第4話

 つらつら考えながら教会に着いた。

 教会自体がしんとしていて、出払っているようだ。

 奥のアトリエに行くと、椅子も畳まれていて、数日帰った形跡はなかった。

 描きかけの絵に、布がかけてある。

 ラファエルは小さく息をついた。

 しゃがみ込み、足元の海辺の風景を描いた絵を手に取った。

 晴れた日の、干潟の景色。

 そっと、絵の筆の跡に指を触れさせる。

「……ジィナイース」

 あれから時が過ぎた。

 彼はどんな人になっているだろう。

 自分でさえこれだけ容姿も、出来ることも、出来ないことも全てが変わっている。

 彼だってきっとそうだと思うけれど。

 くす……、とラファエルは小さく笑った。

 でも絵を見ると、何も変わってないと、はっきり感じる。それは信じられる。

 彼は幼い頃から、こうして美しくて優しい雰囲気の絵を描く人だったから。

 しばらくそこで絵を眺めたが、陽が落ちて星が上ると、ラファエルは教会を出た。

 子供たちがまだ外で遊んでいた。

「あーっ! 誰か教会にいた!」

 駆けて来る。

「剣を持ってる。フレディのおともだち?」

「フレディ?」

「ばかだなあ。剣を持ってても、同じ国の騎士とは限らないんだぞ。軍人は服の色で同じか違うか分かるんだから」

「お兄さんお祈りに来たの?」

 ラファエルは腰を屈めて、見上げて来た少女の頭を優しく撫でてやった。

「お兄さんはこの教会にある絵を見に来たんだよ。絵を描く人がいるだろう?」

「ネーリのことね」

 少女は瞳を輝かせる。ラファエルは微笑んだ。

「彼はどういう人かな」

「やさしい!」

 ラファエルは青い瞳を瞬かせた。

 少女が頬を花色に染めて、無垢に笑った。

「ここにいると、いつも私たちと遊んでくれるの。

 アールなんか、私よりネーリに懐いてる」

「ネーリのはなしー?」

 丸くした紙を蹴って遊んでいた少年たちもやって来る。

「このお兄ちゃんがネーリに会いに来たんだって」

「ぼく知ってる、そういうの、『依頼しに来た』っていうんだよ」

「ネーリがどういう人かって」

「だいすき!」

「いつでも遊んでくれる。神父様は、絵を描いてる時は邪魔しちゃダメだよっていうけど、ネーリは一緒に食堂の準備してくれたり、掃除一緒にいてくれたり、いつもしてくれるよ」

「ネーリは絵も上手いけどオルガンもとても上手いのよ。礼拝で弾くこともあるんだから」

「いっぱい聖歌も教えてくれるの。わたし、上手だって誉めてもらった。聖歌隊に入りたいって言ったら、色んな聖歌を教えてくれるようになった。ネーリはすごいのよ。なんでも知ってるんだから」

「ヴェネトのことなら何でも知ってるよね」

「教会に来る前は一人でヴェネト中、回ってたらしいよ」

 すげーっ、と子供たちが飛び跳ねている。

「ぼくはね、ネーリの絵が大好き。綺麗で優しくて、ママにいっぱい叱られて悲しくなると、ぼくいつも教会に来るの。ネーリの絵を見てると、元気になる。帰ると、ママにもちゃんとごめんなさいって言えるようになるから……」

「僕も!」

「お兄さんはネーリの絵を見たことある? ネーリは神さまが描いたような絵を描けるのよ」

 子供たちの口から、輝くような言葉が溢れる。

 目を瞬かせていたラファエルは、すぐに微笑んだ。

 こういうものが、あの王妃にはないんだよな……。

 誰かを尊敬し、愛し、大切にしようと慈しむ気持ち。

 ――他人をだ。

 ジィナイースなら。

 ラファエルは目を閉じた。

 ジィナイースなら、話していれば、目を輝かせて、街のことも、芸術のことも、人のことも、悪戯に悪く言ったりせず、楽しいことや美しいことをたくさん、聞かせてくれるのに。

「お兄さんはネーリのお友達なの? ネーリのこと好き?」

 ラファエルは立ち上がった。

「うん。……よく知ってるよ。大好きだ。だから会いたくて訪ねて来たんだよ」

 わぁ、と少女は嬉しそうな顔をした。

 向こうで大人が呼んだ。

 夕飯よ、と聞こえる。

 一斉に子供たちが駆けて行った。

「さあ、もう帰る時間だ」

「おやすみなさい、お兄さん」

「おやすみなさい」

 優しく少女に呼びかけてやる。

「あ……そうだ。『フレディ』って、ネーリのお友達かな?」

「フレディはネーリの絵のファンよ。よく見に来るの。軍人さんだけど、優しいわ。たまに礼拝の準備や片付けも手伝ってくれる」

「そうなんだ。……軍人の人はこの教会によく来るの?」

「ううん。ここに通って来る軍人さんはフレディだけよ。でも、お兄さんも軍人さんなら、二人目ね」

 ラファエルはふと、気付いた。

「……もしかしてそのフレディって軍人さん、俺と着てる服の色違ったりしないかな?

黒くないかい?」

「そう。胸のここに綺麗な紋章がある軍服よ。二つの首がある鳥さんなの。帽子にもついてたから、この前見せてもらった。ネーリがあれは……えっと、確か『双頭の鷲』の紋章なんだよって教えてくれたわ。今ヴェネトに来てる神聖ローマ帝国の紋章なんだって」

「そうなんだ。君は物知りだね」

 ふふ、と少女は明るく笑って、駆け出していく。

 手を振り彼女を見送った後、

 涼しい夜風が通り過ぎた。

 ラファエルの頬を撫で、波打つ金色の髪をそっと揺らす。


「……フェルディナントか」


 俺も暢気だよな。

 ラファエルは停めていた馬車に、少し夜風に当たりたいから歩いて帰るよ、と告げた。

 御者は最近殺人者もうろついているので危ないから、それならば後ろからついて行きますと言ったが、ラファエルは彼の気遣いに感謝しつつ、小さく笑んで断った。

「考え事をしたいから先に帰って。大丈夫だよ。相手は屈強な警邏隊を狙ってる殺人鬼だって聞いた。俺なんか弱すぎて、戦う相手にもならないさ」

 いえ……だから心配なんですが……という困った顔をした御者を残して、ラファエルは悠然と歩き出した。


 王都ヴェネツィアの夜景。

 この街にジィナイースがいる。

 そして、イアン・エルスバトとフェルディナント・アーク。

 気にすることはないと思っていたけれど、相当自分は暢気だったようだ。

 軍人の、すぐに自分の序列を決めたがる野蛮な思考に染まりたくはないが、どうやら国に関わる以上、蹴落とすならきっちり蹴落とさないとダメらしい。

 中途半端にやるのが一番良くないんだな。

(あいつらがあんなところにいるならわざわざ上にいて見下ろせる俺が、石なんか投げてぶつけるのも大人げないし可哀想だと思ってたけど)

いつの間にか、出し抜かれていたようだ。


「…………そろそろ俺も鞭を持つべきかな?」


 こういう考えに取り付かれるから、戦争は嫌だ。

 やったらやり返したり。

 やり返したらやられたり。

 一度踏み込むと際限がなくなる。

 これも悪い運命の轍だ。


 ああ、ジィナイースに会いたい。


 共にフランスに戻り、フォンテーヌブローの美しい湖畔の城に一緒に戻り、美しい花と、ジィナイースの愛する動物たちを集めて、幼い頃のように二人だけで穏やかな時間を過ごしたい。

 悪い考えに囚われかけた自分を自覚し、救いを求めるようにラファエルは目を閉じた。

 賑わっていたあたりが、一瞬、不思議とシン……となった。

 ラファエルが目を開くと。

 サッ、と屋根の上の影が動いた。

 刹那、浮かび上がった白い仮面を、はっきりとラファエルの青い瞳は見つけたが、咄嗟に身構えることもなく、無防備にそちらを見上げた姿をどう思ったのか、白い仮面は何もせず、ふっ……と屋根の上から消えてしまった。

 あいつを見かけるのはこれで二度目だ。

 警邏隊の活動が停止して、死者は出なくなっていたと聞いていたが……。

(まだ夜を徘徊してるんだな)

 あいつの狙いも何なんだろうな。

 ラファエルはまた、上着に手を突っ込んだ姿で歩き出した。

 ヴェネトを王都から混乱に陥れることだろうか?

 フランスの街でも時折ああいうのは現われる。

 世情を反映しているというが、誰も彼もが争いごとを望むわけではないのだ。

 ラファエルは平和を愛している。

 止むに止まれぬ事情で戦うことはあるけれど、戦いを望んだことはない。

 可能な限り、民の為に回避してやることが、領主や王の役目だ。


(そうだよね? ジィナイース……)


 立ち止まり、振り返る。

 ヴェネト王宮は今宵も明かりだけ灯して、そこに浮かび上がっていた。



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