鳥の就活

みけろくろ

電車と影

 人間の群れがホームに立っている。

 色あせた服が1列に並ぶ風景は、廃業しかけたクリーニング屋を思わせる。

 すべての人々が、白線に目を落としている。


 今週の自殺者を白線で数える習慣がうまれたのは、五年前のことである。

 十四歳の女子生徒が毎日毎日、たてつづけに飛びおりる事件が起きた。学校の屋上から、ビルのテラスから、駅のホームから、彼女たちは落下した。


 そんなニュースを思いだしながら、鳥はくちばしの横を長い爪でかいた。


「どうでもよい他人、しかも、死んでしまって救いようのない他人のことなんて考えるべきじゃあないな! ぼくにとって、本当に重大な物事に集中しなければ」


 しかし、セーラー服の女の子はくりかえし脳内で飛びおりる。


「羽がはえていれば!」


 電車にはりつけになる女の子を見るたびに思ったものだ。自分の黒くて巨大な羽を、彼女の背中にくくりつけてやりたかった。


 現代に生きる鳥は飛ばない。

 むろん、飛べないわけではない。電車のほうが速いうえに、とても安全なのだ。


 鳥はポーラーハットをかぶり、ダブルスーツとロングコートのなかに羽をしまいこんで、人間たちと並んでいる。


 人間たちは、総じてくさい。オーデ・コロンと白百合とわきがと頭皮のあぶらの匂いが、くちばしにぽつんぽつんと空いた孤独なふたつの穴を刺すと、


「本日も……」


 と、鳥は嘆息する。


 ああ、どうして、このような目に遭わなくてはならないのだろう。

 鳥が首をひねると、斜め後ろの学帽をかぶった男子高校生が、飛んできた羽毛を迷惑そうに手で払った。


「わからない」


 鳥はつぶやいた。

 しかし、わからないことをいつまでも考えているわけにはいかない。


「わからないということが、わかったわけですから」


 そう納得してうなずくと、にこやかに左隣に立っている背広の男に話しかけた。


「今日はよいお天気ですね」


 実際、非常によい天気だった。

 鳥のほがらかな挨拶に気をよくした朝日が、白金色の指をのばし、背広の男のふけを払ってやった。


「ほうっておいてくれ!」


 男はひきつけを起こしたように顔をあげて叫んだが、ハッとすると、


「すまん、きみに言ったわけではないんだ……」


 と、謝った。


 いっぽう、指をはねのけられて怯えた朝日は、ゆったりと広いパルテノン神殿のような肩におさまって、うっとりとした。

 だが、それが鳥の黒い肩の上であると気づくと、あわてていなくなってしまった。


「むしょうにいらいらするんだ。人生に余計なことしかなくてね」


 そう男が言うと、鳥はうなずいた。


「たしかに、朝日という存在は世のなかで一番余計なものかもしれませんね」


「ああ、まったくだ。世間には不要なものが多すぎる!」


 男は数えあげた。

 上司、部下、家内、子供。そろいもそろってグズばかり。


 やおら、鳥が帽子を脱いだ。

 暑くてまいるなあといったふうにハンカチをスーツの胸ポケットから出し、玉虫色のおでこをぬぐう。

 男はうらやましそうに鳥を見た。


「いいハンカチだ」


「そうですか?」


 鳥は男を見つめた。

 つぶらで丸い正直者の目だったので、男は意気地をそがれ、


「両手にかせがついてるような気分だな。こうも暑いと」


 と、ため息まじりに言った。


「あなたは私みたいに毛まみれじゃないんだから、脱げばいいじゃないですか」


「いたってまともなことを言うね。だが、こいつは脱げないんだな。きっちり背中の皮とぬいあわされていてね……」


 男が左腕を背広からぬくと、背中と背広が白い糸でしっかりとまつりぬいされているのが見えた。


「これは申しわけないことを言ったみたいだ」


 鳥がつぶやくと、男は肩をすくめた。


「いいんだ、みんなそうだろ? 文句を言ったってしかたない」


「じつは、これからぼくは就職面接に行くんです。こうやってぬいつけられてしまうものでしょうか」


 男はすこし自信をとりもどした顔で「おやおや」と言った。


「職を探しているのかい、きみは」


「そうですね。長らく鳥という仕事に従事していたのですが」


「どうなんだろうな。鳥の背中をぬいつけるような馬鹿者には会ったことがないが、しかし、会社によるだろうな。まあ面接ではなにを言われても、うんと言っておいたほうがいいよ」


 鳥は悲しそうにうなずいた。


 電車はまだ来ない。

 突然、電子掲示板に、三つまえの駅で人身事故が起きたと表示された。


「あれっ」


 男が驚いて叫んだ。

 頭上から大きな雨粒が落ちてきたのだ。


「おいおい勘弁してくれよ」


 男はかばんを頭の上にかかげて文句をいった。


「たかが人身事故くらいで泣かなくたって!」


 あっというまに土砂ぶりになり、あとから灰色の巨大な雲があわてて追いかけてきた。


「あなたみたいに、背中をまつりぬいされた青年が飛びおりたみたいですよ」


「そいつはいくつだったんだ?」


「はあ、二十三だそうです」


「ふうん。ずいぶんと、いやになるのが早かったんだな。若いやつはそうさ。我慢することを覚えるまえにやめてしまう。明日、明後日、そんな近くじゃなくて、もっと光さえ届かない未来に夢を見ることができればいいんだがね」


 電車が遅れてしまったので、男と鳥が退屈しのぎに話していると、ようやく鈍行の未来がやってきた。運転手が手信号で呼びよせたのだ。

 そう運命づけられた速度で頭を真っ赤にぬらした未来は、毎朝の日課なので文句も言わずに男と鳥のまえに停車する。


 鳥がいたたまれないようすで電車に近づくと、運転手が車掌室から首を突きだした。


「おい、お客さん。汚したものは自分でかたづけてくれよ」


 見ると、電車の頭に青年がくっついている。

 運転手をやぶにらみし、自由にならない手足と引き裂かれた体をひねっている。


「かたづけようにもねえ、自分で自分の背中がひっぺがせるなら、こんな目に遭わずにすんだのになあ!」


「そりゃあ」


 鳥は電車の頭にひっついた青年をジロジロと眺めた。


「お気の毒さまですね……」


「本当に! だれかが俺の背中を押したんだ。信じてくれるかい、鳥さんよ。鳥ってのは正直なんだろ?」


「ええ、私はノーチラス号の艦長より正直者です」


 鳥がそう答えたので、青年は感動した。

 雨もすこし弱まってきた。


「俺の仇をとってくれるかい?」


「ええ、もちろんですとも」


 鳥はぐしょぬれになった帽子をとると、六本のかぎづめで雑巾しぼりにした。

 かぎづめには黄色と黒の立ち入り禁止のビニールテープが巻きついていて、それを見た青年はぞっとして身ぶるいをした。


「きっとこの電車に乗っているんでしょうね」


 と、鳥が聞いた。


「そうだよ。俺は六両目を待っていた。暑かったなあ。これもすべて過去のこと。今はふりかえることしかできやしない」


「先頭に立っていたあなたを、だれかが押したんですね」


「いいや、俺は一番後ろに立っていたさ。あんたも知ってのとおり、ぎゅうぎゅうに混んでいて、だれがどの列に並んでいるのか、本人にしかわかってなかった」


 青年はせきばらいをした。

 肺がゆれるかわりに、電車のヘッドライトがぴかぴか光った。


「押されたんじゃない。俺は影にふきとばされてしまったんだ」


 鳥はひどく当惑した。


「影はあなたみたいな人を殺しませんよ」


 と、小さな声でささやく。


「ええ、つまりね、いわゆる……しゃんと生きている人間ならともかく!」


「いいや、あれは影だったね」


 男ががんとしてゆずらないので、鳥は困惑して上に伸びたりちぢこまったりした。

 すると、それを見ていた運転手が、


「影じゃなかったよ、そいつはみんなをかき分けて、みずから俺のまえに飛びだしてきたんだ」


 と、話した。


「でたらめを」


 男は顔を真っ赤にした。


「俺は神さまを信じているんだ。そんなことするもんか」


 運転手は目をぐるりと回すと、車掌席に引っこんでしまった。すっかり打ちひしがれた鳥が並んでいた場所へともどると、車両点検が長引いているようで、駅員たちはあくせくと掃除をしたり、吊り広告のシワを伸ばしたりしていた。

 背広の男はそのようすを退屈そうに眺めていたが、鳥がもどってきたのを見つけて、


「どうだった?」


 と、たずねた。


「ようやく雨がやんだから、だいぶ世間さまの機嫌もよくなったのかと思っていたんだがな」


「それがそうでもなくて、証言が食い違っているんです」


 鳥は頭をかいた。


「影が人をふきとばすなんて、そんなトンチキな話があるもんですかねえ」


「そんなこと言ったら、自分で自分を殺すんだってトンチキだぜ」


「おっしゃるとおり。あなたはずいぶん聡明なんですね。どんなお仕事をしていらっしゃるのですか?」


「営業だよ。電子材一部二課の課長。あんたは?」


 恥ずかしそうにする鳥を見た男は、優しい気持ちにかられて、それ以上は聞かなかった。


 ようやく電車の発車準備が完了すると、人々が黒い川のように流れだした。

 男と鳥は、おたがいになんとなく離れがたく思い、ガタンと扉がしまって、みんながひとつの生物みたいにふうふう荒い息をついているあいだも、こそこそと話をしていた。


「営業ってのは、むずかしい仕事なんだよ、鳥くん。賢くなきゃいけない。だが客に賢いってことを気づかせちゃいけない」


 鳥の体は羽毛布団みたいにふところ深く、男は背中を彼にあずけることで、かなり楽ができた。


「俺たちは目をつけられないようにしなけりゃならん。もうけすぎず、しかし、金は手にいれなきゃならん。物事のちょうどいい部分を知らないといけない。ポンコツなミシンみたいなもんだ。世間さまってやつを、まあまあな具合に繕うのさ」


 背中のまつりぬいの糸を、その仕事に使うんだろうなとひそかに思いながら、


「毎回うまくいくわけでもないでしょう?」


 と、鳥は聞いた。


「そりゃね。ちょうどいいってのは、やっかいなんだ。うまくいかなくても責めないでほしいよ。俺だって達人じゃない。それでもなんとか、あらゆる距離から等分でいようと努力しているんだから」


「それってとても大変ですね」


 電車が右カーブをまがる。

 車体がかたむき、電車の頭にくっついていた血まみれの青年が、とうとうはがれて窓の外を流れていった。


 鳥はそれを見て困ってしまった。

 やはり、事件の真相は影が青年をふきとばしてしまったのだと気づいたのだ。

 影は馬鹿者をゆるさない。

 きっと青年は、おそろしく馬鹿げたことをしたのだろう。


 しかし、正直者の鳥は無念を晴らすと青年に約束してしまった。

 窓の外を流れつづける青年にたいして、なにもしないわけにはいかないだろう。


「あっ、あんなところにUFOが!」


 窓をゆびさすが、みんな知らん顔だった。

 鳥は悲しかった。電車に乗るときには自分と友達以外の人間をジャガイモだと思わなくてはいけないというルールがあることを忘れていたのだ。


 雨が窓をコツコツ叩き、鳥にささやいた。名案があるようだ。

 鳥が窓に頭をよせると、大きな体をむりやり曲げたために、おとなしく揺られているだけの人たちをコートにすっぽり包んでしまうような格好になった。


 名案とは、ひとまず適当な影をひっつかまえて、そいつを犯人にしてしまおうということだった。鳥は気がとがめたので、美容整形外科の広告のなかで腕をくんでいる医者に、


「医学的見地から、どうお思いです?」


 と、たずねた。

 医者は鳥の体を検品するようなまなざしで見ると、


「君は健康にちがいない」


 と、断言した。


「健康な鳥は正しい判断ができるもんでしょうか?」


 医者は眉をひそめた。


「そういう役にたたんことは、あっちの週刊誌に聞いてくれ」


 医者は吊り広告をあごでさした。

 しかめつらの政治家は、ぶしつけな医者の態度にムッとしたが、下手なことを口にだすと先週金曜日に勇退した先輩の後を追うことになるので、愛想よく口角をあげた。


「どうしてそう思われるのでしょうかね? あなたはどこからどう見ても正常で常識的な良い鳥に見えますよ」


「そいつはよかった。それなら適当な影に罪をおっかぶせても大丈夫ってことだ」


 政治家は卒倒しそうな顔で「罪をかぶせる?」とくりかえした。


「そいつはよろしくないなあ。だが、あなたの言うことにも一理ある。罪の所在ってのはわれわれ人間ではなく、われわれの影にいつもつきまとうもんなんだから」


「あなたの影にも?」


 政治家は悲しそうにうなずいた。鳥は、なるほど、それなりに立派なことを言うものだと納得した。

 それでどうするべきだろうかと悩んでいたが、だんだん見ず知らずの青年のために長く考えているのが馬鹿らしく思えてきたので、手頃な灰色の背広の男の影をつかまえると、


「こいつが犯人だ!」


 と、叫んだ。


 鳥が急にそんなことを言ったので、男は心底おどろいた。まわりの客もギョッとして見つめている。


「ちがう!」


 と、男は叫んだ。


 車両いっぱいに鳥がふくらんだ。風船のように丸くなったコートが窓をおおい、外から見ると幕がおりた体育館のように見えた。

 かぎづめのテープが灰色の背広の男の影をひっとらえると、影はじたばたしていたが、すぐにぐったりした。

 鳥の両目は、親切そうな赤と白の二重丸である。その目をぎろりとにらみつけながら、男はわなわなふるえて、


「どうして俺の影が!」


 と、わめいた。


「あんた、俺とずっといっしょにいたじゃないか。あの青年を、俺の影が突きおとすことなんてできるわけないだろ?」


 鳥はしらっとした顔で無視した。そして、こわがっている客たちに、車掌を呼ぶように言った。

 突然呼びつけられた車掌は怒ってしまい、両手両足をふりまわしながらやってきたが、みんなに見つめられている男を見て、急に叫んだ。


「こいつ、さっきの人身事故の犯人じゃないか!」


 男は顔面蒼白になった。まさか車掌が顔を覚えているとは思ってもいなかったのだ。乗客全員が息をのみ、ざわついた。


「どうして三駅もまえの人間を突きおとそうなんて思ったんだ?」


 だれかが男にたずねると、黄色と黒のテープにぐるぐる巻きにされて、葬式用の黒いネクタイみたいに垂れさがっている影が口をひらいた。


「だって、もう働きたくなかったんだ。背中は痛くてならんし、頭は日に日にわるくなる一方だ。もうたいした時間も残っちゃいないというのに、これといった楽しいことも嬉しいことも、なしとげたこともない。満員電車みたいな人生だった! それなら最初から電車にでも殺してもらったほうがよかっただろうと思って」


 それを聞いて、客たちは灰色の背広の男のみじめさに同情した。

 なんてかわいそうな男なんだろう、と鳥も思い、


「あなたのためにしてあげられることはないでしょうか?」


 と、聞いた。

 影も男も黙ってしまった。時間が来たのだ。


「彼が来てしまった!」


 鳥は宣告した。


「灰色の背広の男のために、私は帽子をぬぎます。さあ、あなたがたも」


 乗客たちも帽子をぬいで胸にあてると、灰色の背広の男と影のことを考えた。

 

 すると、彼が来た。


 鳥は帽子をかぶりなおし、爪にくるくると影をまきとった。雨はやみ、今度は雲となかよく帰っていった。人々は、いまあったことを忘れて、目的地につくまでまわりの人たちをジャガイモだと思うことにした。


「その影は、おいくら?」


 彼が話しかけてきた。


「たいした価値がありますよ」


 と、鳥は答えた。


「だれかに売るなんてこと、考えられないくらいに……」


「でも鳥が持っていたってしかたないものさ。ゆずってくれよ」


 鳥は、そうすることにした。

 かぎづめから影をまきだして、彼にさしだした。


「おいしいねえ」


「それはよかった」


「人を殺した影は、えぐみが強いって聞いていたんだけど、あれはうそっぱちだ」


「おそろしいことを。この影は、だれも殺しちゃいませんよ」


 窓がガタガタと揺れた。電車がトンネルのなかに入る。

 彼は指を口のまえに立てて、人々にだまっているように指図した。だれもが沈黙をまもった。彼の言いつけには、世のなかのなにもかもが従うのだ。


「あれま、影が消えちまった。存在しないものに殺人事件は起こせないね」


 彼は肩をすくめた。そして、鳥をバーベキューに誘ってから家に帰っていった。


 やがて、電車が最終駅についた。

 鳥がホームにおりると、お昼どきのひざしが駅舎の柵のむこうに生えている草とたわむれていた。

 それらにあいさつをして、いねむりしている駅員に気づかれないように改札を乗りこえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る