感染か 死か 生存か
黒奏白歌
一章 二人の生存者(予定1話〜10話)
第1話 二人の生存者
【感染発生から0年2ヶ月3日14時5分38秒】
ボロボロのガラス扉。かつてはコンビニエンスストアの出入り口として機能していたそれは、今は無理矢理ガラスを破られ地面に破片を散らばらせていた。それは扉に限らず、壁一面のガラスも破られている。
太陽からの光を乱雑に反射する足元の破片が彼を照らす。四つのうち、中途半端に倒れた入り口側二つの商品棚。倒れていない一番奥側の商品棚、そこから彼は魚の缶詰を持ち上げた。
何かに踏み潰されたのか、地面に転がり袋から中身の飛び出した惣菜パンや変色した米の入っている弁当。黒い瞳で周囲の変化に気を配りながら、彼は缶詰をいくつも鞄の中に入れていく。
黒い髪はざんばらに切り揃えられており、髪型は整える余裕すらない事を示している。更に服も何日も着まわしているのか変色して首回りがヨレヨレになっている。そんな状態のまま缶詰を可能な限り詰め終えた彼は立ち上がろうと左手を地面に着く。だが、隣に立っていた小柄な少女の声にすぐ動きを止めた。
「来た」
彼女の言葉とほぼ同時、ガラスの破片を踏み荒らす音が鳴る。雑然と広がるガラスの破片の絨毯。そこを血まみれの裸足で奴らは歩いている。白濁した眼球が動くことは無い。半分開いた口からはダラダラと涎を流し、しかも半分の歯は失われている。一体は片足を引きずりながら、一体は片腕の無い状態のまま、誘われるように彼と彼女に向かって進んでいた。
彼はガラスを踏み荒らした音に反応して静かに立ち上がる。彼女はトントン、と手に持った杖で床を突いて彼に情報を伝えた。
「入り口から二体。外にも大勢いるね、すぐに逃げようか」
「了解」
即座に棚の前に飛び出した彼は奴ら、『ゾンビ』に狙いを定めて右脚を突き出す。腐肉を容赦なく蹴り飛ばして二体の腐乱死体のようなそれらを地面に倒した。
その隙を逃さずただ散歩をするように彼女は歩を進めた。彼女の後頭部に纏めた長い白髪を揺らしながら、倒れた二体のゾンビの横を歩き抜ける。彼もまた、追いかけるようにして彼女の後をついていき、かつてコンビニエンスストアだった建物の外へと出る。
彼の視界に映るのは、ゾンビ、ゾンビ、ゾンビ、ゾンビ。地面に残る赤黒い何か。壁が劣化しボロボロになったショッピングモール、看板が片方だけぶら下がる本屋、窓が全て破られた一軒家。電力の供給が失われ、佇む街灯。崩壊した文明と大勢のゾンビが二人を出迎える。ゾンビ達は二人からの音か何かを感知したのだろう、ゆっくりと子供が歩くような速度で近寄ってきていた。
そんな状況の中でも彼女は平然と言い放った。
「さあ、いつも通り頼むよ、
名前を呼ばれた彼、紫苑は右手の鞄を地面に置いて彼女の前に屈んだ。彼女は杖を持ったままその背中に掴まる。
そうして彼女が掴まったのを確認した後、彼は右手で鞄を掴み直し、立ち上がって周囲を見渡した。何処をどう走り抜ければ良いのか、それは彼女が見抜くべき仕事だ。
「どう行けば良い?
稲実は彼女の名前を呼んだ。慧香はその言葉にふむ、と閉じた瞼を指で叩き、まるで見えているかのように首を回し、そして右斜め前に顔を向けた。
「10時方向に移動、五体と接近」
慧香が言い終わるや否や紫苑は走り出す。自身へと手を伸ばす五体のゾンビ。白濁したこちらを捉えているかも分からない瞳に臆することなく、一気に近づく。
「その先に数十体の群れ。隙間はあるかな、頑張って通り抜けてくれ。少しでも手こずると地獄まで死体達とマラソンをする事になる」
慧香の言葉を聞いた紫苑は五体のゾンビの合間をギリギリで回避し、伸ばされた手に届かせない勢いで走り抜ける。
そしてその先には何十体と並ぶ動く腐乱死体の群れがいた。窓が割れ、表面の塗装が剥げ、フレームの歪んだ乗り捨てられた車が数台。その隙間を埋めるようにゾンビ達がいる。常人であれば顔を歪めて逃げ出すその場へ向かって彼は果敢に飛び込んだ。右手の鞄を勢いよく前方へと投げ飛ばし、追いかける。伸ばされた腐った手は自身の手で弾く。噛みつこうと開かれた下顎を殴り、進行方向を邪魔するゾンビは蹴り飛ばし、数体を巻き込んで地面に転がす。
車の上に落下した鞄がガシャンと音を立て、それに反応して動きを鈍らせたゾンビ達を紫苑は突き飛ばして退かす。そして鞄を再び前方の車へ。紫苑は三度繰り返した。
腐乱死体の群れの中に飛び込んだ。それでも足止めを食らうことはなく、彼は一見絶望的とも思える状況を切り抜けた。実際は内心で舌打ちと焦りを何度も繰り返していたが、決して表に出さない。
そして彼女は彼の動揺を背中越しに感じていたが何も言わない。
ゾンビの群れを通り抜けて走っていく一人と背中に背負われた一人。
走り続けて約十分後。慧香の指示を受けて紫苑は何度も道を曲がって複雑な軌道で走り続けた。
ようやく足を止めた紫苑は、ゾンビが近くにいない事を確認した後、慧香と右手の鞄を地面に降ろす。膝に手をついた姿勢で荒く息を吐く紫苑を見た慧香は、杖を突いて歩きながら見えないはずの周囲を見渡し、彼へと向き直った。
「周囲に奴らはいない、もう安全だ。お疲れ様、だね。随分と焦りがあったと見える。やはり缶詰を大量に持ち運んだせいでいつもより動きが鈍ったかな?」
「分かって、るのなら、言うな……」
「……すまないね。私は少食だし小柄な方ではあるが、これ以上減らすと流石に、ね」
小柄どころか栄養失調になってしまう、そう呟いて慧香は缶詰の入った鞄を背中に乗せた。ずっしりとした感覚が彼女の背中を圧迫する。それに加えて中の缶詰の角が少しだけ痛みを感じさせる。なるほど、これは彼が苦労する重さだ、いくら食料とはいえここまで重いのか。何か軽くする方法はないものか、あるわけないか。
内心でそう文句を言いながら慧香は杖を突いて鞄を背負い直した。
「さて、行こうか。……拠点と呼べるかは分からないが、私達の住処へ。少し遠回りになるが仕方ない、奴らと遭遇しないように立ち回らなければな」
「…運べるのか?無理をするな。お前が倒れるなら俺が無理して運んだほうがマシだ」
「大丈夫さ。本当に無理ならちゃんと言わせてもらう。それに君は私にとっての生命線。まあ、酷使した後で何をいまさら、と言われそうだが。君は体力を出来るだけ回復させておいてくれ。歩きながらだがね」
軽口とも取れるふざけた発言の後、二人は歩き出す。見渡す限りボロボロの廃墟しかない街の中を進む。
辺りに人の気配は無い。二人の静かな息遣いだけが生存音を奏でていた。あの日、全てが終わった日から、『生きている』人間に会う機会は格段に失われた。無いとは言い切れない。ただし大抵の場合、瀕死、数日後には肉塊となっているかのいずれか。
そんな別れを繰り返すうちに磨耗する心。
必然的に二人は人間との『会合』を避けるようになっていた。遠目に見えようとも、必要以上の接触は避ける。それこそ一週間に一度あるかないか、その程度の確率。例え見かけたとしても助けに行ったりはしない。
二人は休憩をする事なく、ただひたすら歩き進む。『生存』の道を選んだ時点で、長時間の休息は失われたに等しい選択だ。
動いているならほぼ間違いなく屍。それが常識となるまで一ヶ月も要らなかった。無論、生存者もいる。だが諦めに近い感情がその可能性を否定する。
他者の生存を期待するのであれば、自身が生き残る事を優先しなければならない。
それがこの世界だ。
「ここは右だ。一体だけいるね、無視して行こう。無理そうなら出来るだけ音を立てないように排除してくれ。下手をすると二桁単位で奴らが寄ってきてしまう」
杖で地面を静かに叩きながら慧香は歩を進める。瞼を閉じて目が見えていないはずなのに瓦礫を器用に避けて荒く息を繰り返す。顔は微笑みを浮かべたまま、それでも額に汗が浮かぶ。その時、自身の背中から重みが消えた事に慧香は気付く。背中の鞄を紫苑が掴んで持ち上げていた。
「俺が持つ。腕を鞄から抜け」
慧香が言われた通りに動くと、紫苑は鞄を奪うように取り上げ、重い鞄を右肩にかけるようにして持った。重みから解放され、それでもまだ微かに乱れた呼吸を隠す彼女を紫苑は呆れた目で見ていた。
「隠すな。お前が疲れてることくらい分かる」
慧香は強がってみせていたが、その疲れを紫苑も理解していた。だからこそ強引に鞄を奪い取った。
その行動に彼女は呟くように言った。
「…私も少しは無理しないと」
「ならゾンビ共の位置を少しでも正確に把握して帰り道を示せ。俺には出来ない。体力仕事は俺の役目、お前は指示役だ。体力は残しとけ」
さて、と鞄を持ち直して。その時偶然、紫苑の視界に乱反射した光が掠る。
紫苑はそれに釣られるようにして空を見上げた。崩壊した都市とは裏腹に、爛々と輝く太陽。
「本当に…眩しい事で」
少しだけ、羨ましそうに、悲しそうに紫苑は呟く。
例え終末世界であろうとも、太陽は変わっていないのだから。
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