三 不死と経済
私は古いアパートに部屋を借りているが、隣に住む若者(肉体的な年齢の話だ)は「マイペース」の時期らしい。「マイペース」の時期とはつまり、前節で述べた「働きたくないから働かない」という期間である。
二日間眠らずに大昔の連続ドラマやアニメを観続ける音がし、その後は寝続けているのだろう、高いびきが三日ほど響いてくる。珍しくドアの開く音を聞いたかと思えば、無法地帯となったゴミ捨て場で廃棄弁当などを漁っている。
彼はこうして一年近くを「マイペース」で過ごし、半年ほど働いてから、また「マイペース」に戻る、というサイクルを繰り返している。働いているときは何をしているかと言えば、フリーの水道屋だ。快適な生活にインフラ整備は不可欠だから、個人で活動し多少値段を吹っ掛けてもニーズが絶えない。それでぼろ儲けしているのである。とは言え、私はこの人気も、あと数年で陰りが見えると踏んでいる。暇に飽かせて、各領域の専門知識を蓄える連中が現れ始めたのだ。職業人を頼らなくても壊れた水道を修理できる、電気の配線をいじくることができる。そうなれば、哀れな私の隣人は金を稼ぐ手づるを失うだろう。
話を戻す。本節は、経済について語ることを主眼としている。繰り返し書いているように、人々は自由を謳歌し、格差を甘んじて受け入れている。それはひとえに、死なない身体を手にしたためだ。
多くの人間が、このままでは経済が破綻すると考えた。「金」は、生命線としての機能を失った。だから、この社会からは「働き手」がごっそり抜け落ちる。ある種の職業には人も残るだろうが(たとえば動画インフルエンサーのように、好奇心と承認欲求を同時に満たせるようなものだ)、必ず偏りが出るのだと。
結論から言えば、それは半分正解で、半分間違っていた。確かに職業選択に偏りは生じた。しかし、予想されていたよりもその偏向はずっと少なかったのである。
人の好みは多様である。運行が懸念されていた公共交通機関は、「電車の運転がしたい」という人間、「乗り物の整備が好き」という人間、「中央管制の緊張感が生活の張り」という人間、その他大勢の特徴的な趣味・主義をもった者たちによって、本数を減らしたものの回っている。工業、生産業、農業においてもそれは同様だ。ただし、多くの者がライン方式ではなくセル生産方式を好むため(彼らは作業としてではなく創造として物を作るのだ)、生産スピードは速くない。単純に、短期間で必要な金を稼ぐために一気に製品を作り上げて売りさばき、長期休業を経てまた製品を作り出す、という働き方も少なくない。
要は「それをやりたい」という人間が存在する以上、生産が遅かったりむらがあったりするものの、産業は途切れずに続くのである。
ところが、万年人手不足の職種もあるにはある。これについては、次節で解説を試みるが、あまり気持ちのよい話ではない。
働き手がいないのは、介護と教育の現場である。
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