無数の星を待つ君は、届かぬ先に手を伸ばす

2R

第1話 あの夏が終わった

「加奈ちゃん、いつか私と一緒にテニスをしようね!」


幼き日の、そんな言葉が耳の奥で鳴り響いた。

可愛い声で囁かれた記憶はひび割れて、今では頭の中が張り裂けそうなほどの叫び声だった気がしてくる。

私、榎本加奈は、夢を叶えられなかった妹分の夢を叶えるために、5歳の頃からテニスのラケットを握り始めた。

小さくて柔らかい手にマメができて、それが潰れてもラケットを振り続ける。

勉強よりも、友達よりもテニスを優先してきた私の人生は、それ以外に何もなかった。


「加奈って、自分ばっかり本気ですって感じがしてウザいよね」


部活では、そんな声もよく聞こえてくる。

しかし、それが私に何の関係があるだろうか。

誰かが妬んだからと言って、私が弱くなるわけじゃない。

嫉妬して嫌がらせされようと、友達がいなくなろうと、私のテニス人生には何の意味も持たないのだ。


「そんなものを気にしている暇はない。

私は、あの子との約束を果たしてみせるんだ」


今はもういない、幼き日の思い出だけを支えに進んできた私は、中学3年の夏、全国大会への切符を手に入れようとしていた。

県大会の準決勝まで、圧勝と呼べる勢いで勝ち進んだ私は、決勝に向けて緊張を落ち着かせながら会場へ歩いていく。

いつもと同じ道を、いつも聴いている音楽を流しながら。

それなのに、私はどうも神様に嫌われてしまっていたらしい。

青信号の横断歩道を渡っていると、一台のトラックがスピードを緩めずに突っ込んできたのだ。

迫りくるトラックを見ながら、私は思わず笑ってしまったのを今でも覚えている。


「そんなに私のことが嫌いかよ、神様って」


そこから意識がなくて、次に目が覚めたのは病院の一室だった。

見慣れない部屋、とは言えない。

なぜならそこは、私の父が院長を務める病院の病室だったのである。

小さい頃、よくこの部屋に来て友達と遊んだなと、色褪せた回想に目が眩んだ。


「私、助かったんだ」


いっそ死んでしまったら良かったのに。

いつもの悲観的なくせで、ついそんな言葉が口をついて出る。

しかしその言葉が、まさか心の底から再び出てくるとは思わなかった。


「目が覚めたか」


ノックも無しに病室へ入ってきたのは、父の榎本将司。

感情を失ったような無表情で、一命をとりとめた一人娘を見下ろしている。


「喜ばないのは分かってたけど、もし私が死んでも無表情かもって思ったのは初めてだよ」

「その時はその時だ。医者をやってれば、いずれ慣れてくる」


父は医者をやっているのではない。

人間をやっていないだけなんだ。

私はそう思っている。

これ以上話もしたくないので、さっさとベッドから出て家に帰ろうとした。

幸い、背中や腕には鈍い痛みがあるものの、動けないほどではない。

足に関してはまったく痛くないから、家に帰るくらいなら簡単だろう。


「何をしている」

「帰るの、身体の痛みはそれほどでもないし、運が良かったんじゃない?」


私は体を起こすと、ベッドから降りようと試みた。

しかしそこで、やっと自分の身体の違和感に気が付く。

足が、まったく動かない。

不意のことで対応できず、私はそのままベッドから落ちてしまった。


「どういうこと……? どうして足が動かないの?」


ベッドから落ちて、打った肘がジンジンと痛む。

それなのに、足は少しも痛くない。

それどころか、何の感覚もなかった。

まるで足の動かし方をど忘れしてしまったかのような、奇妙な感覚である。


「暴れるな、まだ検査中なんだから」

「検査中って何? 検査したら元に戻るの?」


父はひょいと私を持ち上げて、雑にベッドへと戻した。

体の痛みよりも恐ろしい現実が、黒い水となって腰から胸元までせり上がってくる。


「治るかどうかを調べるのが検査だ。今は何も言えん」

「何を偉そうに……。

私はあんたの腕に期待なんてしてない!

ヤブ医者のくせに、偉そうにしないでよ!!」


体の痛みと足の違和感で気持ちが悪くなり、私はベッドの枕を父に投げつけた。

しかし、腕が上手く動かなくて、枕は父に届く前に床へと落下してしまう。


「気が済んだら寝ていろ。

すぐに診断が出る」


その言葉を残して、父は病室をあとにした。

父が出ていった病室では、壁にかけられた時計の秒針だけが鳴り響いている。

恐怖の水がどんどんせり上がってきて、口元まで上がっていた。

逃げようにも、足が動かない。

息を吸うのも辛くなってきたその日の夕方、再びカルテを持った父が病室へと顔を出した。


もう歩けない。

そんな身もふたもない診断結果を手にして。

黒い水は、すっかり私を飲み込んでしまった。

絶望とはこういうことを言うんだろう。

私は中学三年生にして、私は自由を失った。

そして、夢も生きがいも。

贖罪の方法も、失ってしまったのだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無数の星を待つ君は、届かぬ先に手を伸ばす 2R @ryoma2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ