第23話 蒼き刃

 ようやく涙がれたときには、ジャニはすっかり疲れ果てていた。

 もう休め、と言うダルシャンに促され、足を引きずるようにして建物の奥へと進む。きしむ階段を上って二階へ向かった。

「離宮」と呼ぶにはさすがに小さすぎるこの建物には、それでもいくつかの寝室が設けられていた。一階に二部屋、そして二階にも二部屋。ダルシャンはそれらのうち、二階の一室へとジャニを導いた。木製の大きな扉を押し開けると、古びた天蓋つきの寝台がジャニを出迎えた。

 きっとここはダルシャンが幼いころに使っていた部屋なのだろう。とはいえ寝台は子ども用の大きさではないから、もしかすると母親が存命だったころは二人で眠っていたのかもしれない。彼女にも会ってみたかった、と頭の隅で思った。

 後から入ってきたダルシャンが寝台に歩み寄る。寝具を取り上げて埃をばさばさと払い落とし、敷き直しながら言った。


「今朝方、岩の上で眠ったのよりはましだろう?」


 こくりと頷く。もとより贅沢ぜいたくな暮らしを求めるつもりは毛頭ない。今はなおのこと、体を休められるならばどんな場所でもよかった。

 ダルシャンは安堵したように微笑んだ。


「よし。俺はヴァージャの様子を見てくる。少しでも英気を養っておけ。後のことは休んでから考えればいい」

「……はい、ダルシャン様」


 部屋を出ていくダルシャンを見送り、寝台に入った。ダルシャンがあとから来る可能性も考え、寝台の左半分に身を沈める。寝具は冷たく、長年の湿気をまとった匂いがした。けれど重い上掛けを引き寄せれば、すぐにまぶたが重くなる。抵抗することなく意識を手放した。


  ※


 ふと、目を覚ました。

 隣に温度を感じて、ゆっくりとまぶたを開ける。寝台の右側にダルシャンがいた。彼も疲れたのだろう、当たり前だ。昏々こんこんと眠っている。

 寝顔をじっと見つめた。ごく薄く開かれた口、かすかに揺れる黒い睫毛。いつもの皮肉さや勝気さとは無縁の、ただ静かに眠る顔。


 ――ほんの少しだけ、触れてみたくなった。

 いつも彼がしてくるように、その顔に、今度は自分が。

 けれど、疲れているところを起こしてしまってはかわいそうだと思って、やめておいた。


 喉が渇いていた。そういえばずっと水を飲んだ記憶がない。ダルシャンが洞窟まで持ってきてくれた水も、確か結局口にしなかったはずだ。

 水にだけは困ることのない場所に逗留とうりゅうしているのは幸いだった。ダルシャンを目覚めさせぬよう慎重に身を起こし、足音をひそめて部屋を出た。


 天の頂をとうに過ぎた月に、広大な湖が照らされている。その水面はさながらきずひとつない鏡のようだった。

 離宮の背後、湖を取り囲むように広がる深い森からは、夜に獲物を狩る鳥の気配がする。その謎めいた声と風に揺れる葉の音を除けば、辺りは静謐せいひつそのものだった。

 裸足で湖のほとりに歩み寄り、透明な水を両の手ですくう。一口含み、冷たい感覚が喉の奥へとみ渡るのを感じた。ぼんやりしていた頭に少し生気がよみがえる。そのまま渇きを感じなくなるまでゆっくりと飲んだ。

 まばゆい月光を浴びたせいか、いつしか眠気は消えていた。気晴らしになるかと思い、少しだけ辺りを散歩することに決めた。やわらかく揺れる水際をたどり、東の方へと足を進めた。

 かそけき鳥の声や葉擦れの音に耳を傾けながら行くと、崖の下へたどりついた。確か、この崖の上から初めて湖の全容を眺めたのだったか。そこから空に視線を移せば、頭上はちらちらと輝く星でいっぱいだった。

 小さく息をついて腰をかがめ、片手を湖の水にひたした。遊ぶように手を動かし、生まれた波紋が星と月の光にきらめくのをじっと見つめた。


 異常を感じたのは、そのときだった。

 頭上から猛烈な熱が迫る。とっさに片手で顔をかばった。考えるより先に炎が噴出する。

 ――あおい炎と炎がぶつかり合い、夜の空気を裂く火柱が上がった。


 急いで立ち上がる。崖の上に何者かの姿があった。

 黒い髪、黒い衣、月影を受けて黒く光る鎧。

 王宮に、アラヴィンダのそばにいるはずの――ルドラだった。


「……どうして、ここに」


 こぼれた声は頼りなく震える。ルドラはジャニを睥睨へいげいし、崖の縁へと足を踏み出した。


「俺は祖父母に育てられた。祖父は狩人だ」


 ルドラが片手を差し出す。その手の上に蒼い炎が灯る。


「よき狩人は、どこまででも獲物を追跡できる。俺は祖父ほどの腕ではないが――二人ぶんの重みがかかったひづめの跡を追うなど、容易なことだ」


 ぞっと背筋が寒くなった。森の中の足跡まで追われたのであれば、こちらにはどうしようもない。

 ジャニが動くより先に、ルドラは急な崖をほんの二跳びで下りてきた。その腰には見たことのない剣がある。おそらくは王子の近衛兵として拝領したものなのだろう。


「アラヴィンダ様の命令で、こんなところまで……?」


 ジャニの戸惑う声にしかし、ルドラは至極不快そうにかぶりを振った。


「まさか。殿下は慈悲を体現される御方。これは俺の意思だ」


 もう一歩、ルドラが進み出る。ジャニはされて後退った。


「お前はただ邪魔なだけではない。アラヴィンダ殿下の治世に害を及ぼす存在だ。よって、殿下の刃である俺が、自らの判断において消す」


 言ってルドラは右の手を掲げる。蒼い炎がいっそう勢いを増した。


「待ってください――摂政せっしょう殿は、もうあなたを〈しるし〉だと認められたんですか? それなら」


 こんなことをする必要はない。

 そう言いかけたジャニの頬を炎がかすめる。さっと熱い痛みが走った。


「あの老いぼれの承認など知ったことか! この力が目覚めたそのときから、俺はアラヴィンダ殿下の〈しるし〉だ。俺が――摂政ではなくこの俺が、アラヴィンダ殿下を王とするのだ!」


 ルドラの手にもう一度炎が灯る。淡い色をした目の底が、蒼い光を受けてぎらついた。


「だからこそ、不要なものはこの手で消す。お前が仮に〈しるし〉であろうと魔女ダーキニーであろうと、アラヴィンダ殿下の王位継承を揺るがす以上、この王国には不要なのだ!」


 ルドラの手が突き出される。炎がほとばしった。


「……!」


 思わず両腕で顔を覆う。刹那、蒼い炎が盾のように広がり、ルドラの攻撃をはじき返した。


「ッ、小賢しい真似を!」


 ルドラが吐き捨てる。大股に距離を詰められ、また後退った。


「どうして……」

「お前には分かるまいよ!」


 怒りに任せてか、ルドラが腰の剣を抜いた。鋭い切っ先がジャニに突きつけられた。


「俺が忠誠を誓うはアラヴィンダ殿下のみ。報恩すべきはアラヴィンダ殿下のみ!」


 剣が振り上げられる。月明かりを受けて白く光る。


「俺はあの御方を玉座へ導くのだ。幼いころから、それだけを誓って生きてきた!」


 殺される。――わけには、いかない。

 ダルシャンの声が脳裏に響く。


 ――無念の中に果てた者たちに恥じぬよう。

 ――死んだ者たちを裏切るな。


 全力で飛びのきながら、剣撃を防ぐように腕を交差させた。蒼い炎が噴き出し、大蛇ナーガのように口を開ける。振り下ろされた刃を呑み込み、もろあめ細工のようにはがねの刀身を溶かし尽くした。

 うまく受け身を取れず、ジャニも後ろに転んだ。だが、なんとか立ち上がって体勢を整えた。

 ルドラは使い物にならなくなった剣を投げ捨てる。燃え盛る目でジャニをにらみ据え、えた。


「ふ、ざけるなぁ……ッ!」


 ルドラの手に再び炎が生じる。長い鞭のように大きくしなってジャニを襲った。

 砂利の広がる地面を転がって懸命に避けた。剥き出しのひじすねがあちこち切れていく。しかしその痛みを感じている余裕もない。

 何度目かに襲ってきた炎の鞭を、今度は意図して防御した。まっすぐに手を掲げれば、蒼い炎の盾が半球のように広がり、のたうつ鞭をはじき返した。

 盾を発したまま立ち上がる。何度も教え込まれた等立の構えを取った。ルドラの双眸を見返し、かすれる声で、それでも言った。


「あなたとアラヴィンダ殿下の間に何があったのか、私には分かりません。でも……私だって同じです。ダルシャン様の願いを叶えると決めたんです」


 そうだ。

 出会ったときに自分で決めた。月の光の中で彼の言葉を聴いて――もう一度、決めた。

 自分が存在する限り、ダルシャンは戦い続けるというのなら。

 この自分だって、ここで倒れることは許されないのだ。


「私はあなたを殺したくはありません。どうか王都に帰ってください」


 ジャニが言うと、ルドラはいっそう顔をゆがめた。


「甘えたことをほざくな! お前のそういうところに虫唾むしずが走る!」


 彼の手の中に新たな炎が生じる。蒼い渦のように逆巻き、見る見る広がってゆく。


「〈しるし〉は一人だけ、王も一人だけだ。共存していられると思うな!」


 襲ってきた炎を盾で受け止めた。炎の渦は触れるなり爆発し、あまりの勢いに足元が滑る。片膝をついて、なんとか耐え抜いた。


「……お願いです、聞いてください」


 さっき石ころの上を滑ったせいか、足の裏が切れてしまった気がする。地についた膝もおそらく擦りむいた。ずきり、と痛むのをこらえて立ち上がり、ルドラの方へ一歩を踏み出した。


「〈炎神アグニしるし〉の話は、何かがおかしいんです。最初から、ずっと――!」


 ルドラが歯噛みするのが見えた。蒼い火炎が再び襲い来る。盾ではじき返し、声を張り上げた。


「ウッジェンドラ将軍は、歴史に語られているような人じゃありません。誰かが何かを隠蔽いんぺいしているんです。もしかすると私たち、二人とも騙されているのかも……」

「黙れ!!」


 ルドラが咆哮し、右の手を高々と上げた。その手のひらに、蒼い太陽を降ろしたかのような火の球が膨らんでいく。

 彼が手を振り下ろすや、これまでと比較にならない熱が炎の乱雲となって迫ってきた。――盾では受け止められない、と確信した。

 とっさに全身を自らの炎で覆った。苛烈な嵐を忍ぶ鳥の卵のように、全き殻に身を閉ざして踏みとどまる。炎はジャニの元ではじけ、四方八方に爆ぜ飛んだ。

 自分の炎の熱さは元から感じない。けれど、それをし破らんとするルドラの炎がもたらす熱は凄まじい。額に脂汗が浮く。息が詰まる。呼吸が、できない。

 これ以上続けば窒息する。そう思ったとき、炎の嵐はようやくジャニを通り過ぎていった。

 あえぐように呼吸して、耐えきれずに両の膝をつく。ルドラもまた力を使い果たしたのか、肩で息をしながら一歩後ろへよろめいた。


 ふと――背後が、蒼いように思った。

 蒼く、光っている。何かが――燃えている。


 振り返って愕然とした。離宮から火の手が上がっていた。

 ルドラの嵐か、それとも四方へ爆ぜていったその余波か。いずれにせよ、炎が届いてしまったのだ。

 燃える木、崩れる煉瓦。中には――ああ、あの中には。


「――ダルシャン様!!」


 ジャニは絶叫する。一瞬の沈黙ののち、ルドラが哄笑した。闇を千々に引き裂くような歓喜の声を響かせた。

 真っ白になりかけた頭で懸命に思考する。ルドラに向けて大きく手を払い、湖岸を隔てる炎の壁を作った。彼がこれ以上追ってこられないことを確かめ、それさえもどかしく走り出す。足が痛む。肺が痛む。全身が痛む。ルドラの声が背を追ってきた。


「いいだろう、お前の王子と共に死ね! 〈しるし〉だけでなく王位継承者も一人に減るのならば好都合だ。お前の甘さが招いた結果を思い知りながら、絶望の底で死ぬがいい――!」

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