3万円で異世界にFIREしたおっさんを待っていたのは、極悪令嬢が統治するブラックシティでした~背負わされた借金なんて華麗に返してみせます~
柏木サトシ
第1話 FIREって知ってる?
FIREという言葉を知っているだろうか?
FIREとは『Financial Independence, Retire Early』という言葉を略した造語で、日本語では『早期リタイア』とも呼ばれたりする。
簡単に言えば、一生遊んで暮らせるお金を作って早々に仕事を辞めて、のんびり余生を過ごすことだ。
そう言われると、若くして成功した億万長者にしか与えられない特権と思われがちだが、実際にはそうではない。
現在では株やFXなどの資産運用を駆使して、生活費をある程度確保できる仕組みを作れればFIREは誰にでも可能なのだ。
といっても、今の日本でそこまでの仕組みを作るのは容易ではない。
だから次の手段として考えられるのが、日本より物価の安い国へと移住して、現在の資産の価値を増やすことだ。
資産価値が上がり、のんびり過ごすことができる。そんな都合のいい国なんてあるのかと思うかもしれないが、無理に地球上の国で探すことはない。
ここで出てくるのがそう……異世界だ。
異世界なら地球での常識は一切通用しないし、金以外にも知識という得難い資産を手に無双できる可能性もある。
しかもたった三万円でガイド付きで異世界に渡れるとなれば、これはもう利用しない手はないだろう。
そんな思わぬ幸運を手に入れたそろそろアラフォー世代に足を踏み入れそうな俺、
※
六畳間程度の石造りの部屋で、カンテラの頼りない光を頼りに俺は一心不乱に木皿に乗ったヨモギに似た形の植物の葉を綺麗な水を流しながら磨き続ける。
広げると成人子供の手の平と同じ大きさになる羽状に深裂した葉は、この世界にある薬草の一つで、よく見ると表面に羽毛のような細かい毛が付いており、俺は葉を傷付けないように丁寧にうぶ毛を手と流水で除去していく。
「…………」
少しでも力の加減を見誤れば、柔らかい葉が破れてこれまでの労力が無駄になってしまうので、息を止めて一枚の葉に集中していく。
大丈夫、もう何度も同じ作業を繰り返してきたことだろ?
そう自分に言い聞かせながら根気よく作業を続け、大きな葉に付いたうぶ毛を残らず除去する。
「ふぅ……」
最後に表面を撫でて自分の仕事に満足した俺は、大きく息を吐いて近くに置いてあった布巾を取り、額に浮かんだ玉のような汗を拭う。
この薄暗い室内はカッコイイ言い方をすればアトリエ、もしくは工房と呼ばれる場所で、異世界での新しい仕事場というわけだ。
かねてからセカンドライフは、ものづくりをしてのスローライフを送りたいと思っていたので、そんなささやかな願いが早くも叶ったというわけだ。
俺は今、ある方に依頼されたアイテムを作るための準備をしている。
それはこの異世界に広く流通している薬、ゲームとかでもよく聞くポーションだ。
そんなポーションの中でも、品質が『普通』以上のポーションを作ることが俺にとっての最初の試練であり、絶対に達成しなければならない最低目標だ。
「よしっ!」
気合を入れ直した俺は次の薬草を手に取ると、再び表面をトリミングする作業へと戻る。
与えられた目標であるが、こうして何かに没頭できるのは心地よい。
まるで職人になったつもりで薬草に真摯に向き合っていると、
「ハジメさま、ハジメさま~」
暗い室内の奥から呑気な声が聞こえ、小さな影がとてとてとやって来る。
「ラック、頼まれたお仕事できたクマよ」
そう言って口に咥えた木製の深皿を地面に置くのは、人ではなく全長四十センチほどの灰色の毛玉だった。
まるでゴーグルを装着したような黒い目元にクリッとした大きな瞳、三角形の尖った耳のふちは白く、チャームポイントだという白く長いひげが付いた愛らしい顔が特徴的だ。
灰色の胴はふっくらと愛らしい丸さで、その先に見えるフサフサの太い尻尾は長くて黒い縞模様が見える。
ここまで聞いてこの灰色の毛玉、ラックが何の動物かわかったら中々の動物博士だ。
そう、ラックはタヌキ……ではなくアライグマだ。
どうしてアライグマが人の言語を操るのかと思うだろうが、このラックこそ俺を異世界へと連れて来てくれ、ガイドもしてくれるアニマイドと呼ばれる動物の精霊だからだ。
ラックとの出会いについては色々とあったのだが、今はそれより期待に満ちた目でこちらを見ているアライグマの成果を確認するとしよう。
「沢山のニガニガ玉を綺麗に洗ったクマよ。見て欲しいクマ」
「ありがとうラック。どれどれ……」
俺はラックに礼を言うと、水の張った深皿の中からこんぺいとうのように刺々しい緑色の玉を一つ取り出して見る。
小粒の大豆ほどの大きさの緑色の玉、ニガニガ玉は棘が多く、凹凸に汚れが溜まりやすいのだが、クルリと回して見ても目立った汚れは見えない。
「うん、凄く綺麗になってる。流石ラック、アライグマの本領発揮だな」
実際のアライグマは別に食べ物を洗っているのではなく、水辺の生き物を獲る姿がそう見えるだけという説もあるが、ラックの仕事は本当に丁寧で感嘆するレベルだった。
「これならきっと、良質なポーションが作れるよ」
「えへへ、そうクマ? ならラックのこと、もっと褒めてもいいクマよ」
ラックは身をくねらせて喜びを露わにすると、ささくれ立った木の床の上に腹を上にして寝転ぶ。
これはお腹を撫でて欲しいという合図らしいので、俺は手を伸ばしてラックのモフモフのお腹を撫でてやる。
「ふみゃああぁぁ……気持ちいいクマ~」
お腹を撫でられるのが好きなのか、ラックが蕩けたような声を上げて幸せそうな顔をする。
「……フフッ」
余りにも幸せそうなラックを見ていると、こっちまで嬉しくなって思わず笑みが零れる。
こんなにも喜んでもらえるのなら、暫くラックの腹を撫で続けようか。
そんなことを思っていると、
「……何をしているのかしら?」
「「――っ!?」」
室内に凛とした涼やかな声が響き、俺とラックの背筋が反射的にピン、と伸びる。
ギギギ、と建付けの悪い扉のようにゆっくりと首を部屋の入口の方へと向けると、思った通りの人物が立っていた。
「何やら楽しそうな声が聞こえましたけど、お仕事の方は順調かしら?」
そう言って手にした扇子で口元を隠して優雅に微笑むのは、フリルのたくさん付いた見るからに豪奢な真っ赤なドレスに身を包んだ令嬢だった。
猫のような切れ長の目と、背中まで届くキラキラと輝く金髪を見事な縦ロールでまとめた妙齢の女性は、室内をぐるりと見渡した後、最後に俺を見て双眸を細める。
「ごきげんよう、ハジメ」
「ご、ごきげんよう。エカテリーナ様」
どうにか笑って挨拶を返すと女性、エカテリーナ様は満足そうに優雅に微笑むが、俺の内心は全く笑っていない。
この女性は、エカテリーナ・グレイスフォート様。異世界に渡った俺が移住することになったクライスという街を治めている女性領主様だ。
この世界に来てまだほんの数日の俺であるが、エカテリーナ様を前に緊張してしまうのは、彼女のとある異名が関係していた。
エカテリーナ様は、光の御子と呼ばれた元婚約者と、聖女と呼ばれた心優しき女性、そして二人を取り巻く人たちをまとめて追放して領主の地位を奪い取ったことから、人々から『極悪令嬢』と呼ばれていた。
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