で亡くなってしまったため、急遽父は若い頃の過ちで隣国の平民との間に作った娘を探した。


 それが自分だ。


 十歳のときにグラシーヌ公爵に引き取られたエレンティーナはグリアムの良き妻となることを求められた。


 エレンティーナは努力を重ね、淑女としての礼儀作法を身に着けた。

 それから五年後、エレンティーナは王都にあるこの学園に入学し、グリアムと日々交流を深めた。


 しかし、三か月も経つとグリアムの心は完全に離れ、いまでは人目もはばかることなく四六時中ビアンカの傍にいる。


 半月前、ビアンカに瘴気を浄化できる力があることがわかった。

 それからというもの、グリアムはますますビアンカを溺愛し、エレンティーナを邪険に扱うようになった。


 一週間前には多くの生徒たちがいる教室で『救国の大聖女と同じ名と同じ姿を持ちながら無能とは可哀想に』と言われた。


 言い過ぎだと諫めたビアンカに『ビアンカは優しいな。やはり君こそ聖女に違いない』などと言いつつ、エレンティーナの目の前で堂々と頬に口づけする始末。


 もう優しかったグリアムはどこにもいない。

 グリアムにとってエレンティーナは恋の障害、邪魔者でしかないのだ。


 あまりの嫌われぶりを見て、どっちつかずの蝙蝠や風見鶏を決め込んでいた生徒たちもビアンカ側についたほうが益になると判断したらしく、エレンティーナの誹謗中傷を囁くようになった。


 おとついは誰の計らいか知らないが、グリアムがビアンカに贈ったブローチが何故かエレンティーナの鞄から発見された。


 おかげで現在、エレンティーナは完全に孤立している。


 もういっそグリアムの望む通り婚約破棄し、学園も退学してしまいたいが、そんなことを両親が許すはずもない。

 グリアムと結婚させるためだけに両親はエレンティーナを引き取ったのだから。


(できることなら全てを捨てて逃げてしまいたい……けれど、行く当てもないわ。おばあちゃんが生きていたらな……)


 ゆっくりと流れていく雲を見上げ、隣国イリスタリアの貧民街で祖母と暮らしていた日々を思う。


 野菜の切れ端が浮かんだスープに、硬いだけの味のないパン。

 継ぎ接ぎの服に傾いた屋根。


 蝋燭がもったいないからと、陽が落ちたら早く眠り、太陽と共に目覚めるような、貧しく、苦しい生活だった。


 それでも、祖母はいつだってエレンティーナを愛し、慈しんでくれた。


 皺だらけの手で優しく頭を撫でてもらうのが好きだった。

 エレンティーナの胸にある、何の価値もない青い石の首飾りも祖母がくれたものだ。


 グリアムには馬鹿にされたけれど。

 制服の下に隠したこの首飾りこそ、エレンティーナの宝物だ。


(美しい宝石もドレスも、食べきれないほどの贅沢な料理も何も要らない。ただあの頃に戻りたい。おばあちゃんに会いたい)


 地面がぼやけて滲む。

 公爵令嬢になってから、エレンティーナは何不自由ない生活を送ることができた。

 でも、一番欲しかった愛だけは誰からも与えられなかった。


(寂しい。私、寂しいよ、おばあちゃん……『幸せになりなさい』って言われたけど、私はいまちっとも幸せじゃない……)


 両手で顔を覆いかけたそのとき、視界の端で動くものを見た。

 反射的にそちらを目で追う。


 一匹の黒い猫が灌木の下にいた。


 猫は印象的な赤い目で、じっとこちらを見ている。

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