二河白道
は、と。
目を覚ました場所は、なんとは無しに人の住むような場に整えられた穴ぼこだ。その、掘り出されたようなあなぐらの中で、目覚めたままに青年は自らの身を鑑みる。
傷はない。不調も無い。そしてそれらが一目で分かるように、服が無い。寒さに少し身震いをして、また眼のみを動かす。その視線の先に座ったように目を瞑る仙女の姿があった。
自らの横に、沿って寝ている姿が。
規則的な呼吸が彼女の睡眠を知らせるが、むしろただそれ以外ではその眠りは瞑目による静寂に見えるようだった。
羅倶叉。そう、名乗った女仙。長い銀の髪を纏めたそれは今、裸体に近い格好で青年の横に身を横たえていた。
恐ろしく危うくも見える状況に、青年が固まる。
その身じろぎを感じてか。
仙はぱちりと目を覚ました。
「おう、目覚めたか我が弟子よ。しかし、寝ているを良いことに寝顔をじろじろと見やるなど趣味が悪いぞ?おなごの敵め」
「…申し訳ありま…」
「ああ良い良い、冗談よ。
ぬしゃ四角四面なとこがあるのう、紅蓮」
紅蓮。
そう呼ばれ、改めて虚を突かれたような気になる。
自らの名は捨てた。代名詞としての呼ばれ方をそのまま自らにした。故に、自らを指す名が出来たことは何やら身が竦むような、身を摘まれるような違和感があった。
「かか、新しい名に慣れんか?まあじきに慣れるろうよ。なんせ妾が気に入ったから、意味もなく何度も呼ぶからのう。なあ、ぐれん、ぐーれんよう」
何度も何度も、頭を横に揺らしながら意味もなくそう繰り返す様子はしかし、やはり子どもにしか見えない。くすくすと楽しげに笑う様子も、目を細めて笑うその顔も、老境たる眼が隠れている事もありただ楽しげに遊ぶ童そのものに見える。
そしてその童も自らも、ほぼ裸体であることにどこかやりきれなさを感じて、紅蓮は緩慢に立ち上がった。
「私の服は…」
「適当に剥いで置いてあるぞ。
なんだ、もう同衾は終わりか?
もちっとしてやっても良いぞ」
「…」
体温を失い、自らが半死の状態になったのは理解している。そしてまた、その治療の為にこの師は体温を分け与えたのだ。それはつまり、肌を肌をより合わせるという原始的かつ確実な方法で。
ようやく、状況に合点が行き。そしてまた、自らの命の恩人にまでなった事に、深く頭を下げた。
「感謝のしようもありません。羅倶叉、師匠」
「む?むむ…他の奴に妾の名前を呼ばれる感覚に中々慣れんな。まあどうでも良いか。怪我の具合はどうだ?」
「万全です」
「おう、そいつは良かった!ここらの霊峰はまたえらい力を秘めててな。あの擦り傷くらいなら寝てりゃあすぐよ。
疲れや身体の冷たさももう無いか?」
「は」
「うむ、よかった!
妾も文字通り一肌脱いだ甲斐があったってものよ。
別に気にしちゃおらんがな」
そうして、横に乱雑に置いてあった赤服をするりと纏いはじめる羅倶叉。陶器のように白い肌は触ればそのまま崩れそうにすら見え、しかしそれが真でない事は、先までの体温と、先だっての戦いが証明している。
「飯が出来ている。食うか、紅蓮」
「はい」
「なら行こう!
かか、この師の優しさに感謝するがよい!」
そうして差し出された料理を口に含み、互いに顔を顰めた。羅倶叉も自分で作っておいて、そういう顔をした。
「………」
「あー、不味いか?いや、不味いな。
すまん、できるかと思ったんじゃが…
やっぱ初めての事は駄目か。さすがに」
すると紅蓮は黙々と、立ち上がり。
料理の残りを前にまた黙々と調味を施した。
そうしてから、また互いに一口。
今度は、顰め面は浮かばない。
「おお、だいぶ美味くなった!
妾でも分かるくらいには良くなったぞ」
「ようございます」
「…ふむ。お主、料理出来るのか。なんだからしくないの。主みたいなのは干し肉と水だけで身体を成り立たせて求道してそうなもんじゃが」
「美味いものを喰わねば、力も、生の活力も付きませぬ」
「成程、道理だ。…ん?じゃあ妾はどうだかな?あまり食べなくても別にどうとでもなるし…」
「……」
食べなくとも、いい。そういう身体なら確かに納得する。人ならざるその身姿もその強さも。そして、なるほど確かにそういう身体なら、先のようなものも作るだろう。そう思った。
「これからは、飯は私が作ります」
「…そ、そんなに不味かったか?
そうまで言われると、さすがに凹むのう…」
しょんぼりと、肩をすくめた。
さて。そうして、彼らは外に出て。
師匠と弟子としての行動をする。
つまりは鍛錬を、初めて行う。
「いやあ、実は、弟子など取ったことがなくてな。
どう修行をさせたらよいものか悩んでおる」
「で、ありますか」
「むう。
あ、そうじゃ紅蓮、手っ取り早く武器使え。
主の敵が何か知らんが、そっちのが強いじゃろ」
「…武具が手元にある時に戦えるとは限りませぬ。
それと…」
「それと?」
「可能ならばこの、手で。殺したく思っております」
「ふむ、ふむ。難儀なことを言うな。
全くもって面倒な弟子を拾ったものだ」
「すみませぬ…」
「いいや!かかか!むしろ、より気に入った!
お主はやっぱり、面白いのお我が弟子よ!
うむ、本当に。子として良かった」
かんらかんらと笑って、らくしゃは満足そうに目を細めて頷いた。くるくると喉を鳴らし、そうして好奇の視線のままに懐に入った。位置関係としてはそれこそ親に甘える子のように。
「いやいや、良いと思うぞ。その拘り、無意味でくだらないものこそが主をまだ人のまま拘泥する証明よ。人であることを祈れてあるなら、獣にはならん。むしろ安心したぞ、妾は」
「そのようなもの、ですか」
「おう。
ふむ…ならばこうしよう。妾はまあ、強い。
だからこっちは加減をしてかかる。
そっちは、妾を殺す気でかかる。
取り敢えずはそれを続けて、やってみるか」
本来ならばただ、この女仙相手のみが上手くなる、特定個人の弱みのみを見出してしまうということになってしまうような鍛錬。だが、この場合においては、この羅倶叉とは強さの差がありすぎて、そうはならない。ただ足元にしがみつけるようになるだけでも、よっぽど今よりは強くなることとなるだろう。
「ではそう致しましょう」
「おう。来い。
今度は出来るだけ痛くならんようしてやる」
「痛みを以て、お願い申す」
「かか!被虐気質だなぬしは!
良い、なら存分に痛めつけてやる!」
…
……
「………師?師匠?らくしゃ師匠」
「んがっ」
わかりやすく、眠りに付いていた師を抱き起こす紅蓮。そうして懐の中で、変な声を立てた自分自身に、ぽりぽりと恥ずかしげに頬を掻いた。
そうして見上げるように青年の顔を見る。端正な顔立ちと額に染み付いた皺の跡。しかし珍しくその顔は微笑んでいた。
「良き夢でしたか?笑っておられました」
「む…そうさな、良い夢じゃ。
お主と会ったばかりくらいの頃の夢を見てた。
すまんのう、見苦しいものを見せて」
「いいえ。珍しきものを見ました。初めてでは無いですか?私が近づいても起きぬほど深い眠りにつくのは」
「なんとはなしに安心しての…
ってええい、やかましいやかましい。
弟子のくせに生意気じゃぞ、まったく」
「夕餉は召し上がられますか」
「!おう!食おう食おう!
にひひ、今日の献立は何じゃ?」
は、とそう喜んだ顔をしてしまってから、それに気づき。そうしてから無理矢理身じろぎをして、ぬるりと液体のように懐からまろび出た。頬を少し赤らめて、おほん、と息を整える。
「…紅蓮お主、此処に来てからどれくらい経ったかの」
「おおまかに二年です」
「うむ、そうだな。二年だ。ふむ…気の所為であると思いたかったというか。まあ気にしすぎかと思っていたのだが…
……なんか、妾…」
「は」
「…この二年で、お主にほだされすぎな気がする!」
「気の所為では?」
「いーや絶対そうじゃ!
というか気の所為にしたかった!けどさっきまで夢で見てからだと明らかに妾の言動からなんかこう神秘性みたいなのが減っとる気がする!」
「………」
「なんじゃその元からさほど無かったろ、みたいな顔はッ!」
「さ、左様なことは…」
高い高い山の上、甲高い仙女の声とそれに振り回される子の声が雲に遮られて消えていく。初めての師、初めての名。
それらは互いの影響を得て静かに変化をしていく。
そうした日々を、まだ平穏として過ごしていく。
暫くの、後まで。
そうした日を残していく。
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