第17話:現実は残酷だ、それでも俺は借金返済するよ
夜更けすぎ、朱音はふと目を覚ました。
格子窓から差し込む月光は冷たくも優しい。
その向こう、絶えず流れる滝の音色はとても心地が良い。
「…………」
のそりと起き上がって、朱音は離れの外へと出た。寝巻き姿は少々寒く、上にいつもの羽織をそっと纏う。
目がすっかり冴えてしまってどうも眠れそうにはない。滝の音色を静かに耳にしながらぼんやりとすごす、それも一興だろう。
今宵はこんなにも月がきれいだから、たまにはのんびりと散歩をするというのも悪くはない。そう朱音は結論付けた。
「今日はいい月が出てるな……」
漆黒の空に浮かぶ満月の輝きようは、いつ目にしても氷のように冷たいのに神々しい。
だからだろうか。左手にあったそれをゆっくりと抜けば、いつになく美しく輝いているのは。朱音の右手には一振りの太刀があった。刃長はおよそ
軽く振るっただけでもひゅっ、と鳴る鋭い風切音は爽快感があった。
もとより修練をするつもりはなかったが、朱音の胸中で気が変わった。軽く振るう程度ならば汗も搔かないだろう。
いつも以上に力みを抜いた素振りが三十回目に差し掛かろうとした、まさにその時だった。
「こんな夜遅くに練習とかすごく熱心なんですね」
「タマモ先輩……」
「なんだか目が覚めちゃって……そしたらアカネちゃんが素振りしてるのが見えたから来ちゃいました」
「そう、ですか。とりあえずしっかりと休んでくださいよ。ここは冷えますからね、風邪でも引かれたりしたら大変ですから」
「……しばらくここにいてもいいですか?」
「え? それは構いませんけど……でも面白いこともなにもないですよ?」
「いいんです。ただ、ここにいたいだけですから」
「まぁ……タマモ先輩がそういうのなら無理には言いませんけど」
滝の音に風切音だけが混ざる。
後は、とても穏やかな静寂だけが辺り一帯をそっと優しく包んだ。
ゆったりと流れる時間が妙に落ち着く。朱音にとって夜は、あくまでも夜でしかない。そこに特別な感情は一切なかった。
それが、タマモというちょっとした変化が投じられただけでこんなにも違うことがすごく新鮮だった。
やはりタマモという存在はただのゲーム好きでオタクなVドルではない。持って生まれた天与の才だ。朱音はそう思った。
素振りも終えたころ、納刀する朱音にタマモがふっと口を開いた。
「それって本物なんですよね?」
「え? えぇ、本物の真剣ですよ」
「へぇ~これが伝説の名刀ですかぁ」
「いやそこまで大げさなものじゃないですよ。でもまぁ、腕利きの刀匠が打った代物なのは確かです――父の刀は本当にいい刀だ」
「そういえば、アカネちゃんのご両親ってどんな人ですか?」
「両親ですか? そうですね……母親のほうは、よくわかりません。ただすごく誠実で優しくて、だけど怒るとものすごく怖い人だったと父からはよく聞かされてました。後美人だったとも」
「え? それって……」
瞬間、タマモの表情がわずかに曇った。
聞いてはいけないことを聞いてしまった。彼女はそう後悔しているに違いない。
当人である朱音は、この手の話についてはもうなんの感慨はなかった。故人をいくら想ったところで甦ってくるはずもなし。
ましてや母親については実際に顔を合わせたことすらないのだから、余計にこれという思い入れがない。
だから気にしていないし、タマモが気に病む必要はどこにもないのだ。
けれどもタマモは、優しいオタクだ。自らの言動に深く反省する姿に朱音はふっと口角を緩めた。
「大丈夫ですよタマモ先輩。もうずっと前のことですし気にしていませんから」
「でも……」
「いいんですよ。むしろ逆に気遣われるほうがこっちとしては落ち着きませんから――それで、父親ですけどすでにお察しのとおりもうこの世にはいません。俺が八歳の時に病気で亡くなりました。指定難病ってやつですね」
父は生まれつき身体が弱い男だった。そのため南方の家督を継ぐに相応しくないと祖父がそう思ったのは至極当然の判断だった。
だがそれを見事に覆したのは父の並々ならぬ気合と執念があった。
歴代最弱と蔑まれた男は、いつしか歴代最強とまで謳われるほどになった。そんな父に幼かった朱音が強く憧れたのは当然の結果といえよう。
「父は身体はそれはもう優男でしたよ。ひょろっとして本当に刀なんか振れるのかっていうぐらいに。だけど、とても強かった。俺も一度も勝てたことはなかった……そんな人も病には勝てなかった。人間っていうのは、時々どうしようもないぐらい脆弱で儚い存在ですよね……」
朱音は自嘲気味に小さく笑った。
同時にふと、こうも思う――誰かに家族のことをこんなにもしゃべったのははじめてかもしれない。
家庭の事情を他者に話すとすれば、それはよほど信頼関係が築けていることがまず前提である。
タマモとの付き合いは、そういう意味ではまだまだ日は浅い。頼れる先輩でこそあるものの、だからと言ってすべてさらけ出すほどの仲であるわけでもない。
そうであるはずなのに、口は意思とは無関係につらつらと己について語っていた。
「なんででしょうね。タマモ先輩といっしょだと、ついついこんなにも喋ってしまいましたよ」
「アカネちゃん……」
「まぁ、とりあえずそんな感じですけど本当に気にしないでくださいね。あなたが気に病む必要なんてどこにもありませんから」
「……なりましょう」
「え?」
「誰よりも幸せになりましょうアカネちゃん! アカネちゃんにはその資格があります!」
「ちょ、タマモ先輩声大きいですから。時間帯考えて下さいって……!」
あまりにも突然すぎるタマモの言動は、しかし彼女の優しさが強く表れていた。
やはりタマモはとても優しい先輩だ。改めて朱音はそう認識した。
「とりあえず、こうしてアカネちゃんと出会えたんです。アカネちゃんは四期生としてこれからタマモたちとずっと一緒に頑張っていきましょう。辛いことがあったりしたらいつでも遠慮なくタマモちゃんを頼ってくださいね?」
「は、はぁ……それはまぁ、もちろん頼りにさせていただきます――でも、ずっとはおそらく不可能ですね」
「え?」
「……タマモ先輩だからこそ先にお伝えしておきます。俺は、ある目的を果たしたらドリームスターライブプロダクションを引退します」
さっきまで穏やかだったはずの空気が妙にざわついた。
まだここでいうべきではなかったかもしれない。だが遅かれ早かれいつかは周知される。
であればこの場で言っても問題は何もないだろう。相手がタマモというの理由としては大きい。
彼女ならばきっと笑って見送ってくれる。心のどこかで朱音はなんとなく、そう思った。
「ど、どうして……引退なんて、そんなの駄目ですよ!」
「……タマモ先輩。俺がドリームスターライブプロダクションに所属したのは、他の皆さんみたいにアイドルになって輝きたいとか、そんな立派なものじゃないんです。すべてはアホなじいちゃんのせいでできてしまった莫大な借金をどうにか返済するため。それが終われば俺は潔くVドルという舞台から降ります」
これは当然の宣言である。
自分は、アイドルとして相応しい資格もなければ志もない。
そんな人間が彼女たちと同等であるはずがない。共に歩めるはずがない。
「――、そろそろ戻りましょうかタマモ先輩。このままいたら本当に風邪を引いてしまいますから」
「アカネちゃんは、本当にそれでいいんですか? 借金を返済しても、いればいいじゃないですか……!」
「借金返済は確かにそうですけど、理由は他にもあります。まぁどっちかといえばこっちが本命みたいなものですけど……」
「どんな理由なんですか? 教えてくださいよ……!」
「それは……時期尚早ってことで。来るべき時がくればその時はタマモ先輩、あなたにだけ打ち明けたいと思います」
男である時点で本来ならば所属するのは不可能だったのだ。
ダンダダン社長の計らいがあったとはいえ、世間的にもこれは許されるものではない。
タマモたちとは、少しばかり交流をしすぎたかもしれない。朱音は踵を返して、離れのほうへ向かった。
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