流せども、その熱。

ナナシマイ

1 はじめまして

 とにもかくにもまずは酒だ。

 夕暮れどき。人々が仕事を終えて賑わう通りのなかからコカがその店を選んだことに、特別な理由はなかった。ただ、いつもよりパアッと酒を浴びてしまいたかった。

 このあたりではたいていの飲食店が屋台形式だ。厨房や事務所のある建物は小さく、代わりに大きなテラスと小洒落たステージを持っている。店と店のあいだを仕切るのは、岩を砕いて重ねた低い塀や、この地域特有の肉厚な植栽だけで、四叉路などは複数の店の集まる広場のようになっているのがいい。

 寄せては返す岩の波を切り拓いてゆく、鉱夫と職人の街。酒好きばかりのこの街で屋外に開いた店が多いのは、ひとえに大勢で飲む酒が美味いという共通認識を持つがゆえ。加えて女性のひとり客が珍しくないことも、コカは気に入っていた。

「空透かしを氷で――……冗談、炭酸水で割って」

 老店主の呆れた視線に、コカは苦く笑みながら言い直す。

 はいよ、とまだどこか呆れたように頷いた店主は、それから「ウルメザ、そこの瓶を取ってくれや」とカウンターに座る中年の男に声をかけた。常連なのだろう。面倒そうではあるが、慣れたふうに店主のほうへ瓶を押してやっていた。

 いくつか酒のつまみも一緒に注文し終えると、ひゅう、と周囲の客らが囃し立ててくる。コカは店主から受け取ったグラスを、彼らのグラスやら瓶やらに乱雑に当てて回った。そうすれば、彼らはまた歓声をあげる。

「お前さん、可愛らしい見た目でずいぶん強いのいくじゃねぇか」

「今日はとことん飲みたい気分なんだ。あんたらも付き合ってくれるんなら、ボトルでも入れようかな」

「ハッ! 気前のいいことで! そうときちゃあオレたちも出し惜しみできねぇなァ!」

「マスター、例のアレ出してくれ!」

「アレって、アレかァ? おぉおぉ、ありゃあ嫁さんもらうときにって息巻いてたんはどうしたぁ?」

「いいじゃんよ、こんな美人と飲める機会なんてそうそうねェんだ」

「そりゃどうも」

(やっぱり、賑やかでノリがいい)

 笑うたびふわふわと揺れる長い金髪に、ぱっちり開いた若葉色の瞳。紅をつけずともほんのり血色の浮かぶ形のよい唇。通った鼻筋。仕事柄、鏡とはきちんと向き合ってきた。自分の美貌は自分がいちばんよくわかっている。

「ふうん?」

 男たちの無粋な発言を聞きつけたのだろうか。汗や岩埃の混じる臭いの中に、ふっと女物の甘く華やかな香水が香った。

「ちょっと聞き捨てならないわね、わたしの顔じゃ不満なワケ?」

 やべ、とわざとらしい知らん顔をしだした男たちに「まったくもう!」と呆れた女は、コカの肩を指でつつく。

「いい? こいつらの口車に乗せられちゃダメよ?」

 頬を膨らませた女もそれなりに器量がよい。しかしコカへ向けたにこやかな視線には、女だけが気づくことのできる嫉妬の色が滲んでいた。

 なんど経験しても、そういった視線を軽く流すのは苦手だ。

 コカはぎこちない笑みを返しながら、彼女のグラスにも自分のそれを当ててやる。

「あんたも飲む?」

「……ふふ、そうね。いただくわ」

 コカにできるのは、金払いよく酒を振る舞うことくらいで。

 相好を崩した女に頷き返してから、コカは背伸びをして振り返り、カウンター内の棚からいくつかの酒を見繕った。岩蜜柑に樹菟、雲仙人掌……この地域でよく飲まれる地酒はひと通り揃っている。適当に入ったにしては当たりだったと、コカは気分を持ち上げた。


「えれぇ別嬪さんだと思ったら――」

 少しばかり声を張ったからだろう。コカの注文は喧騒に紛れることなく店主に届き、そしてほかの客の耳にも届いたらしい。

「歌姫さまじゃねえか! なあ?」

「まあね」コカはなんでもないことのように続けた。「さっきクビになったけど」

 しん、と。静まる空間。

 それから、爆発でもしたかのように、彼らはどっと沸く。

「そりゃあ、酒がなきゃやってらんねぇなあ!」

 笑い声が岩々に反響し、裏路地にまでこだました。

 歌姫といえば、ここフーアの国立歌劇場の専属歌手だ。つまりコカはかなりの地位をいっしゅんにして失ったわけだが、派遣されてきた辺境の街ではそんな話すら酒のアテにされる。

(もとより分不相応だった。だから、さっさと流してしまうのがいい)

「ね、やってらんないよ」

 早々に飲み終えた一杯目のグラスをカウンターへ戻すついでに、コカは注文した酒瓶を両手の指に挟めるだけ挟んで、皆の待つテーブルへと運んだ。「好きに飲みな」――そう言いつつ、まずは自分が瓶から直接飲み始める。

 そうなれば客たちが「元歌姫の歌」を所望するのはとうぜんの流れで、コカは瓶を手にしたまま、ステージに立たされた。

「聖歌の祝福はもうないよ」

「ああん? そんなの、俺たちにわかると思うか?」

「……それもそうだね」

 誰でも使えるように、ステージの床には音を増幅させる魔術が引かれている。酒で唇を湿らせ、きっと虚空を睨んでから、コカは深く息を吸う。

(これを歌うのは、今日で最後にしよう)


 星降る夜に 我らの願いは届きたり

 聖なる男の手を取れ

 丘をゆく者よ 空を見上げる者よ

 我らの願いは届きたり 彼らは遠くて近い

 星の灯りを受け取るならば


 盛り上がる客たちに適当に挨拶を返しながら、一楽句を歌い終えたコカはまっすぐにカウンターへ歩いていく。注文のためではない。店主にウルメザと呼ばれていた、端の席に座る男へ向かってだ。

 陰鬱に丸められた背。暗褐色の髪は少し長めで、まるで大立ち回りでもしてきたかのように乱れていた。

 最初は気にならなかったその後ろ姿が、歌い終えた今は、目にするだけで腹が立って仕方ない。不潔というわけではないのだ。ひたすらにくたびれたようすなのが、とかく癪だった。

(こんなの、八つ当たりもいいとこだけど)

 挨拶代わりにさまよわせた瓶から、コカはまたひと口酒を飲んだ。

 どん、と鈍い音を立ててカウンターに瓶を置く。

「辛気臭いね。そんなにあたしの歌がつまらなかった? それとも、歌なんか聞いてられないくらいの事情でも?」

「なんで」男は手にしたグラスを曖昧に揺らしながら、コカを見ることなく答えた。「見ず知らずのあんたに話さなきゃならない?」

「あたしのため。仕事をクビになったあたしより暗い顔したあんたが、どんな不幸を抱えてるのか知って気を楽にしたい」

「最低だな」

「なんとでも。ね、あたしのやさぐれに付き合ってよ」

 コカは男の隣に座って頬杖をつき、その顔を覗き込んだ。

 まばらに髭を生やした表情は冴えない。しかし、髪の影に入っているはずの瞳が強い光を閉じ込めているように見えるのが不思議だった。

 そうして話の続きを無言で促していると、ウルメザは舌打ちをしてグラスを置き、シャツのポケットから煙草と燐寸を取り出して火をつける。ふ、と吐き出された煙は屋台の明かりに照らされてより白く濁り、きらきらと散らばった。そのあいだ、彼は一度もこちらを見なかった。

 どうやら本当に話すつもりはないらしい。

 コカとてはじめましての相手に深入りするつもりはない。これ以上時間を無駄にするのはやめ、また賑やかな集団のところで騒いでこよう――そう、腰を浮かした瞬間。

 通りに、目の覚めるような洗練された音が走る。

 空いたステージで、誰かが演奏を始めたのだ。その巧さとわずかに魔法を含んだ声に、はっとそちらを振り返ると、隣で、ウルメザも同じようにステージを振り返っていた。

 自然、目が合う。

「……あんたも好きなんだ、音楽?」

 からかうように言ってやれば、彼は、ハァと煙混じりのため息をついた。それから吸いかけの煙草をくしゃりと雑に潰して立ち上がる。

「さっきの返事、そうだな。あんたの歌は、つまらなかったぜ」

「へ? あ、ちょっと――」

 コカの反応を確認することなく、そのまますたすたとステージへ歩いていく男。

 意外と背が高かった、などとコカが思っているあいだに、彼は演奏中の青年の目の前に到着していた。ウルメザの表情は見えない。ただ、青年がにこりと微笑んで演奏をとめて。

 ウルメザという男は、ぽんっと小さく――古風な竪琴になった。

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