真夜中のルヴァンシュ

@kiiiguma

第1話


「これじゃダメだ」


棚に残る埃を指でつーっと拭い取る。『彼』がそれを見せつけるように突き出した。僕はそれに目を凝らす。指先についた埃は室内の空調でゆらゆらとしていた。台所にある棚の上に積もっていた埃だ。その中にあったはずの包丁を使った僕に対する説教だ。

僕は殺害に、シンクから持ってきた包丁を適当に見繕って凶器とした。これは『彼』から僕への罠だったのだろう。そこを抜かれば、警察の目はあざとい。棚の埃に気が付き、包丁の出所を調べることになるだろう。この包丁自体はどこでも入手可能なものであるが、そもそもこの包丁を偽装工作できるものは多くない。

そこを探されれば、一般の人間であれば即刻逮捕へつながるだろう。彼の指摘はそこにある。


「自分の存在を残すな」


『彼』は日ごろからよく口にしている。口癖のようなものだ。彼の『殺しの流儀』というやつだ。人が存在しなければそこで殺人が起きたのか、失踪したのか判別はつかなくなる。

そして人と深くかかわってしまったらその人間は殺すなと。その関係性自体が存在を残すことへ繋がる。だから何日も、何日も日を置いて関係性を浅くしていって殺せと。

僕はそんなことしなくても死体も、証拠も残らなければ警察が動くことなんてないだろうと言ったことがある。ひどく怒られた。


「そういうことではない。関係性があるというだけで、奴らは目を付けて長く時間をかけて立証していく。彼らの拘束時間は一日、二日ではきかないんだ。五年。下手したら十年近く疑いが続くことだってある」


『彼』にとっては時間効率がめっぽう悪いらしい。人一人殺すのに使っていい時間は十日間。人を殺すには手間が多くかかる分、前準備を怠るなと言われている。だから今回はその前準備を怠っていたということなのだろう。僕は肩を落として部屋を出た。


「じゃあ、次いいですか?」


「ああ。準備するよ」


『彼』も部屋を後にする。薄暗い部屋から廊下に出ると目が眩むほどの明かりに左腕で目元を覆う。ここは広い豪邸で、僕ですら見たことのない部屋がたくさんある。天井は三メートルより上にあり、等間隔にシャンデリアがゆらゆらと揺れていた。外では風に草木が揺れて細草が宙を舞っていた。僕はそれを見て、少し早くなる鼓動を落ちつけていった。

しかし、これでもう十人目。僕はこんなに殺しが下手なのかと額に手を当てる。失敗に失敗を繰り返し今日も一人、無駄にしてしまった。『彼』が出た後の扉を閉める。扉の前に立って、手を合わせた。

俯いて手を合わせていると、足元にある真っ赤な絨毯が目に入った。絨毯は自然に赤を表現していたが、自身の手は人工的に真っ赤になっていた。その赤はすっかり乾いてしまって気持ち悪い。後ろから鋭い視線を感じて合わせた手を離す。


「なにしている」


「いや、無駄にしてしまったので」


「好きにしろ」


『彼』は呆れた口調でそう言うと、僕を一瞥し歩き出す。『彼』は黒のスーツ姿にサングラスをして身内にすら素性を隠す徹底ぶりだ。『彼』のことは何も知らない。『彼』について知っていることと言えば、僕より身長が少し高いくらい。僕が背伸びしても少し届かないくらい。大人の男にしてみれば小さいのかもしれない。あとは少し掠れた声くらい。そんな余計なことを考えていると、『彼』がどんどん遠く小さくなっていた。早く追いかけないと。この屋敷の中はあまり詳しくない。はぐれてしまったら迷子になる自信だけはある。すぐに『彼』の背中を追いかけた。自分が小走りで生み出した風から少し生臭い匂いが鼻を衝く。右手の乾いた血の感触も嫌な感じだ。


「あの。手洗いたいんですけど」


「ん? ああ、確かに臭うな。人間は臭いに敏感だ。今度はそこも基準に追加しよう」


『彼』は鼻をつまむような仕草をして、右手にある一室を指差した。ここの部屋はどこもシャワールームがついており、何故か普通の部屋の一室を模していた。僕はとりあえず彼の指さした部屋の中へ入り、シャワールームで身体を洗った。


「すみません」


なかなか匂いが取れずに焦ってしまった。三人くらい同時にやっていたため、匂いがなかなか取れなかった。血はいつも通り色がなくなりはしたが、感触は若干残っていた。これが僕は嫌いだからいつも手袋をしているのだが、今回は現場のものだけを使った試験だということで手袋を現地調達できずに素手で犯行を行うことになった。(もちろん、凶器に指紋が付かないようにタオルを巻いて包丁の柄は握ったし、タオルも持って帰ったのだが)


僕は浴室の前で壁に背中を預けて立っている『彼』に声をかけた。浴室に置いてあったバスタオルで身体の水分をふき取りながら、籠に投げ入れたシャツとズボンをどうしようかと頭を悩ませる。身体の匂いはかなり拭えたと思っているが、服はだいぶ臭い。できれば着たくない。『彼』が一息してから、部屋の扉へ向かって歩き出した。


「お待たせしました。時間ないのにすみません」

 

「いや、いい。次はここだからな」


「……っ! んんんんっ」


何も身に着けず『彼』についていった。僕は『彼』が押し開いた扉の先にいる人物を一瞥した。ああ、どおりで。椅子に縛り付けられ、口には布を噛まされている人物が激しく暴れている。しかし、これはどうもいやらしい。僕は『彼』を睨みつけた。身体を拭き取ったタオルに、水分を拭き取った後で触れてしまったドアノブは確実に減点対象だ。『彼』は僕の視線を受け流し、部屋をあとにした。試験開始だ。僕は仕方なく服を身に着け、ドアノブの指紋を手元のタオルで拭った。


タオルを腹部に巻き付け辺りを見回した。台所には包丁が一本置かれていた。料理中なのだろうか。火がまだ消えていない。鍋に蓋がなく。カレーが煮詰めてあった。まだ途中だ。まずはこの殺人を自殺と見せかけることを考えよう。彼の言う存在を消すことの筆頭が、この殺人自体なかったことにする自殺偽装だろう。しかし、このまま火を止めてしまっては自殺だと偽装することは出来ない。凶器はこの包丁でいいだろう。さっきのことを考えると、素手で触るわけにもいかない。何かないか。僕は台所を見回した。


「これでいいか」


使い捨てのビニール手袋だ。洗い物をするとき身に着けるものだろう。これなら指紋を残さずに済む。なるべく箱に触らないよう、三本指で箱を押さえてビニール手袋を取り出した。

素早くそれを付けて、足元を見る。シャワールームから不用意に歩いてきてしまったせいで足跡が残ってしまった。


これは大失態……いや、本当に『彼』のいやらしさに奥歯を強く噛む。しかし、フローリングなら完全に乾く前にタオルを地面に敷いて擦るようにすり足でシャワールームへ戻ればいい。シャワールームに着いて頭を悩ませる。普通なら量産品の靴を履いて足跡を付けても追えないようにするのが一般的だが、今から玄関へ戻っても靴は『彼』に回収されているだろう。『彼』はそういうことをする人間だ。台所へ戻り、料理ばさみを使ってタオルを半分に切り取った。半分に切り取ったタオルの上に両足を乗せて、端を結んで即席のスリッパを作った。足跡についてはこれでいい。ようやく本題へと移ることができる。まず、しなければいけないことに頭を巡らせる。


 ……ああ、忘れてはいけない。一度、素手で触ってしまったビニール手袋の箱についた指紋を拭わなければならない。少しサイズが大きく余った方の即席スリッパから一部を包丁で切り取り、切れ端のタオルで拭った。多少、水滴がついて箱が柔らかくなってしまったが水場で使用するものならば不思議じゃない。


「んんんんっ」


「うーん。どうしたものか」


僕は暴れている人物の前に立った。少しふっくらとした体型の女性だ。年は三十台後半くらいだろうか。少し皮膚のたるみが目立つ。必死に僕に何か訴えかけるように前後に揺れていた。そんなことをしたら椅子の脚が床から離れて床に身体を打ち付けてしまう。僕はそんな考えなしに暴れる彼女にため息をついた。そろそろ彼女を殺す方法を考えなければならない。


包丁を刺すならば腹を刺して出血多量で死ぬのを待つのがいい。胸は精度があれば心臓を一突きだが、玄人が狙ってもそうそう狙い通りになることはない。肋骨に当たって殺しきれないのが関の山だ。最も楽なのが頸動脈を切ることだが、勢いよく噴き出した血が僕の体に大量につく可能性が消しきれない。それを考えれば、最初に考えた腹部を刺して失血死を狙う方法でいこう。後は腹部を刺したのが僕ではなく彼女自身であるようにする小細工を考えなければ。


――困った。


後ろ手に縛られているならば索状物の痕が残ってしまう。しかも噛まされている布の繊維が口の中から出てくれば自殺偽装が怪しまれる。どう処理すべきか。時間も大事な試験内容の一部だ。十分、二十分と時間が過ぎるごとに、誰かがこの部屋を訪ねてくる可能性が跳ね上がる。今で五分。自殺偽装した遺体を残すには時間が足りない。ああ。考えれば考えるほど沼にハマっていく。

 


――――もう、めんどうだ。



ここで素早く殺してしまおう。


「すみません」


手元の包丁を勢いよく彼女の腹部に向かって突き刺した。彼女は左右に揺れて包丁の刃から逃れようとする。内臓が少しずれた気がする。包丁を水平にしてゆっくりと深く刺す。こうすることで確実に内臓を傷つけて致命傷にすることができる。彼女は悲鳴を上げようにも布を噛まされていて話すことすらできない。


「んんんっ!!ん!ん〜!!……ぶふ」


布が血に濡れて赤く染め上げられる。ゆっくりと包丁を抜いて、血が噴き出ないことを確認する。ビニール手袋にマダラ模様の血がついているが、手や身体には血は付着していない。昔、何かで聞いたことがある。他人の血液はトイレの便器以上に汚いのだと。


「きったないな」


しかめっ面で彼女を睨みつける。彼女は次第に力が抜けていき、だらんとして動かなくなった。真っ赤に染まる白い布を見て、僕はようやく『彼』の意図を理解する。この女性を自殺に見せかける必要などないのだ。いつもの調子でそうしなければならないと勝手に思い込んでいた。思い込みも、自分自身を残す原因になりかねないと言われていたことを思い出す。冷静に俯瞰して物事を考えていけばいい。


女性はここで殺された。


それでいい。自分だと分からせなければいいのだ。ならばすることは一つ。自分の痕跡を無くすこと。包丁はここにおき捨てればいい。あとしなければならないことを考え、俯瞰で見る。


「ああ、布……か」


彼女を縛り付けたのは自分――ということに『彼』ならしているはずだ。本当にあり得ない話だが、縄は目が粗いため指紋は判別できない。だが、口に噛ました布はくっきりと指紋が残る。拭き取らなければならない。タオルの切れ端で結び目の部分を拭き取った。これでいい。これは殺人だ。ただその殺人犯が分からない。これでいいんだ。僕はこの部屋を出た。


渡り廊下に出ると、天井の高さに立ち眩みがした。よく考えればこの屋敷は、部屋ごとに天井の高さが違っており、この渡り廊下が一番高いという不思議な形をしている。だから自分の身長がどのくらいなのか分からなくなってくる。壁に背を預けて立っている『彼』も廊下で遠目から見ると小さく見えた。部屋から出てきた僕に『彼』が気付いた。


「終わったか」


「ええ。滞りなく」


彼は中の様子を見る風もなく、その場で口元を緩めた。『彼』のその笑みには身震いすら覚える。恐怖ではない。『彼』の笑みはそう、賞賛だ。僕も自然と口元が緩んだ。『彼』から次に紡がれる言葉を想像すると身体が震えた。


Greatグレート


「どうも」


「よく分かったな。俺の意図を汲めずにミスをすると思っていたが」


『彼』は上機嫌な声の調子で話していた。僕は微笑を浮かべ、彼を見つめた。誇らしい。これほどに調子がいいのはいつぶりか。これで僕はやっと…………。


「お前の欲望のままに進め」


『彼』が小声で何か口にしたが、その声は僕の耳に届かなかった。

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