第5話


 微かに、歌が聞こえた気がした。

 優しい旋律の、鼻歌だ。

 ……涼しい風が吹き込む。

 うっすらと瞳を開き、自分が数時間眠ったことを、すぐに理解した。

 眠りにつく前の気持ち悪さは、もう消えている。


「目が覚めましたか?」


 声がして、一人の青年が近づいてくる。

 彼はやって来ると、側に用意されたグラスに水を注いでくれた。

 イアンを少し助け起こして、水を飲ませてくれる。水は冷えていて、喉に通るとホッとした。

「……ありがとう」

 彼の顔を見て、イアンは目を瞬かせた。


「きみは……――ネーリ?」


「はい」

 ネーリが微笑んだ。

「ここ……神聖ローマ帝国の駐屯地やろ……? なんで君が……」

「ぼく、画家なのでこの駐屯地で今絵を描かせてもらってるんです」

「そうなの?」

「フレディ……フェルディナント将軍が、僕の絵を買って下さって。竜の絵が描きたかったから、見せてもらってるんです」

「そやったのか……びっくりしたわ、いきなり君がいて……」

 ネーリは側に椅子を持って来ると、水に浸した布を絞って、イアンの額にそっと置いた。

「そっか……、俺あのまま倒れたんやな」

 思い出した。

「おおきに。君がずっと看病しとってくれたんやな。眠っとったけど、なんや誰かが側にいてくれとるのは何となく感じとってたわ……」

「平気です。僕はここでは絵を描いてるだけだから」

 優しい声でネーリが答えた。病人を安心させようと、そういう声で話しかけてくれてるのが分かる。

「……ここの連中にもすっかり世話になってもうたなあ。違う国の奴らの本拠地で倒れるなんて、俺も将軍失格や。戦場ならあんなもん一発で首取られとる」

 自分にがっかりしたが、ネーリは首を振った。


「フェルディナント将軍とは、士官学校時代にお友達だったと聞きました。自分がスペイン出身じゃないことを、悪く思って来る人もいたけど、イアンさんは一番最初から出身なんて全く関係なく仲良くしてくれた人だって。僕も、街で貴方に助けてもらいました。申し訳ないなんて思わないでください」


 イアンは小さく笑った。

「そうか。……ありがとな。――フェルディナントは……?」


「スペインの駐屯地に行って来ると言ってました。貴方のことを心配してると思うからって。目が覚めて、まだ具合が悪いようだったら軍医さんを呼ぶように言われています。呼ばないでも平気ですか? すぐそこの騎士館にいらっしゃいますから、ぼく、呼んで来れます」


「いや……大丈夫や。ありがとう。気分はもう良くなった」

「よかった。フェルディナント将軍は、今日はここで休んで、明日スペインの駐屯地に戻っていただくようにと言っていました」

「いや、そうも行かないねん。とにかく港の増設作業――」

 終わらせんと、と起き上がろうとした時。

「そっか……、今朝あらかた終わったんやった……やっと明日の昼まで眠れる思っててん」

「よかった。それならこのまま休んでください。その方がフェルディナント将軍も安心されます」

 涼しい風が頬に触れた。

 外では騎士たちが、なにか作業するような音がするけど、基本的には静かだ。スペインの駐屯地はもっと常にガヤガヤしている。イアンは人が明るく話している空気は好きだったが、今はこの静けさが、妙に落ち着いた。

「……ほんなら、甘える形になるけど……そうさせてもらおうかなあ……」


「ゆっくりしてください。まだ昼下がりですし、もう一度眠られた方がいいです。寝不足とか、この暑さとか、……疲労もあったんだろうとフェルディナント将軍は仰ってました。ぼく、下にいるトロイさんに伝えてきます。目が覚めて、何か食べられるようだったら用意するから教えてほしいって言われてたので。どうしますか? 少し何か食べられますか? それとも今は眠られますか?」


「おおきに。んじゃ、今は悪いけど寝させてもらうわ……。ほんまにヴェネトに来て、連日寝不足やったから」

「分かりました。伝えてきます。ぼく、今日はそこで絵を描いていますから、何かあったらすぐに声を掛けて下さい」

 ネーリが立ち上がって、出て行く。

「ネーリ」

 振り返る。

「それ、君の絵か?」

 少し離れたところにあるキャンバスを指差して、イアンが聞いた。

「はい」

 ネーリが微笑んで頷き、出て行く。


 緑が生い茂る、森の絵だ。

 木漏れ日の中で一頭の竜が眠っている。

 竜はまだ色がついてないが、緑の森は完成し、木漏れ日が葉の間から差し込むところまで描かれている。

 あんな光景を見た後だからか、穏やかな緑の景色にイアンは心惹かれた。

 美しい絵だ。

 ただ美しいだけじゃなくて、心が落ち着く。

 ネーリの優しい笑い方や、話し方を思い出して、彼は小さく笑むと再び目を閉じた。


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