ヴァルキリーフリート

小峰史乃

序章 出奔


 微かな衣擦れの音に目を開けてみたが、部屋は暗いままだった。

 そろそろだと思っていたが、どうやら今日にしたらしい。


 服を着替えているのだろう、絶えることのない衣擦れの音に、目だけを動かして部屋の中を見てみると、いつもは見える家電製品の電源ランプすら灯っていないことに気がついた。


 布団に横たわったまま、現在の状況にアクセスしてみると、どうやら侵入者警報があったらしい。そう思えば、カーテンの向こうのスモークガラス越しに、微かに何かを探し求める声が聞こえていた。


「行くのですか?」


 いつも通りの声で問うたはずなのに、外の喧噪が遠い部屋の中では、舌足らずな声は意外に大きく響いた。


「はい」


 着替えの手を止めて振り返ったらしい音の後、迷いのない落ち着いた声が応えた。


「もう、確かめなければわたしは前に進むことができませんから」


 外があまり見えない代わりに、外からも見えないようになっているスモークガラスとカーテンを切り裂くように、強いサーチライトが一瞬部屋を照らし出す。

 応えたその女性の瞳には、わずかな揺らぎもなかった。


「おそらく、ワタシが追いかけることになると思います」


 いまこの場で彼女を止めるようなことはしない。心を決めてしまっている彼女に、どんな説得の言葉も届きはしない。

 そして侵入者警報で混乱し、通常電源が落ちているらしいいまこそが、この場を離れる好機だろう。


「時間的余裕はあまりありませんよ」

「わかっています」


 着替えは終えたらしい。履いた靴の調子を確かめるように、かかとを床で叩く音が聞こえる。


「望んだ結果になるとは限らなくても、行くのですか?」

「はい。いくつもの結末を想像しました。例えそのどれを迎えるようになったとしても、わたしは確かめなければならないんです。そうでなければ、わたしはわたしでいられないんです」


 サーチライトが部屋の中を照らし出す。

 迷いの色がひと欠片も混じらない声で答え、女性ははにかんだような笑みを浮かべた。


「行ってきます」


 そう言い残して、女性は静かに扉を開けて部屋を滑り出ていった。

 目を閉じてもう一度寝ようと上を向く。


 ――朝になったら忙しくなりそうですね。


 もう少し暇な時間が続く予定だったが、彼女が出ていったことが知れれば騒ぎになることだろう。

 深く吐いた息は、まるで老人が漏らしたため息のように、部屋の中に広がっていった。


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