第一話 出会い
先生曰く、その生徒と出会ったのはまだここで働き始めて一年も経っていない時だった。
担当している生徒も少なく、働くことに必死だった先生は他の先生の代わりにたくさん授業を引き受けていたとか。
その頃に出会ったのが、『
私と名前が似ていることから、初めて私と出会った時にも彼女のことを思い出していたんだって。
その花音ちゃんと初めて出会った時、『変わった子だなぁ』と思ったと笑っていた。先生自身も変わっているじゃん、と突っ込んだら「確かに」と更に笑ってもう一度ペンをくるくると回していた。
彼女との会話は基本、洋服だったり、メイクだったり。よくいる女の子と変わらない内容。だけど、友達はあまりいなかった。いない、と言う言い方もおかしいらしく、簡潔に言えば不登校だったそうだ。
小学生から少しずつ行かなくなり、中学二年生の時にはほぼ学校に行くことはなかったとか。加えて、学習面でも同級生にほとんど追いついていなかった。理由が気になった先生は、聞いてしまった。
『どうして学校行かないの?』
『うーん。なんて言うか、行こうとしても足が止まっちゃうんだよね。どうしてだろ』
先生の質問に、花音ちゃんはヘラヘラと笑っていた。普通の先生だったら学校へ行くように説得していただろう。でも、山上先生は普通ではない。彼女の話に乗りながら、『まぁ気が向いたら行きなよ』とだけ言っていた。
勉強しなくて怒られなかったのかと私が聞くと、先生は「親御さんがね、あまり言わなかったみたい」と苦笑い。そうなんだ、とだけ言って私はいいなぁって思った。勉強をしろって言われないなんて、本当に羨ましい。私は毎日のように言われるのに。じっと黙っていると、「言われない側も、大変なんだよ」と悲しそうな顔をしていた。
数ヶ月間指導している中で、花音ちゃんは授業に遅刻する日が異常に多かったことが分かった。遅刻だけでなく、休む日も多かったとか。それでも先生は待ち続け、いつか来ると信じていた。
来た日には『今日は何をしようか』と聞いて、彼女の話を聞きながら勉強を進めていた。そんな日々が過ぎ塾長が何度か変わる中、花音ちゃんの話題はよく出ていた。生徒の中でも一位、二位を争うほどの問題児。なかなか来ない彼女をどうすればいいのか。学校にも行っていないのに将来はどうするのか。幾度も話し合いをした結果、『全てを山上先生に任せる』ということで決着したのだ。
普通に考えて、たった一人の講師がそんなことできるのかと思い伝えたら「そんな子もたまにいるんだよね」と何かを思い出すような素振り。きっと、彼女だけではなかったのだろう。
確かに山上先生はこの塾でほとんどの生徒が授業を受けたいと言っているのを耳にする。ただ優しいだけでなく、人として間違えていることには厳しく、それでいて最後まで話を聞いてくれるのだ。どこを探してもこんな先生はいない。
「私もその一人?」と聞くと、「どうだろ。そうなるかもなぁ」とへへっと笑った。
来る日も来る日も待っている中、さすがの先生でも怒る時はあった。来ると言って来なかった日には特に怒っていたとか。
『先生と約束したのに、何で来なかったの?』
『だって、行こうと思ったけど、無理だったから……』
『友達との約束も、同じように破る?』
『それはしない。ただでさえ友達が少ないから、そんなことしたら嫌われる』
『じゃあ、先生には嫌われてもいいってこと?』
先生の質問に答えることなく黙ったまま授業が終わり、そのまま帰ってしまったそうだ。険悪な雰囲気のまま、授業の終わりを迎えるのはよくあることだったとのこと。この日も先生は『またか』くらいにしか思っていなかったようで、そんなに重く気に留めていなかったらしい。
最後、帰るのを見送る時に『また来週ね』と声をかけたのだが彼女は無言のまま帰ってしまった。だが、来週も、再来週も、彼女は授業に来ることなく、先生はずっと待ちぼうけを食らっていた。
「あれはさすがに傷ついたなぁ」と引き攣った笑いを浮かべている先生。「先生も傷つくんだ」と言うと、「いや、私だって無敵じゃないからね?」とむすっとしていた。
それもそうか。いくら明るくて楽しそうにしている人でも、悲しかったり、嫌な思いをしたり色々思うことはあるだろう。そう考えると、その子はかなり自己中心的で他の人の気持ちを考えることができなかったのではないだろうか。
うーん、と一人考える。ここから目に入る『受験はもうすぐ!』と書かれたポスター。ふと、彼女の将来がどうなったのかが気になった。「あの」と声をかけた時。
「あ、もう授業終わるね。このページ、また来週の授業で解説するから他の問題を宿題に出すね。あと、英単語テストもするよ」
「え、またー?」
「そう、また。ほら、帰る準備して!」
重苦しかった雰囲気はどこへ消えたのか、個室の外から賑やかな声が聞こえてきた。パタパタ走っている音を聞きながら、机の上に出していたテキストとノート、筆記用具を片付けた。宿題をメモするファイルを渡すと、手慣れたようにサラサラと書いていく。
「ねぇ、その子ってどうなったの?」
「どうって?」
「パパとママ、勉強しろって言わなかったんでしょ? 受験とか、どうだったのかなって思って」
「んーそうねぇ」
カリカリと書いていくのを見つめる。次から次へと増えていく宿題。山上先生は、この塾の先生の中でも一位、二位を争うくらいに宿題が多い。書き忘れてくれればいいのに、細かくわかりやすいように宿題の内容を書いてくるのでやらざるを得ない。ピタッとペンが止まった。
「また来週、かな。はい、宿題ふぁいとー」
スッと私の前に出されたファイルは閉じられていた。笑みを浮かべている先生。何だか、私の心を動かしたのが嬉しいみたいだ。ちょっと悔しいけれど、気になってしまうのも事実。私は「絶対だよ!」と言いながら受け取り、カバンの中へズボッと勢いよく入れた。
廊下を出た後も私の後ろをついてくる。私が校舎を出るまで見送るのが先生たちの仕事らしい。面倒だね、と言ったら『みんなが安全に帰れるように見ているの』と言っていた。先生って職業は、そんなことまでするんだと思った。大変な職業だ。
「宿題、忘れないでね」
「分かっているよ。もう、先生っていつもそれしか言わないじゃん」
「そんなことないよ。気をつけて帰るんだよ」
「はーい。ありがとうございましたー」
カランカラン、とベルの音が鳴った。陽がすっかり落ちたようで、外は薄暗い。自分の自転車が置かれている場所に行き、鍵を差し込んだ。カシャン、と音がしたのを確認しスタンドを上げる。後ろに誰もいないことを見て下がり、家の方向へと向けた。
サドルに跨りペダルに足をかけ、ぐっと力を入れて漕ぎ始めた。
漕いでいる間、先生の話を思い出す。私と同じ名前の花音ちゃん。会ったことも見たこともないけれど、少しだけ親近感がある。同じ名前だからなのだろうか。それにしても、先生が特定の生徒の話をするなんて初めてかもしれない。
個人情報だから、と言って名前を出さずにいつも話をしているのだが、今日はフルネームで話をしていた。ここにはもう通っていないからだろうか。それとも、特別な思い入れがあったとか?
「うーん、難しいなぁ」
どんな難しい数学の問題を解くよりも頭を使った。先生のことは何となく知っている。結婚していて、子供はまだいない。旦那さんと二人暮らしをしていて、得意科目は国語と英語。理科が大の苦手でいつも私に教える時も苦戦している。半泣き状態で勉強していると、笑いながら言っていたような。
思い出すと、くすっと笑ってしまった。他の先生にはない魅力を持っている山上先生。そんな先生の話す彼女のことが、頭の中でずっとチラついて次の授業がある来週まで何も手がつかなかった。
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