第9話 『宮 三李』-1

あいつは今日も仏壇に向かって手を合わせている。一途な自分を見せつけるように。

こちらを振り返りもしない。

お前じゃない。とその背中で語っている。



「どうしてあなたはこんなこともできないの?いっちゃんは、こんな点数取らないわよ」


母さんの部屋からまた、二都を叱る声が聞こえてくる。


「……ごめんなさい」


弱々しい二都の声。


「この間も学校休んだでしょ?体調管理をしっかりしてないから風邪なんかひくのよ」


「……ごめんなさい」


「もう、いいわ。いきなさい。次はもっと勉強するのよ」


「はい」


母さんの部屋の襖が開き、中から猫のように背中を丸めて小さくなった二都がのそのそと出てきた。


「さーちゃん」


こちらに気づいた二都が恥ずかしそうに頭を掻いた。


「にー兄ちゃん。また、なにかしたの?」


俺の問いかけに二都は困ったような顔をしながら、一枚の紙を俺に見せた。


「テストで悪い点とっちゃったんだ」


その紙には赤いペンで『80』と書かれていた。


「はちじゅう?」


「うん…怒られちゃった」


「どーして?はちじゅうはダメなの?」


「そうみたい」


「ふーん」


二都は母さんをいつも怒らせている。

それは、いち兄ちゃんができていたことを二都ができないから。

俺は二都みたいになっちゃいけない。




母さんに手を引かれて、駅前のデパートにやってきた。上品そうな女の人たちが姿勢良く歩いている。今日の母さんは機嫌がいい。もうすぐ久しぶりにいち兄ちゃんが帰ってくるからだろう。


「お母さん、今日は何を買うの?」


「ふふふ。今日はね。さーちゃんのランドセルを買うの」


「ランドセル?」


「そう。さーちゃんも来年から小学生だもの」


「にー兄ちゃんが背負ってる黒いリュック?」


「そうよ」


あれか。二都が学校に行く時に背負っていくボロボロの黒いやつ。

去年、母さんがいち兄ちゃんの押し入れから引っ張りだしていた。


「にー兄ちゃんはいち兄ちゃんからもらったんだよね?じゃあ、僕もにー兄ちゃんからもらうよ」


俺がそういうと母さんは首を振った。


「いっちゃんとにっちゃんは年が離れていたからね。でもさーちゃんとにっちゃんは一つしか違わないから、新しいの買わなくちゃいけないのよ」


二都は歳の離れたいち兄ちゃんからランドセルを貰えても、年子の弟である俺は小学校に通うのが被ってしまうから、二都のランドセルをもらうことはできないらしい。


ランドセルのコーナーに尽き、俺は違和感を感じた。


「このランドセル、にー兄ちゃんのより大きいよ?」


二都が背負っているランドセルはもっとぺちゃんこだ。


「もともとはこれぐらいの大きさなのよ、いっちゃんが使い込んでたからね、少し潰れちゃってるのよ」


いち兄ちゃんなら、母さんに隠れてランドセルの上でジャンプしてたりするだろうな。

でも、そんないち兄ちゃんのことを母さんは知らない。

母さんにとって、いち兄ちゃんは真面目でお勉強ができて、世間体のいい子なんだ。

それに比べて、二都は鈍臭くてお勉強もできなくていつも母さんを困らせている。


「さーちゃん、どのランドセルがいい?」


母さんが俺に優しい笑顔で尋ねる。

俺は母さんにとって、『いい子』だ。

だから、新しいランドセルを買ってくれる。

二都にではなく俺に。


俺と二都が2人で小学校に通う風景を想像してみる。ピカピカの分厚いランドセルを背負った俺と、ボロボロな薄いランドセルを背負った二都。

きっと二都は何も言わないだろう。


「僕、いち兄ちゃんのランドセルがいい」


そういうと母さんは驚いた顔をした。


「さーちゃんはそんなことで遠慮しなくてもいいのよ」


「遠慮じゃないよ。いち兄ちゃんのがいい」


母さんは困ったように笑う。


「じゃあ、新しいランドセルを買ってにっちゃんに交換してもらえるか頼んでみる?」




家に帰り、重たいランドセルの箱を抱えて二都の部屋に向かう。


「にー兄ちゃん!」


中に呼びかけて襖を蹴る。


「さーちゃん、どうしたの?」


「手が塞がってるから開けて」


ととと、と中で畳の上を駆ける音がして襖が開いた。


「どうしたのその荷物」


俺は二都を押し退け、部屋に入るとドンっと床に新しいランドセルの箱を置いた。


「新しいランドセル。来年からにー兄ちゃんはこれ使って」


「え?でもそれってさーちゃんが買ってもらったランドセルでしょ?」


「うん。交換して、いち兄ちゃんのランドセルと」


そう言うと、俺は二都の部屋を見回してあのボロボロランドセルを探した。


「ダメだよ。僕のランドセル、ボロボロだから」


あった。勉強机の横に薄っぺらいランドセルがひっかけてある。


「あ、こら」


二都のランドセルを勝手に持ち上げる。

近くでみるとさらにボロボロだ。

こんなにボロボロだったっけ?

黒い皮はベロベロにめくれているし、金具も壊れて、蓋がしっかり閉まってない。

おまけに、ちょっと泥っぽい。

いち兄ちゃん、相当な使い方してたんだろうな。


「さーちゃん、交換はしないよ」


二都がそっと俺からランドセルを取り上げようとする。俺はとられまいと、ボロボロのランドセルを抱え込む。

二都はちょっとムッとしてランドセルを抱え込む俺の腕を解こうとするが、非力な二都には解けない。

年齢は二都が1つ上でも、身長は俺の方が高いし、力も俺の方が強い。

二都はビクともしない俺の腕にため息をついて、床に座った。


「僕が新しいの使ってもすぐボロボロになっちゃうよ」





二都のその言葉は本当だった。


「にー兄ちゃん!」


帰り道の途中、坂の先でのろのろ歩く見覚えのある影を見つけて声をかける。

俺に呼び止められた二都はゆっくりとこっちを振り返った。


「……さーちゃん」


早足で駆け寄り、二都の顔を見てギョッとした。


「どうしたの?その傷」


二都の顔の右半分が赤紫色のあざになっていた。


「転んじゃって」


そう言って笑う二都の右目は半分しか開いていない。


「どこで?」


「どこだったかなぁ」


煮え切らない答え方にイラだちを覚える。

誰もいないところで転んだんだろうか?

すぐに手当てしないといけない。どうしてこうもぼんやりしてるんだこの兄は。


「にー兄ちゃんは鈍臭いな、早く帰ろう。手当てしてもらわないと」


俺がそう言って二都の腕を引っ張ると、ぬるっとしたものを感じた。


「え?」


自分の手の平を見るとべったりと血がついていた。


「血……にー兄ちゃん血がでてるよ!」


「わ、本当だ。気づかなかった」


俺の慌て具合とは対照的に、ぼんやりと自分の腕をみる二都。


「ランドセル置いて、腕みせて!」


二都の背中からランドセルを剥ぎ取って腕の袖をめくる。右の二の腕の部分が擦り切れて、ドクドクと血が滲み出ている。

こんなに痛そうなのに、二都は全く慌てても痛がってもいない。


「転んだ時かなぁ」


呑気に傷口を眺める姿に、またイライラする。


「これで抑えて!ランドセルは僕が持つから!」


そう言って強引に自分のハンカチを二都の腕の傷口に押し付け、二都のランドセルを持ち上げる。

バサッと二都のランドセルから教科書が雪崩のように坂道に広がり落ちた。

一瞬、何が起こったのかわからなかった。

ランドセルを逆さに持ってしまったのか?

違う。

俺が持ち上げた方のランドセルの肩紐が千切れている。

二都のランドセルは半年前に母さんとデパートで買った新しいランドセルだ。

地面に散らかった教科書に事態を飲み込めないでいると、二都は腕を押さえながらゆっくりと教科書を拾い集めた。

そして、肩紐の千切れたランドセルに泥で汚れた教科書を丁寧に詰め込む。


「また母さんに怒られちゃうなぁ」


ぼそりと二都がそう呟いた。




皿の割れる音と同時に「何してるの!」という母さんの怒鳴り声が俺の部屋まで響いてきた。

また二都がやらかしたらしい。

ため息をついて部屋を出る。

母さんを落ち着かせに行かないといけない。


「ごめんなさい」


台所で、うつむいた二都に対して母さんは大きな声で怒鳴っている。


「どうしたの?すごい音したよ?」


白々しくそう言って2人に近寄る。

二都の足元には割れたマグカップがあった。


「にっちゃんがまたマグカップ割っちゃったのよ。まったく…ぼーっとしてるから、そういう失敗ばっかりするのよ!はやく片付けなさい!」


「はい」


母さんの二都への説教は年々キツくなっていた。

二都は本当に鈍臭い。何度言っても同じ失敗をするし、いつもぼーっとしている。会話をしていても、なんだか話が噛み合わないことが多い。

そういう二都の姿にイライラする母さんの気持ちはよくわかる。

俺だって、二都を見ているとイライラする。

もっと要領よくできないのかと思う。


台所の床に膝をついて二都はマグカップの破片を集め始める。

二都が食器を割るのは今年で3回目だ。


「ぼく、手伝うよ」


そう言う俺を母さんは目で制した。


「自分でしたことは自分で片付けさせないと」


ピリピリしてる。

こうなった母さんを宥めるのは俺にはできない。


「どうした?なんか割れた?」


頭上から声がした。

振り返ると、部屋着姿のいち兄ちゃんがそこにいた。


「ごめんなさいね。勉強の邪魔しちゃったわね」


母さんが甘い声でいち兄ちゃんに向けて眉を下げる。


「いいんだよ。あー、にっちゃん。カップ割っちゃったのか。俺もちっちゃい頃はよく割ったなー」


そう言って朗らかに笑ういち兄ちゃん。


「母さん。そういえばお祖父ちゃんが呼んでたよ」


「まぁ、何かしら」


「さぁ?湿布1人で貼れないんじゃない?」


「はぁ……ちょっと行ってくるわ」


いち兄ちゃんの言葉に母さんは大きなため息を吐いて、台所から出て行った。


「にっちゃん、手で触ると危ないよ。俺が拾うから、袋持ってきてくれる?」


いち兄ちゃんはそう言って、二都の傍らに膝をついた。


「兄さん……」


泣きそうな目でいち兄ちゃんを見つめる二都。


「さぁ、母さんが戻ってくる前に片付けちゃおう」




うちは地主の一家だ。

ここら一体は全て、宮家の土地であり土地の貸付で俺たちは生活をしている。

大きな日本家屋で、おじいちゃん、叔父さん、お母さんと長男一郎、次男二都、三男の俺…三李が暮らしている。

俺たちの父さんは、俺が生まれてまもなく海外旅行中に事故に巻き込まれて亡くなったらしい。

二都も俺も父さんの記憶はないので、悲しいという気持ちはないし、父親がいないという実感もない。

父さんの弟である叔父さんが俺たちにとっての父みたいなものだった。

父と言っても、父らしいことをしてくれているわけではない。

世間体を気にする宮家。

母さんにとって、片親であることを外部の人間にあまり知られたくなかったらしく、授業参観や運動会など両親が出席するような行事ごとには、叔父さんが父親役として参加した。

俺や二都は、そのことに違和感を覚えたことはないけれど、唯一歳の離れたいち兄ちゃんだけはそれを受け入れなかった。

いち兄ちゃんは、この家は『異様』だと昔言っていた。

とはいえ、いち兄ちゃんが母さんや叔父さんに反抗したことはない。

本物のお父さんを覚えているいち兄ちゃんが何を考えているのか、何を思ってこの家で暮らして来たのか、俺には想像もできない。




小学校からの帰り道、今日は二都がまた風邪をひいて1人での下校だ。

公園の横を通った時、ベンチに見慣れた影を見つけた。


「いち兄ちゃん、何してるの?」


俺が声をかけるといち兄ちゃんは首だけをこちらに向けた。


「あ、さーちゃんおかえり」


平日の昼下がりに、公園のベンチにすわって遊具で遊ぶ小学生たちを眺めるジャージの男。


「側からみたら不審者だよ」


そう俺が言うと、いち兄ちゃんは「ははは」と笑った。

そして、流れるように自然な動作でジャージのポケットからタバコとライターを取り出すと手慣れた手つきで火をつけた。


「また吸ってるの?」


「母さんには内緒だぞ」


そう言いながら、いち兄ちゃんはふうと細く白い煙を吐く。


いち兄ちゃんは高校生だ。

ここからは少し離れた都会の方の有名な進学校に通っていて、寮に住んでいるからほとんど家に帰ってくることはない。

ここ数日は学校の創立記念日かなんかで休校らしく、実家に帰ってきている。

母さんにとって1番の息子。

その息子が未成年で喫煙しているなんて知ったら、母さんは卒倒するだろう。


「さーちゃん、にっちゃんのこと守ってあげてな」


いち兄ちゃんはタバコをふかしながらそう言う。


「いやだよ。俺のが弟なのに」


「あれ?そうだっけ?」


「そうだよ!一郎、二都、三李なんだから二都が兄!」


「ははは、そうだったそうだった」


本当に間違えたのか冗談なのか、わからない。

だけど、どっちでもいい。

いち兄ちゃんのことはなんだか、許せてしまう。


いち兄ちゃんは生きるのが上手い。

俺もいち兄ちゃんみたいになりたい。

二都みたいにはなりたくない。


俺は上手く生きるんだ。

いち兄ちゃんみたいに、母さんに好かれながら。自分をもった人間になるために。

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