第8話

 嫌な夢にうなされた。こんな感覚はあの時以来だ。自分の足元から何か黒いヘドロのようなものが自分を覆って呑み込もうとするようなあの夢。ベッドのシーツはぐっしょりだ。僕は身支度をすぐに整えて部屋を飛び出した。


「いよいよだな」


僕は靴棚の上に掛けられている帽子を手に取り、マスクを詰めてあるボックスから一つ乱暴に取り出した。玄関にあらかじめ置いていたバッグを掴んで家を出た。家の前には黒いバンが停められており、そのまま乗り込んだ。黒いバンに乗り込むと何も言わずとも運転席の男は車を走らせた。男は清掃員の服装をしている。


「頼む」


「へい」


目的地は既に頼んでおいてある。僕はすぐに眠りについた。少しでも睡眠時間が欲しい。これからは時間の勝負だ。かなりの体力を消耗してしまう。


 現実と夢のはざまでしばらく揺られていると、車はゆっくりと止まった。


「着きました」


「…………」


「着きましたよ?」


「…………」


「まったく。着きましたよ」


僕は誰かに身体をゆすられる。虚ろな目で僕を揺する人物へ視線を向ける。小さく欠伸をすると車の中でのけ反るように体を伸ばす。


「やっと起きられましたか」


「ああ。すまない。そろそろ行くとするよ」


「お気をつけて」


車の中から顔を覗かせると、周囲を見回して人の姿がないことを確認する。それからゆっくりとステップを降りて、右へ左へ視線を向けて想定通り警官が見えた。車のサイドガラスを二度叩き、運転席の人物がこちらへ視線を向けると手を上げた。すぐに車は発進して、豆粒ほどの大きさになってしまった。僕はため息をついて街路樹に体を屈め、少し大きめの声で「あれ……おっかしいなぁ」とわざとらしく頭を掻いた。


「どうされました?」


かかった! 僕は少し口端を上げて、警察官を見上げてしまう。久しぶりのことで口元が緩んでしまった。いけない、いけない。僕は改めて口元を引き締めて、顔を上げる。


「あの。落とし物をしてしまって」


「そうですか……ところで何を?」


恥ずかしいそぶりを見せながらわざと視線を逸らす。再び街路樹へ視線を戻して、何かを探しているふりをしながら答える。


「うーん。それがお恥ずかしい話なんですが、ポケットから鍵を落としてしまって」


「なるほど、なるほど。おうちの鍵とかだと困りますもんね」


警官は僕の横に並ぶように中腰になり、辺りを探し始めた。僕はそれを横目に何もない街路樹の土を掘る。


「ありがとうございます…………同居人はいないので、鍵を無くすと終わりなんですよ」


「はは、分かります。僕もよくカギを無くしたりなんか――」


警察官がそう口にした直後、勢いよく腰元に隠していたサバイバルナイフを突き立てる。


「ぐふっ」


警官はあまりにも突然のことに、こちらを振り向く顔は判然としていなかった。更に刺された腹部を押さえる手に流れる液体が、自分の血液だと気が付くのに数秒要していた。その隙に背後から縄を回して警官の首を絞める。


「んんんんん」


相手も警察官だ。普段通りなら僕の腕力では到底叶わない。しかし、相手に傷を負わせてから、それを確認するのにかかっている間、背後へ回り込み首を絞めればその腕力も関係ない。警察官は数秒間、自身の首を絞める縄を必死に引きはがそうとしていたが、次第にその手は脱力してぐったりと首を垂れた。


「ふぅ」


「手がしびれたな。次は後始末だな」


縄から手を離して、手首を掴んでぐるぐると回す。段々と手の感覚が戻ってくる。それから警官の服の中に手を入れて弄り、警察手帳を取り出すとぱらぱらとページを捲った。


「船橋孝弘……階級は巡査か」


真っ白なページを下に地面へ置き、ペンを船橋の内ポケットから取り出して刺した腹に突き立てる。そのペンを船橋の身体の中で、ぐるっと一周させた。


「インクはこんなもんだろう」


そのまま血のついたペンで文字を書いて手帳を閉じた。船橋の近くに手帳を置くと、その上からペンを突き立てる。

その後、船橋を締め上げた縄をバッグに仕舞い、その中からアルコール消毒液と、綿のハンカチを取り出した。船橋の首に触れてアルコール消毒液を垂らしたハンカチで索状物の痕跡が残る部分を拭き取った。もちろん跡が消えることはないが、首筋に残る繊維などを拭き取った。後は索状物の痕跡が残っていても問題がないように、首をサバイバルナイフで切る。骨まで達してから少し切って骨が切れず、断念したように見せて一周まわす。真ん中に大きな種があるアボカドのように片側を切ったらもう片方も同様に切る。一周回って切れたら後は放置でいい。これ以上の痕跡はこの場にいらない。後は車を呼ぶだけだ。


「はぁ疲れた」


僕は公園から普通のサラリーマンのような格好をして出ていき、途中まで道を歩いてから大通りへ出た。携帯で車をこちらへ運んでくるよう依頼すると、僕の前でタクシーが止まった。僕は眉を顰めて車の中を覗き込むように首を傾けて運転席をみる。中には見覚えのある人物が、タクシーの運転手の格好をしていた。そのまま中へ乗り込むと、掃除屋がこちらを向いて会釈をした。


「すみません。今出せるのがこいつしかなくて」


「構わないが、一言ほしかったな」


「それは失礼しました」


「まぁいいよ。早く出してくれ。もう寝たい。明日も早いから」


「承知いたしました」


大通りだとまだ明かりも多い。運転手へ住宅街の方へ出るよう伝えると、急に周囲から明かりが消えた。僕はそれに安心すると、ゆっくりと呼吸をしながら目を瞑る。タクシーはそのまま宵闇へと消えていく。

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