第10話 握りしめた旬の光
その朝、北の空はどこまでも澄み渡り、雲一つない青が広がっていた。海風が吹きつける小さな漁港は、どこか冷たく、しかし清らかな空気に満ちている。遠くでカモメの鳴く声が響き渡り、波が岸壁に打ち寄せる音が、静かなリズムを刻んでいた。
港にはいくつかの漁船が停泊している。網を巻き上げ、魚を選別する漁師たちの動きは無駄がなく、それでもどこか慎重で丁寧だった。塩見は漁港に立ち、遠くの水平線を眺めながら一言呟いた。
「……いい海だな。」
その言葉に、隣に立つ茜が大きく息を吸い込んだ。
「すごく気持ちいいですね。こんなに綺麗な空気、東京じゃ味わえません。」
塩見は茜の言葉に応えず、目を細めながら漁師たちの手元をじっと見つめていた。漁船の中で銀色に光る魚たちが跳ねる。鮮度を保つために一つひとつ丁寧に扱うその様子に、どこか神聖さすら感じさせた。
漁港からほど近い場所に、木造の一軒家がぽつんと建っている。その店構えは、長年の風雨に晒されたように古びているが、それがかえって味わいを生んでいる。入口の上には「浜月」と手書きで書かれた木の看板が掛かり、白い暖簾が風に揺れている。
茜がふと足を止めて店を見上げた。
「なんだか、ここもすごく雰囲気がありますね。昔ながらの寿司屋って感じ。」
「店の外観で客を呼ぶ必要がない。それだけで、この店の味に自信があることが分かる。」
塩見はそう言うと、暖簾をくぐり中へと入っていった。
店内はひんやりとした空気に包まれている。長い年月を感じさせる木のカウンターが、店の中央に構えていた。カウンターの奥には、鋭い目つきをした一人の男が立っている。店主の北村達也だ。顔には深い皺が刻まれているが、その瞳は鋭く、カウンター越しの客を見据えるその姿には、ただならぬ気迫が漂っている。
店内には他に客はいなかった。二人がカウンターに腰を下ろすと、北村が静かに頭を下げた。
「いらっしゃいませ。」
その声は低く、落ち着いているが、どこか威圧感がある。北村は素早く手を動かしながら、用意していたまな板を布巾で拭き上げている。
「こちらの店主が北村達也さんですね。」
茜が小声で塩見に尋ねる。
「ああ、地元の魚にこだわる寿司職人だ。鮮度だけでなく、魚の命そのものを握ると言われている。」
塩見は北村の鋭い目を見据えながら答えた。
「寿司はお任せでよろしいでしょうか?」
北村が静かに尋ねる。
塩見は短く頷いた。
「頼む。」
北村はその返事だけで、魚を取り出し、包丁を手に取った。その動きは驚くほど無駄がなく、一瞬のうちにまな板の上で魚が切り分けられていく。茜はその包丁さばきに見とれながら、声を潜めて言った。
「なんだか、この店ってすごく緊張しますね……。」
「それでいい。この空気を感じるだけで、寿司の味が分かる。」
塩見の言葉に、茜は再び口を閉ざし、北村の手元に目を戻した。
北村が最初に出したのは、地元で獲れた真鯛の握りだった。小ぶりのシャリに薄く切られた鯛の身が乗っている。表面には、まるで宝石のような光沢があり、その美しさに茜は思わず息を呑んだ。
「どうぞ。」
北村が短く言う。
塩見は静かに箸を取り、一口でその握りを口に運んだ。シャリがほどけ、鯛の身が舌の上で柔らかく溶けていく。その瞬間、魚の鮮度と職人の技術が見事に調和していることが分かる。塩見は小さく頷きながら呟いた。
「……鮮やかだ。」
茜も続けて握りを口に運ぶと、目を輝かせて声を上げた。
「すごい!なんていうか、鯛そのものの味がすごく生きてる感じがします!」
北村はその感想に対して何も答えず、黙々と次の寿司を握り始めた。彼の手元から生まれる一貫一貫には、まるで命が宿っているかのような迫力がある。
北村がふいに口を開いた。
「寿司は、魚の命を預かる仕事だ。鮮度がいいだけじゃ足りない。その魚がどんな海で泳ぎ、何を食べて生きてきたのかまで、すべてが味になる。」
塩見がそれに応えるように言った。
「魚を知ることが寿司を作る基本だな。だが、今の時代、その鮮度を守り続けるのも簡単じゃない。」
北村は手を止めることなく答える。
「だからこそ、俺は地元の魚にこだわる。この港で獲れた魚は、この土地の人間の舌に合う。それが分からないようなら、この仕事は続けられない。」
その言葉には揺るぎない覚悟が感じられた。茜はその迫力に圧倒されながら、静かに耳を傾けていた。
そのとき、厨房の奥から若い女性の声が聞こえてきた。
「お父さん、また地元の魚だけでやるの?このままじゃお客さんなんて増えないよ。」
現れたのは、北村の娘・美咲だった。都内で寿司の新しい手法を学んだ彼女は、父親の伝統的なやり方に疑問を抱いていた。彼女の言葉に北村は一瞬動きを止めたが、すぐに再び寿司を握り始めた。
「客が増えればいいってもんじゃない。俺は、自分の寿司を食べてくれる人だけで十分だ。」
北村の声には、揺るがない信念と、どこか寂しげな響きがあった。
塩見はそんな二人のやり取りを黙って見つめながら、次に出された握りをゆっくりと口に運んだ。その顔には、何かを考え込むような表情が浮かんでいた。
次回予告
地元の魚にこだわり続ける父・北村達也と、新しい手法を模索する娘・美咲。寿司という形に込められた伝統と革新の衝突が、塩見の前で次第に浮き彫りになる――。
次回、「命を握る一貫」――その一皿に込められた想いとは。
読者へのメッセージ
職人が握る一貫の寿司には、その土地の自然や歴史、そして作り手の人生そのものが込められています。「握りしめた旬の光」では、伝統を守り抜こうとする父と、新しい道を模索する娘が、寿司という形を通してぶつかり合いながらも、自分たちの答えを見つけ出していく物語を描きます。
寿司の握りにはほんの数秒の時間しかかかりません。しかし、その一瞬には、素材を活かすための努力、魚と向き合う覚悟、そしてそれを食べる人への想いがすべて詰まっています。本作では、そんな寿司が持つ奥深さを感じながら、親子の葛藤と絆を楽しんでいただければ幸いです。
次回も、塩見と茜の旅を通じて描かれる、人間と料理が織りなすドラマをお楽しみに!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます