第7話

 ジュンさんが母親から借りたという車は、多分外車なのだろうけれどギラついた感じはなく、端正なコンパクトカーという感じで、ちょうどこのビルのタイルと似た色のパールホワイトの車体だった。

 助手席にポンさん、後部座席に右からオサジ、アヤ、わたしの並びで座った。

 たった15分ほどの道のりであるはずなのに、長く、浮ついた感じがした。この夜のドライブで、わたしは初めて中央線が神田川沿いを走っていたことを知った。東京ドームのライトアップされた観覧車が見えたあと、他の建物より群を抜いて高いビルが見えたかと思うと、丸みのある細身のゴシック体で書かれたとある大学の名前が、長さの違うランプが三つ吊るされているかのように、高さの異なる三つのビルにライトアップされていて、夜のなかにくっきりと、でも静かに浮かび上がっていた。

 それを過ぎるとすぐ、同様に大学名の文字を光らせている別の大学のビルが一棟あって、そうかこの辺りは学生街なのだよなぁと思っていると、車はその手前の道を左折して、中央線沿いから外れた。

 少し走ると、雑多な繁華街が見えてきて、そこからまたほんの少し走るとオサジが言っていた通り、不忍池が現れた。

「もう着くよ、あれ」

 ジュンさんが指し示す建物は車の中から見上げても一番上が見えなかった。下車してマンションのエントランスへ入ると、デザイン性の高いソファーがいくつか置かれたロビーの奥に入場ゲートがあった。

「ちょっとポンくんついてきてくれる?」

 ジュンさんはそう言うと歩き出した。

 ジュンさんが入場ゲートにカードキーをタッチするとゲートが開いて、ジュンさんが平然と進む。

 その後ろをポンさんがついていった。

 ジュンさんが通り終わって、ポンさんが半分くらい入ったところで、ピピピピピピピーッと入場ゲートからけたたましい音が鳴り響く。

「なになになになに!?」

 ポンさんは大慌てし、ちょうどポンさんの腰くらいの高さに位置するゲートが閉まりかけた。ポンさんはそれを避けようとして上体を逸らし、ゲートに挟まれかけながらもなんとか抜け出す。

「やっぱりダメか……、いけるかと思ったんだけどなぁ」ジュンさんは呟く。

「何がだよ」ポンさんが立腹してみせる。

「いや、人が通る間はずっと開いてるものかとも考えたの」ジュンサンは言う。

「ちょっとこれ一人ずつ使い回しで」

 ジュンさんはそう言ってカードキーをわたしたちへゲートの向こう側から手渡して、そうしてカードキーを使い回して一人ずつ全員がゲートのなかへ入った。

「この入り方で合ってんのかよ?!いや合ってないだろ!」

 ポンさんが鼻から笑いをこぼしながらつっこんだ。

 オサジとアヤ、わたしも同様に笑った。

「こうやって自分が招いた人と一緒に入るの始めてで、やり方よくわかんないのよね。ほら、いつもインターホン越しに解錠するだけだから」

 ジュンさんは困ったように笑った。

 そうやって抜けたゲートの先には低層階用と高層階用とで分かれたエレベーター乗り場があって、ジュンさんは高層階用のエレベーターへわたしたちを案内した。


 ジュンさんの家はリビングだけでわたしの下宿先の二倍以上の広さがあった。

「うわ、広!ここ間取りなんすか?」

 オサジがそう尋ねると2LDKとの返答だった。この広さにあと二つも部屋があってそこに一人で住んでいるだなんてすごいなぁとぼんやり思う。

 オサジは家の間取りを聞いたりはするけれど、じゃあ他の二部屋ってどうなってるんですか?とか、見せてもらえますか?とかそういう踏み込み過ぎたことは聞かなかった。

 ジュンさんはL字型に配置されたソファーに座るようにわたしたちを促す。

「コーヒーで大丈夫?」そう確認して、

「あっポンくんはいつものでいい?」と追加確認をした。

「用意してくるね」

 そう言いキッチンへと向かった。

 ジュンさんがトレーにそれぞれデザインの違うマグカップを三個と、スティックシュガーとポーションタイプのミルクをそれぞれ三つずつ載せて戻ってくる。

「はい、どうぞ。一応デカフェのやつにしておいた」

 ありがとうございます、とそれぞれの言い方でおのおの言って、それぞれ取りやすい位置にあったマグカップを手に取る。

 ジュンさんとポンさんは何を飲むのだろうと思っていると、ジュンさんはもう一度キッチンへ足を運び、多分同じデカフェのコーヒーが入っているのだろう大きめのマグカップを左手に持って、右手にはジンジャーエールの160㎖入の小さな缶を持って戻ってきた。

 慣れた様子でポンさんにその小さなジンジャーエールの缶を手渡す。

 どうやらポンさんが遊びに来たときはこの缶のジンジャーエールを飲むのがお決まりになっているようだった。ポンジュースじゃないんだ、と、きっとオサジも思っていることだろうと思った。

 ポンさんが缶をプシュっと開けた。いい音がしてカクテル試飲会の楽しかった部分のことが思い出された。

 アヤとわたしがそのままコーヒーを口にすると、

「え、みんなブラック飲めるんだ!俺は悪いけど砂糖いれさせてもらいますわぁ」と、オサジがおどけた。

「悪くはないでしょ」ジュンさんがぼそっとつっこみを入れる。


 わたしとオサジ同様、ここへ初めて来たアヤは「素敵」とさらっと言ったものの、一番気になるのは動物園の動物がどういう風に見えるかということらしかった。

「昼間はあの手前のところにキリン、あっちのほうにフラミンゴが見えるのよ」

 ジュンさんがそう説明すると、アヤは目を輝かせていた。

「私、子どもの頃の夢が動物園の飼育員だったんです」

 アヤはそう話して、みんなアヤのその話に耳を傾けた。

「動物ってほんとかわいいと思うんですよね。はじめて触れた動物は私が生まれる前から祖母の家で飼われていた犬だったんですけど、白いマルチーズで、白いふわふわの毛にまんまるの黒い目と鼻が、多分赤ちゃんの目を通してでもはっきり見えて、ほら、アンパンマンって赤ちゃんの目でもわかりやすい造形だから幼い子どもから人気があるっていうじゃないですか、多分それと似たような感じで私もその犬のことを認識しはじめて、さわるとふわふわ柔らかくて、あたたかくって、向けた愛をそれ以上にして返してくれるような深いやさしさがあって……、私初めて喋った言葉が『ワンワン』だったらしいんです」と笑う。

「小さい頃の記憶ってそんなにないんですけど、犬を見ると嬉しかったのはずーっと覚えていて『ワンワン!』と犬を指差してよろこぶ、歩き始めたばかりくらいのよちよち歩きの自分の姿が、ビデオに残ってるんですよ。そのときの私、本当に嬉しそうで……それで祖母の家の犬をきっかけに他の犬のことも好きになって、他の動物にもその好きが波及してって感じで……。なんか動物園の見える家って、そんなところがこの世の中にあったんだって感動しちゃって、つい語っちゃいました」申し訳なさそうにして話をやめる。

 アヤは両手で持っていたマグカップのコーヒーを一口飲む。

「いや、興味深い話だよ」ポンさんが真剣な顔をして言う。

「そうだよ、まさか僕ん家の動物園ビューからこんな話が聞けるなんて」ジュンさんが言う。

「でも動物関連の進路には進まなかったのね、アヤちゃん文学部だったよね?」ジュンさんは尋ねる。

「そうなんです……、小学校低学年の頃、その犬が死んじゃって、それがあまりにも悲しかったんです。命は一方向っていうか、当たり前なんですけど、みんないつか絶対に死んじゃって、そうして決して生き返りはしないということを初めて実感して。それで、私これからもいくつものそういう死を目の当たりにしていくことに、自信がなくなっちゃって。それで死なないものはなんだろうって幼いながらに考えて、木は樹齢五千年くらいにもなるって図鑑に書いてあったのを見て、木もいいなあと思ったんですけど、木に関わる仕事って多分伐採することが避けられないと思って、それはなんていうかまた耐えられないかもしれないと思って、仕事にするのは違うなって思ったんです」

 わたしも実家に犬がいて、アヤの話にいろいろ共感するところがあるけれど、自分の実家の犬の話は出さず、

「だからアヤのLINEのアイコン、縄文杉とのツーショットなの……?」と、ユズカがLINEグループを作った際に目にしたアヤのアイコンのことを思い出して、そう尋ねる。

「そうそう」とアヤ。

「そういうことか」とオサジ。

 ポンさんはLINEを開いてアヤのアイコンを確認している様子だった。そして隣に座っていたジュンさんにもスマホの画面を見せていた。

「なんで文学部に入ったかって話なんですけど、木は断念して、他に似たようなものがないかと考えたときに、本があるかなと思ったんです。本それ自体も長く存在し得るものだし、なにより本のなかの登場人物は死なないじゃないですか。いや、ストーリーの展開上死ぬ登場人物ももちろんいるんですけど、なんていうか全登場人物が物体としては最初から存在しないじゃないですか。だから私のなかでは死ぬもなにもないって感覚なんです。もちろん思い入れのある登場人物が作中で死ぬと悲しくはありますけど……。動物は当たり前ですけど、物体として、生命として存在していて、死ぬともうその物体としての、一個体としての存在は消えてしまうというか、変質してしまうのに、死んだ後も私の中では生きていたときのまま生き続けているっていう感覚なんです。それが悲しくて……。あと、私アヤって文字の『文』と書いてアヤって読むんですよ。父がすごく本の好きな人で、本とともに、たくさんのいい文章に愛されて生きてほしいって理由で名付けたらしいんです。多分私が動物と関わる道に進むのも、多分両親は反対しなかったと思うんですけど、とにかく、私が本を読むのをすごく喜んでいたし、私ができれば小説家になりたいって言ったときも、あ、私一応小説家志望なんですけど、大体やめとけって言う親が多いと思うんですけど、うちはむしろすごい応援されて喜ばれて、それで今に至るんです」

 一同アヤの話に耳を傾け続けていた。

「でも、最近よくわからなくて。やっぱり動物を見るとすごくかわいくって、命あるもの特有の輝きがあるなあって思うんです。限りある命に精一杯向き合って、もし動物が私に信頼を向けてくれたらそれに対して絶対に応えてあげられるような、そういう一貫して強く、揺るがない自分でいられたら、もっとこうしてあげたかったなぁとか、そういう後悔が一ミリも生じずに、命との別れも乗り越えられるかもしれないって思ったんです。そういう、命からの信頼に足る自分でありたいんです。でも、私が本を好きになったのは命からのある意味逃避がきっかけで、それを考えると自分がこうありたいって思う自分と今の自分は矛盾している気がするんです」

 アヤはそのままで十分信頼に値するとわたしは思った。

 どう伝えようか迷っていると、

「アヤはそのままで十分だよ!」とオサジが言った。

 オサジがどういう思考の結果その言葉に行き着いたのかはわからないけれど、おそらく結構違う気もするのだけれど、結論は同じだったから、わたしもオサジに同調してうんうんと首を縦に振った。

 ジュンさんとポンさんも同じく首を縦にうんうんとやっていて、みんな道は違うのかもしれないけれど、行き着いた結論は同じようだった。

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