ブルー・トレイン

@poemyu

第1話


 灰色の地面に薄桃色が滲んでいた。革靴やパンプスの黒い足元ばかりが、アスファルトに散った桜の花びらを踏み潰しながら忙しなく行き交っている。まだ誰にも踏まれていない一枚が視界の端へ入ってその無事に安堵する。そこへ黄色い絵の具をチューブからひねり出してそのまま塗りたくったようなイエローに、蛍光色の赤いラインが入ったスニーカーが一足飛び出してきて、その一枚を他と同様に滲ませた。そして地球の周りを回る月の軌道を描くかのように手首のスナップをきかせて鬱陶しいくらいにひらり、とB5サイズほどの大きさのピンク色の紙が胸の真ん前へ差し出された。

 わたしは仕方なく顔を上げた。


「国際交流サークル、オリオンです~」

 オレンジみの強い、きっと自分で市販のヘアカラー剤を塗って染めたのであろう金髪頭、無造作な黒い眉毛の下に、太めのスクエア型の黒縁眼鏡をかけた男がそう言って、わたしがその紙を受け取るのをどことなく圧力を含んだ笑顔で待ち受けていた。

 わたしは軽く会釈をしてそれを受け取り、足取りを早めた。

 受け取った紙はざらついた触り心地がした。大学サークルの、新入生勧誘のビラだった。

 その紙には黒の太字で《新入生歓迎》《インカレ》《男4:女6》などと印刷されていた。

 一枚受け取ったが最後、再び俯く暇もないくらい次々と《ダンスサークル☆サンダース☆》《ダイビングサークル~アクアマリン~》《散歩同好会*アネモネ*》《ボランティアサークル<ケセラセラ>》だとか、なんとか部やなんとか研究会の類、複数の団体から同じような紙を手渡された。

 大学の門に差し掛かった頃には両手で抱えて持つほどの量になっていて、ビラの束の上に新しいビラを乗せられる始末だった。

 門前に設置された、大学名が毛筆で力強く書かれた入学式用の立て看板には、新入生とその保護者らが入学記念の写真撮影をするための長蛇の列ができあがっていた。

 都内のいわゆる難関私立大学と言われる大学の入学式だからか、街頭インタビューを受けている人たちもいた。

 わたしはそれを横目にしながら、一昨日急いで量販店で間に合わせた、入学式用スーツとセット売りされていたやたら固い合皮の、いずれ就活にも使えるという謳い文句の、真っ黒で滑稽なくらい角張ったバッグにそれらを詰め込んで、一人帰路についた。


 キャンパスから二十分ほど歩いた駅からまた二十分ほど下りの電車へ乗ったところにある下宿先の安アパートの、不動産屋の担当者に説得されて、なくなく一階を諦め契約した、一階よりも四千円ほど高い二階の一室へ戻ると、入学式で右隣の席に座っていたオサダヨウジという名前の男からメッセージが届いていた。

〈入学式で隣だったオサジです!これからよろしく!〉

 入学式に一人で参加しており、所属する学部の入学式が始まるまでの待機時間を持て余していたわたしは、両隣の、どうやら同じく一人参加のように見えた左右二人のうち、どちらかというと波長が合いそうな気がした右隣の人物に「一人参加ですか?」と話しかけた。それがオサジだった。

「一人参加っす。一人参加ですか?」

 驚きと嬉しさの混じったような表情で勢いよくこちらを向いて、

オサジは感じよく答える。

「そうなんですよ……上京してきたばっかりで、全然知り合いいなくて……」

「俺も地方出身です!東京ってほんと人多いっすよね。この会場も人やばいし……」

 オサジはそう言って、会場を見渡す。

 自分を含め、似たような黒いスーツを身に纏った、新入生たちがひしめき合っていた。

「俺ぇ、あと浪人してて、それで同期の友達全然いないんっすよ……」

 オサジが重大な告白でもするかのように、神妙な面持ちで言う。

「え、そうなんですね、わたしも現役じゃなくて……。何浪ですか?」

「……俺、二浪なんっすよねぇ」

「わたしもです」と答えると、え!まじか!なんかすごいうれしいんだけど、いや、なんかこの大学、他の大学よりは浪人率高いって聞いてたけど、実際来てみたら結構みんななんか見た目的に年下なのかなーって感じの人ばっかりで、ちょっと戸惑ってたんっすよね、疎外感っていうか、と“二浪”という共通点に自分が思った以上の食いつきがある。

「わたしもそうかも」話を合わせる。

「じゃあ俺、年下の同級生に『タメ語でいいよ』って言う予行練習してたんだけど、俺らは普通にタメ語だね」

「そうだね」と笑い合う。

「あ、そういえばなんて呼べばいい?」

「スイっていいます」

 あ、タメ語でいいって言ったじゃん、ごめん、なんか癖で、と、敬語からタメ語へ切り替える際のあるあるの会話の流れになって、自分から話しかけたものの、もうそろそろ式が始まらないかなとうっすら願う。

「スイって名前、初めて聞いたかも。あだ名とかじゃなくて本名?」

「うん、」

「そうなんだ!いい名前だね」

「……そうかな?ありがとう。そっちはなんて呼べばいい?」

「俺、オサダヨウジっていう名前で、友達からは大体オサジって呼ばれてて、だからスイもオサジって呼んで」

 オサジは『匙』という単語のあたまに『お』をつけた『お匙』の言い方と同じ発音でオサジと言った。わたしもそれに倣ってスプーンを丁寧に言うみたいにしてオサジと発音する。

「オサジもいい名前、っていうかいいあだ名だね」

 本当にそう思った。オサジはうれしそうに笑った。

 そんなやりとりをしていると、ちょうど壇上に人が現れた。オサジが何か言いかけていたけれど、わたしは「あっ、もうはじまる?」と壇上を指さして、オサジもあ、ほんとだと言い、正面に向き直った。

 式が終わると、オサジから連絡先を聞かれ、快く教えた。でもこの後も一緒に行動する流れになるのは避けたくて、わたしはじゃあまたね!と笑顔で手を振って、足早に立ち去ったのだった。


〈オサジ!連絡ありがとう こちらこそこれからよろしくね!〉

 メッセージを送り、線画調の、無愛想とまではいかないけれど無機質なモノクロのクマの絵柄のスタンプを添えた。

 すぐに既読がついて、オサジからは水彩画タッチの猫の絵柄のスタンプが送られてきた。そのスタンプは偶然、わたしも普段よく使っているものだったけれど、特に何も言及しなかった。


 着ていたスーツを脱いで、部屋着へ着替えると、狭いワンルームの部屋の片隅に置かれた、無数のビラがすし詰め状態になっている、全然趣味じゃない真っ黒のバッグが放つ存在感というか気というか、威圧感のようなものが、より鮮明に感じられて、まるごと捨ててしまおうかという考えが一瞬よぎるけれど、とりあえずベランダに締め出す、ということで自分と手を打った。

 ベランダに通じる窓を開けると、水分を含んだ土のにおい、潰れた草花のにおい、砂埃の、どこかの家庭の煮物料理の、塩素系漂白剤の、湯気とともに漂うフローラルソープの、いろんなものが入り混じった、春のにおいがした。

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