海に沈むジグラート⑤
七海ポルカ
第1話
ザザ……ン……
波の音を聞きながら目を閉じていた。
「ネーリ」
身を起こして、振り返ると、神父が立っていた。
「神父様。おはようございます」
「いつからそこに?」
波打ち際で、腰まで海に浸かっていたネーリに、神父は笑った。
「今日は風があって波が高い。波に攫われてしまいますよ。ネーリ。海を愛しているのは分かりますが、海は人の生きる世界ではありません。貴方はもう少しだけ、海を恐れてくれなければ」
ネーリはそんな風に言われて、微笑む。
彼はしゃがんで、膝に頬杖をついた。
「……でも」
優しく朝日の中に、ヴェネツィアの街が浮かんでいる。
……泣きたくなるくらい、この世界で、一番大好きな景色だ。
「死ぬ時は、海で死にたいです。僕は」
神父は静かに瞬きをして、ゆっくりと石の階段を下りてきた。
勿論彼は、何かネーリが悲嘆に暮れて、そんな風に言ったのではないことが分かる。
彼の絵も、人生も、希望と喜びに満ちている。
愛するものがあり、
好きなものがあり、
そういう人の人生には光があるのだ。
……もちろん、一時の幻のような、
朝霧にも似た、人の心を迷わせる、闇の入り口も人間界にはあるのだが。
「燃やされて灰になったり、土に埋められるよりも、海の底で死にたい。
光がどんどん薄くなって……どこまでも身体がこの温かい水の中に落ちていって……海の底は、一体どこまで深く、続いてるのかな。そこは静かで、僕たちが会ったことのない魚がたくさんいて……」
「光も届かないところ?」
「光は届きませんか?」
神父は首を傾げる。
「さぁ私は……海の底には行ったことがないので……しかし、海は水面から段々と色が濃くなります。あれは光が徐々に薄くなるからでしょう? ではもっと底に行くと、青が、紺になり、やがて黒になるのでは?」
ふと、ネーリは手の平で水をそっと掬ってみた。
ザザ…………、
「……不思議ですね。誰も海の底など見に行った者はいないのに。貴方たち画家は、本能的に物事の全景を捉える。空の果ても、海の底も、貴方たちはどこか、知っている」
神父の言葉を、青年は優しい表情で聞いている。
絵を描いている時は、そこまでのことを意識して描いてない。確かにもっと感覚的に、迷いなく世界の先へと筆が走って行く感じだ。それが「本能だ」というのなら、そうなのかもしれない。でも筆を置いて一歩下がって世界を見る時、自分はまだ何も知らないような気になることがある。
まだ描いてない世界がたくさんある。
描きたいことが溢れている。
それは、どれだけ幸せなことなんだろう?
「そうだ、神父さま。僕の絵が売れるかもしれないんです」
「フェルディナント殿ですか?」
驚いた表情を見せたネーリを、神父は優しく笑った。
「それは……彼は貴方の絵に、とても心惹かれていましたから」
わかりますよ、と言われて何故か顔が赤くなった。誤魔化すように俯き、干潟の水を含んで柔らかな砂を手に握る。
「……フレディ、僕の名前を書かないでも絵を買ってくれると言ってくれて」
「それはそうでしょう。彼は貴方の名を愛したのではなく、描かれている世界を愛したのですから。貴方の名前が刻まれてなくとも、知らない時から彼は貴方の絵に惹かれていた。
その彼に、名前を刻むことが必要かなど、愚問です」
「神父様。僕の絵がもし売れたら、あの教会の傷んでるところ、直してもいいですか?」
神父は胸の前で印を切った。
「ありがたいですが……貴方自身の使いたいことに使わなくていいのですか?」
ネーリは微笑む。
「僕自身の使いたいことです。あそこは、僕にとっていつでも戻れる家のような所だから。
これからもなくならず、ずっとずっと残って欲しい」
王都もどんどん変わって行くけど……。
波の音は優しく、響く。
「……感謝します。ネーリ」
その言葉を聞いて、彼は安堵したように頷くと、ゆっくり立ち上がった。
「神父様は、教区のお仕事でこちらに?」
ここはヴェネツィアの市外だ。彼はヴェネツィアの周囲にある孤島に、教区の仕事で派遣されることがある。その時に、時折ここを訪ねてくれるのだ。元々は教会だったが、ほとんど壊れて、一時漁師が休憩所に使っていた。家とも言えないほどの小屋である。
「戻って来た所です。明日の【夏至祭】で合同礼拝を行うので打ち合わせを。貴方もこんなところにいていいのですか?」
「もう戻ります。ちょっと干潟が見たくなって……夜の間こっちで描いていました」
「貴方が街にいないと、寂しがる人がいるのでは?」
「神父さま……」
少し困ったような顔をネーリが見せると、神父は逆に明るく笑って、彼の背を撫でて歩き出した。からかわれたことを自覚して、彼も笑う。
「一緒に戻っても構いませんか?」
「ええ。もちろん」
「五分で着替えを」
小屋の中に入った。
アトリエと、寝る場所、そのくらいの広さしかない。
だが崩れかけの聖堂が隣接している。屋根も崩れかけた場所だ。
ネーリ・バルネチアはここで眠る時は、崩れかけの聖堂の椅子で横になってよく寝ている。……不思議な子なのだ。才能も、人柄も、誰にでも愛されるものを持っているのに、時折こうして一人になりたいという素振りを見せることがある。
それでも、その悲しみは、彼の絵には現われていない。
(いや……秘められているのかもしれないが)
優しい朝霧のようにそれは包み込まれて、目には見えてこない。
そして明らかに見えてはこないが、潜在的に潜む、悲しみを見せまいとするそういったものが存在するからこそ、彼の絵は美しいのかもしれない。
ふと、神父は新しく描きたての絵を一つ見つけた。奥のキャンバスに置かれたままだ。そっと、半分覆われた布を避けて、神父は目を留めた。
ネーリが何故、わざわざこっちで絵を描きたがったのか分かった。
聖堂の絵だ。
一人の青年将校が、聖母子像を見上げて佇んでいる。
確かにこれは、向こうでは描けない。
「神父様、お待たせしました」
すぐに水を浴びて着替えたネーリが戻って来る。神父は詮索はせず、描きかけの絵にそっと布を掛けて外に出た。干潟に降りるなだらかな坂道を上がって行くと、王都ヴェネツィアの外周に続く街道がある。馬車が待っていて、二人は乗り込んだ。
「私は今夜、西教区の教会に用がありますので、朝の礼拝の準備をお願いしてもいいですか?」
「勿論ですが……西の市街では殺人事件が多発しているのでは?」
「教会に行くだけですから大丈夫でしょう」
「どのような用事で?」
神父は馬車の後ろを示した。
「合同礼拝で使う銀の儀式具を届けることになっているのです」
ネーリはああ、と安堵した。
「それなら僕にも出来る用事です。僕が届けましょう」
「しかし……」
「僕は絵を描きによく西の方にも行くので。【夏至祭】の準備の様子を見に行きたいと思っていましたから、そのついでに行ってきます。神父様はお忙しいはず。遣いは僕が」
「そうですか……それなら……いつも申し訳ないですね、ネーリ。面倒な仕事を任せてしまって」
明るく笑って首を振った。
「いいえ。僕は絵を描くしか特に用事はありませんから」
「ヴェネツィアも随分近頃物騒になりました。……【夏至祭】を無事に終えて、段々と穏やかに戻ってくれればいいのですが……」
近づいてくる水の都を外に見つめながら、ネーリは小さく頷いた。
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