第2話

「ヴェール・プラリネ!今、この時をもって貴様との婚約を破棄する!」


華やかに飾り付けられた大広間に、この瞬間に元になった婚約者のリシュリュ・ボンボン王子殿下の声が響き渡る。それまで談笑していた人々もしんと静まり返り、一斉に声の主である彼と唐突に婚約破棄を突きつけられた私、ヴェールに視線が向けられた。


今日は私たちの通う学園の卒業パーティーだった。

長いようで短かった3年間の学園生活も終わり、各々の進路へ向かっていく。未来への希望を語り合い、別れを惜しむ、きっと一生忘れられないような素晴らしい式になるはずだったのに、そのめでたい門出の式を台無しにするようなこの凶行に思わず眉を顰める人もいるのはやる前から明らかだ。

それでもわざわざ今日なのは、この場を逃すと役者がそろわなくなるからだろう。


正義は我にありとでも言わんばかりにこちらを睨みつける殿下をじろりと見返しながら取り乱したりせず、あくまで冷静に問いかける。


「急になんです?そんなことをされるような謂れはありませんわ。理由をお聞かせいただけます?」


嘘。

本当は殿下の様子がおかしいのは前々から気づいていたし、今日この場で起こることも分かっていた。

でももしかしたら、そんな希望をもって問いかけたがそんなことはなく、むしろしらばっくれようとしているように見えたのか殿下の表情が一層険しくなっただけだった。


「リリ・ミルフィーユ子爵令嬢への愚かな行為、覚えがないとは言うまいな。」


その言葉に会場中がざわつきだす。もちろん王家へ嫁入りする人間が自分よりも立場の弱い令嬢をいじめていたというスキャンダルに動揺しているのもあるが、理由はもう一つ、リリ・ミルフィーユという名前にある。


彼女は同じ学園に通う少女で、殿下と親密な関係にあると専らの噂の有名人だった。


出会ったきっかけは良く知らない、知りたくもないがとにかく傍から見ても丸わかりなほど彼女に入れ込んでいたのである。

そのあまりの夢中ぶりに私との結婚後すぐに彼女を寵姫として城へ迎え入れるんだ、いいやヴェールとの結婚に嫌気がさしてリリを新たな王妃にしようとしているのではなどと噂が立ち、更にそれをはっきりと否定しなかったためどんどんヒートアップしていった。


私に言わせればただの軽薄男と略奪女の浮気なのだが、どうやら世間はそうは思わなかったらしい。


二人の話も正直嫌だったが、ある程度広がると今度は私が標的になった。

あんなに新しい恋人に入れこんで、殿下は今の婚約者に何か問題があって愛想をつかしたんだろう、ということは婚約者であるヴェール・プラリネはよほど性格がゆがんでいるんだろう、という私の悪評も流れ始め、結果として人の恋人を奪ったリリは悪女に苦しめられる第一王子を懸命に支える健気な少女だと、二人の浮気は互いの立場によって許されることのない哀れな恋だと評価されるようにまでなってしまったのである。


きっとこの場も噂の件を知っている人間がほとんどだろう。

つまり彼らにとって私は端から悪役で、共通の敵なのである。今回の殿下の行動についてもはじめは式典の場でなんてことをするんだ、と怒りをあらわにする人もいたがその内容を理解した後は悪女への断罪だとばかりにこちらを睨みつけ、静かに殿下へ味方することを示している。


しかしここで折れるわけにはいかない。

震える足にむち打ち、背筋を伸ばす。


「…ええ、おっしゃる通り。間違いございませんわ。」


ざわつきが一層大きくなる。驚愕、疑念、軽蔑がドロドロと混ざりあったような視線が私にまとわりついてくる。大広間にはこんなに大勢の人が周りにいるのに、私を見ている人々は誰一人私を信用してはいない。突然この世界に一人きりになったかのような心細さを覚え眩暈がするがぐっと堪えた。

もしここで泣きながら殿下に縋り付いたなら、彼は私を許してまた子どもの頃みたいに仲良しに戻れるのかしら?

もしもの話が思い浮かぶがそんなことは夢物語、決してあり得ない。


もう後には引けない。覚悟を決めて真っ直ぐと殿下の目を見つめる。その行動が予想外だったのか殿下は少しひるんだ様子を見せるが、数秒の間をおいて低く、重い口ぶりで告げる。


「このような愚かな行為を行う者に、王妃になる資格など認められない、故に婚約を破棄する。しかしもし貴様が


「お待ちください!」


殿下の言葉をさえぎって誰かがこちらへ駆け寄ってきた。

人の間を縫って現れた声の主は、先ほど名前が挙がったリリだった。

ふわふわと軽やかに舞うピンクベージュのくせっ毛の髪と雪のように白くきめ細やかな肌はまるで精密に作られた人形のような可愛らしさで、一瞬にしてここにいる誰もがその姿に釘付けになった。

場の注目を一身に集めながら美しい少女は目に涙を浮かべ殿下に近づく。


「確かにヴェール様のなさった事は決して許されるものではありませんわ。

それでもこんなの、あまりにも、あまりにも酷ではありませんか…?」


耐えられないとでも言うかのようにさっと俯く彼女。その薄ピンク色に染まった頬に一筋の涙が伝う。

自分へ悪意を向けた人間に対して心を痛めるこの清らかさは素晴らしいが、だからと言ってこの侯爵令嬢を無罪放免というわけにはいかないだろう。むしろ被害者であるはずの彼女の姿と対比して私への憎悪が深まったのか、この場にいる人間のこちらを見る瞳がより攻撃的になっているように感じる。

それはこの性悪女に罰を与えろ、という無言の圧力だった。

この女を追い出せというのがこの場の総意だろう。


その雰囲気を察知したのかあの…とおずおずとリリが前に出てくる。


眉を下げ、心細げに目線を下に向けながら話し始める。


「私、近々新たな領地の開拓のためここから少し離れるんですの。その時に私と一緒に来ていただく、というのはいかがでしょうか。ヴェール様も良い気分転換になるかと思いますわ。本当はメイドたちも何人か連れていきたいのですけれど少し辺鄙な場所だから誰もついてきたがらなくって…、一人だとどうしても不安で…。」


「でもヴェール様が来てくださるなら助かりますわ!」


そう言って先ほどとは一転して柔和な笑みを浮かべるリリ。

その顔は嘘偽りなく思ったことを言っただけ、疑うところのない笑顔だった。この素直さが彼女が人を引き付ける所以だろうか。


ただ、助かる、なんて言っているがこちらの意見は全く求めていない。世間知らずの令嬢の気まぐれで私の今後の人生が決まってしまうのだからこれほど恐ろしいことはないが、周囲の人間は私のことは意に介さず皆リリに対しなんて慈悲深い人なんだろう、と尊敬の意を表さんばかりだ。


殿下の方もリリはなんて優しいんだ、とリリを褒めちぎっているだけでこちらを見ようともしない。なんだかんだ十年以上婚約者という名目で一緒にいたのに、情も何もない人だ。のんきにそんなことを考えられるのは、これ以上何を言っても無駄だという諦めがあるからだろうか。


「私は構いませんわ。裁量は全てお任せいたします。」


恭しく一礼をし、そう口にする。

泣いてなんてやらない。これが私の最後のプライドだった。


顔を上げると殿下が何故か寂しそうなような顔をしていたように見えたけれど、すぐに気を取り直しリリの案を採用する旨の決定を為した。あの表情は私の気のせいかしら。


かくして私の運命は五分と経たず、半ば人の感情に振り回され定まったわけだが、そのリリの旅というのも今夜出発する、という急なものだった。


元々その予定だったとはいえ私が同行するのは今決まったことだし、リリの方もその分の準備があるだろうからもう少し後でもいいんじゃないのかしら。そう言って周りも引き留めたが本人の強い希望と、「もしヴェール様がいなくなってしまわれたら困りますもの。」という暗に私の逃亡を仄めかす言葉で納得させすぐに向かうこととなった。


変な気を起こさないようにと殿下が呼んだであろう衛兵二人に両脇を挟まれながら私が広間から出ていく直前、何やらリリと殿下が話しているところが見えた。ただ内容までは流石に聞き取ることが出来ない。二人のことだからなんとなく想像はつくが。


罰を受ける身のため荷造りをすることも許されず、そのまま衛兵の手配で着の身着のままリリのもと、ミルフィーユ邸に向かう。私の両親は愛想をつかしたのか来なかった。あるいは娘の醜態のしりぬぐいに追われて来れなかったのか。別にどちらでもいいが。


意外だったのはリリの方だ。私が到着したとき、これから遠方へ娘が旅立つというのに兄弟も両親も、誰も見送りには来ておらず彼女が一人ぽつんと馬車のそばに立っているだけだった。

今夜の出発は本当に急に決まったことだからご家族も忙しくて来れないのかもしれないと思い少し待とうかとも提案したが、


「お気になさらないで。」


とだけ言ってリリはさっさと馬車へ乗り込んでしまった。

その声色があまりに冷たかったので少し怖かったが、確かにあまり両親との仲は良好ではないとも聞いていたためそれ以上は何も言わずにリリに続くことにした。


こうして誰にも見送られず、惜しまれず私たちは二人きり、馬車に乗っている。


あんなに悩み、苦しんでいたのに終わるときはあっという間なのね。それが率直な感想だった。


「こんなに計画通り進むとは思いませんでしたけど。」


リリの言葉に頷く。


そう、計画通り。

リリの言う通り、全て上手くいった。あの大広間で起こった何もかもが私たちの計画のうち。

婚約破棄もリリとのこの旅も、ずっと前から二人で準備してきたことだ。

これは私とリリの、最初で最後の逃避行。


そもそも、こんなことをしようと始めに言い出したのはリリだった。


私たちが初めて話したのがいまから一年ほど前。

当時私はリリが大嫌いだった。


私とリシュリュ王子は子どもの頃に親同士の取り決めで婚約を結んで以来、十年以上一緒だった。自らの意思のないところで一生を添い遂げる人が決まっているということに少なからず不満を抱いたこともあったが、家同士の結びつきが必要不可欠な貴族の娘として生まれたわけだから仕方のないことだと自分自身に言い聞かせ納得させていたし、それに何より、なんだかんだ言って私は殿下が好きだった。


でもあの人は違った。

時が経つにつれ私への態度が素っ気なくなり、他の女性たちへ目移りすることが増えていった。もう私のことはどうでもいいのかもしれない。彼へ飲ん疑念が止まらなかった。


もういっそ殿下には私と別れて自分で相手を探してもらえばいいんじゃないのかしら。そう考えたこともあったけど提案してみても何故か彼は首を縦には振らなかったし、それに第一、私の両親がそんなこと許さなかった。

両親にとって私の結婚は娘の巣立ちなどではなく、王家との太いつながりができるまたとないチャンスなのである。娘の幸せなど二の次、出世のことしか頭にない人たちだからそう簡単に手放しはしなかった。


本当にこの人と一緒になって残りの人生を過ごしていけるのかという不安は消えぬまま、家族の中でも居場所がなくなったことで徐々に心が蝕まれていく。


そんな時に極めつけかの如く彼がリリにお熱だという噂が流れた。

私を差し置いて殿下の寵愛を受けている泥棒女に文句を言ってやった。いや、私にとってはただの文句のつもりだったけれど子爵家の子女からしたら恫喝に近いかもしれない。


私の婚約者に近づくなということに加え、リリ本人には関係のない八つ当たりのようなことも一気に捲し立てた。頭に血が上っていてあまり考えずにとにかく言いたいことをすべてぶちまけていたから、言い終えてから我に返りさすがに言いすぎてしまったかもしれないと思い恐る恐る相手の様子をうかがう。


でも私の心配ははずれ、リリはこれ以上ない笑みを浮かべ喜んでいた。訳が分からなかった。

私が困惑で固まっていると、はっと神妙な顔をして少し考え込んでから意を決したかのようにぽつりぽつりと話始める。


学園内は身分にかかわらず生徒たちは皆平等に扱われるとされている。が、完全な平等など当然なく、高い身分の者は威張り散らし、低い身分の者は彼らの機嫌を損ねないよう怯えながら過ごす毎日。自分もその一人だった。


しかしひょんなことから殿下に気に入られ、次第に後宮入りが噂されるようになると今度は手のひらを返したように周囲の人間は皆彼女に媚びを売り、あからさまなおべっかを使いすり寄ってきたのだ。

それがどうしても受け入れられずにずっと落ち込んでいた。


でもあなたはそんな事せずに、正面から私と向き合ってくれて、本当に嬉しかった、と。

正直それだけでも言っている意味が分からないのに、更にリリはよろしければたまにお話ししていただきたいのですけれど…と頬を赤らめながら続けたのだから本当に意味不明だ。


冗談じゃない。


「何が悲しくて婚約者の浮気相手とお茶なんかしなきゃならないの、絶対いやよ!」


そうはっきりと吐き捨てたのに、その後もリリは何度も私に声をかけてきた。

うっとおしいといくら私が冷たく突き放しても、何をしてもどこ吹く風で、彼女はただ不気味なほどいつでも嬉しそうに微笑んでいるだけで全く響いていない。


微塵も懲りる様子が無くまとわりつくリリのあまりのしつこさに根負けした私はそれまで一方的だった彼女の言葉に渋々一言二言の返事をし、時々話に耳を傾けるようになる。すると、段々彼女のことが分かってきた。


まず、彼女は殿下に好かれていて困っているらしい。一度関わる機会があったがまさかこんなことになるとは思っていなかった、自分にそんなつもりはなかったしヴェール様もいるからやめてほしいが聞いてくれなくて困惑しているとこっそり教えてくれた。


他にもいろいろな話をしたが、そのたびに私の中の略奪女・リリのイメージは崩れ、私と同じ等身大の少女であることが分かったので彼女への認識を改めることになった。


そのうちにリリは自らの家のこと話すようになった。

華やかな彼女の印象とは裏腹に家族との仲が良くないようで、卒業後嫁ぎ先が定まっていない今のままだと卒業後も家に居場所がなくどうすればいいんだろうと嘆く彼女を憐れむ気持ちが溢れてくる。

特に家族の中で彼女だけが食卓に座ることを許されず、いつも自室で一人で食事を採っているという話がやけに頭に残っている。


「私、もうあの家から出て行っちゃいたい…。」


ふっと口からこぼれた彼女の言葉と今にも泣きだしそうなその表情に、つい心が動かされてしまった。


どうにか目の前のこの子を救う方法はないかしら。私にできることならなんでも協力するわ、そう声をかけたのを覚えている。

憎き恋敵のはずなのにいつしか私はリリを心から信頼し、友人と思うようになっていた。


そうして決めたのだ。家も恋も、しがらみを全て投げ捨てて二人で逃げ出そうと。


とは言っても、王族との婚約を解消する権限はこちらにはない。万が一出来たとしても私の両親が許してくれるとは思えない。だから私からではなく、殿下に私を嫌いになってもらって向こうから白紙にしてもらおうと、そう考えたのはリリだった。

元々私への思いは薄いみたいだし、私に嫌われているみたいだと、嫌がらせを受けたとリリが殿下に繰り返し訴えたのもあってそう難しいことではなかった。


冷静に考えて、私のデメリットはあまりに大きすぎる。しかしそれでもかまわないと思ってしまうほど、私は精神的に追い詰められていた。


卒業パーティーを選んだのもリリ。あとから破棄を撤回されたら困るからなるべく多くの証人を作っておきたかったらしい。その日にするよう私から殿下にも伝えておきますね、私の運命を握るその一言をリリは何でもないように言う。いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた、今目の前のリリと同じように。


「実はあの後、殿下に結婚を申し込まれたんです。これから行く領地の開拓、それが終わったら結婚しようって。」


うっ。彼女の言葉に一瞬息が詰まる。

彼が私を嫌っているのは分かっていたけれど、いざそれを突きつけられるとやっぱりまだダメかもしれない。


「もちろん断りましたわ。それに結婚だなんて、私は殿下に好きなんて一言も言ってないのに。」


そう言ってくつくつと笑う姿は彼女のやったこととは裏腹に、あの日と変わらず天使のように可愛らしかった。


今までの私だったらすぐにでもリリに掴みかからん勢いで怒っていたような発言だけれど、そんな彼女の言葉にほんの少し安心したのは何故かしら。

リリの言葉に返事をしようとしたがどうにも頭が回らない。どうやら自分の想像以上に疲れが溜まっていたようで、馬車の揺れのせいか眠くなってきたてしまった。やらなきゃいけないことももうないし、少し休もう。


襲い来る眠気に身を任せ、私は静かに目を閉じた。

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