秘密の恋の甘い味 ~ケーキ×乙女ゲーム×スイーツ男子~
チャーコ
第1話 衝撃の婚約破棄
今日は特別明るい笑顔で接客する。木枠の扉を開けて入店してきたお客さんを、「いらっしゃいませ!」と大きな声でお迎えしたら、
「
「はい」
フルネームで呼ばれ、私は神妙に返事をする。深見店長は仕事に対してとても厳しい。
「元気がいいのは良いことなんだけど、良すぎるのも問題だからな。あんまり大きい声を出すとお客様が驚くから」
「……申し訳ございませんでした。気をつけます」
明日のことを思うと、ついつい張り切る気分になってしまう。一緒に売店で働いていたパートさん──深見店長の奥さんである
「薫ちゃん。麻人くんの言うことは、そこまで気にしなくても大丈夫だからね」
「いえ、私が悪かったので、指摘していただいてありがたいです」
深見依子さんは三十歳に見えないほど、若々しくて可愛らしい顔立ちをしている。顔を覆うボブカットから見える白い首筋が、色っぽくて魅力的であった。きっと、深見店長も依子さんが可愛くて優しいから惚れたに違いない。
私は大学を卒業してから、この【パティスリーフカミ】という洋菓子店で正社員として勤め始めた。ちょうど一年が経つと思うと感慨深い。
働いているお店は、四店舗ある支店の中の二号店である。外観はアイボリーの壁にライトブラウンの屋根、中は売店とカフェスペース、ガラス張りの実演コーナーがある。明るい雰囲気で洋菓子も美味しく、近所でも評判が高い。
大卒二年目としての勤務が始まった四月の時期は、初心にかえってこれからも頑張ろうという気持ちになる。依子さんが私に微笑みかけた。
「あれでしょ、薫ちゃんは明日が楽しみなんでしょう?」
「え……。まあ、はい、そうです、ね」
言い当てられて、私は思わず口ごもってしまった。
明日はお休みで、先々結婚を約束している
「明日は存分に楽しんできてね。せっかくだから、思いっきり甘えてきちゃいなさい」
依子さんの大胆な言葉に、私は顔が赤くなった気がした。航希は年上だけど、あまり甘やかしてくれるタイプではない。……明日は少し甘えてみようか、なんて考えてしまった。
それからは深見店長に注意されることもなく、無事仕事が終わった。十七時からの遅番アルバイトの
そんなに私はわかりやすく気分が顔に出ていたのか。職場のみんなにバレていたと思うと恥ずかしさが込み上げてくる。
一人暮らしのマンションに帰ると、宅配ボックスに注文していた品物が三つ届いていた。早速取り出して部屋に向かう。この品物も楽しみで仕方なかったものだ。
鍵を開けて室内に入り、部屋着に着替えてから品物の梱包を開ける。予約していた本日発売の乙女ゲームが中から現れた。
三つとも同じ乙女ゲーム。何故同じ乙女ゲームを三つ買うのかと問われたら、答えは簡単である。三つの店舗がそれぞれ異なる店舗特典のドラマCDやクリアファイル、パスケースやオリジナルバッグなどをつけているので、コアな乙女ゲーマーとしては全部買ってしまう。
「わ、可愛い!」
クリアファイルとパスケース、オリジナルバッグを目の前に並べてみた。
それぞれショートケーキやチョコレートケーキ、チーズケーキにシフォンケーキが描かれていて、とても愛らしかった。私はバッグを持ち上げてじっくり眺める。
「うーん。このデザインだったら、職場で使えそう」
バッグに付属の缶バッジを二個つけて、明後日から使うことにした。使うことを決めると、それだけでわくわくする気分になった。
世の中には、好きな声優さんの声が聞きたくて乙女ゲームを買う人や、発売されてからの評価で買う人も多いらしいが、私は予約特典や店舗特典を目当てに無差別に購入してしまうのである。
──わかっている。私もいい加減、乙女ゲームに散財するのをやめなければいけないことは。
今回の乙女ゲームのタイトルは『秘密の恋の甘い味』というもので、発売前からネットでは『
事前情報によると、洋菓子店を舞台にした甘い恋愛が繰り広げられる作品らしい。実際洋菓子店で働いている私としては、どうしてもプレイしたいゲームであった。
手に取るとすぐにでも始めてしまいたくなるが、家事が溜まっており、また明日のデートは早い時間に待ち合わせだった。
「はあ……」
溜息をついて、名残惜しく『恋甘』から手を離す。ともかく早く家事を片付けて眠らなければいけない。帰りがけスーパーで買ってきた食材を袋から出して、夕食作りを始めた。
◇ ◇ ◇
待ち合わせの九時ぴったりに、私は恋人の航希が指定した喫茶店へ入った。先に来ていた航希が私に気づき、奥のテーブルから手を振る。私はテーブルに近寄り、航希の向かいの席に座った。
航希は二十九歳で、ショットバー【ムーンライト】で経理の仕事をしている。身長はそれほど高いわけではないが、細身の身体で、ブラックアッシュに染めた髪の色が似合っていた。久々に会うと、彼のかけている黒縁眼鏡も新鮮に見える。
ウェイトレスさんにハーブティーを注文すると、すぐに運ばれてきた。香りが上品で、味も美味しかった。
「久しぶりだな、薫」
「そうだね、一か月ぶりくらいかな。年度末で忙しかったからね」
しばらく他愛ないおしゃべりをする。最近のお互いの仕事状況や、ニュースで見た出来事などを話して、そして会話が不自然に途切れた。航希はしきりに眼鏡のブリッジを押し上げている。
訪れた沈黙を不思議に思っていると、いきなり彼は勢いよく頭を下げた。
「すまない!」
「え?」
謝られる理由が思い当たらない。私が首を傾げていると、航希は眼鏡の黒いつるをいじりながら呟くように話し始めた。
「……好きな女ができたんだ。だから、悪い。薫、別れてくれないか」
その言葉に呆気にとられて絶句する。
──好きな女? 別れてくれ? 頭の中がまったく整理できない。彼は話し続ける。
「その……。お前とは口約束だけど婚約していた。長い付き合いで、気が合うこともわかっている。だが……会えない時間ばかりで……それで、職場の女に惹かれたんだ……」
歯切れの悪い航希の説明に、私は呆然とするしかない。あまりに突然のことで、なんと答えればいいか見当もつかなかった。
ただただ黙っていると、航希は私の手に何かを握らせた。
「少ないけれど、一応慰謝料が入っている。本当にごめん」
視線を落とすと、茶色い封筒が私の手の中にあった。私はうまく出せない声で、必死に彼に懇願する。
「いやだ……いやだよ。こんなお金いらない……。もっと会うようにするから、別れないでほしい……」
航希と将来結婚するのだと、そういう未来しか考えていなかった。私の心からの願いも空しく、彼は拒絶の意を示す。
「もう、お前とは終わりとしか思えないんだ。職場の女と付き合い始めたんだ」
「航希……! 待って……!」
私は周囲を気にする余裕もなく、彼の名を叫んでしまった。航希の上着の袖を掴むが、振り払われてしまう。
「悪い。許してくれ、薫。……じゃあ、な」
再度深く頭を下げて、航希はテーブルから立ち去る。後ろ姿を追いかけようとしたが、身体ががくがく震えていて、椅子から立ち上がることさえできなかった。
航希が喫茶店を出ていくのを見つめていると、視界がぼやけて自分が泣いていることに気づいた。頬を伝う涙はとめどなく溢れてきて、それを止める術を私は持たない。
──婚約破棄、された。
その事実は手の中の茶封筒とともに私に重くのしかかり、狂いそうになる気持ちは最早抑えられなかった。
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