二章 ⑦
時間は、爆発が起こった直後にまで遡る。
人々が恐怖に逃げまどっていた中で、気絶したグレッグは目を覚ましていた。
「……ボへっ」
爆発が至近距離で起こったというのに、意外とダメージは無かった。顔面は煤だらけになり、顔じゅう擦り傷だらけではあったが。
思い返してみて、グレッグには思い当たるフシがあった。先程の画材屋付近でのペンキやモップの騒動で、小型爆弾も水気を浴びていた。きっとその時、少し湿気ってしまったに違いない。それが爆弾の威力を弱めていたのだ。
爆発の時に特殊コンタクトとスマホが壊れたのか、配信の様子がどうなったかは今ではもうわからない。ただひとつ確実なのは、作戦は大失敗だ。ボスは怒り心頭で、グレッグを始末しようとするだろう。ファミリーの面子は丸潰れだ。
「に、逃げ……!」
殆ど人がいなくなったショッピングモールの中を、彼もまた逃げようと駆けていく。行くあてなど無い。だがそれでも、このままでは殺されることだけは確実だったからだ。
「畜生……! なんっ……なんだよあいつらァ!」
グレッグは改めて、二人の手際の良さが恐ろしくなる。
恐らくだが、彼らはグレッグの襲来を予期していたのだ。だからゴキブリを放ってグレッグの身体にそれをつけ、ゴキブリの存在を指摘したうえで自分達ではなく周りの人間を使ってグレッグの行動を抑止し、攻撃までさせる。ゴキブリ退治の名目のもとに、だ。
あの時、最初にゴキブリに気づいたふりをして声を上げたのは八葉だったことも加味すると、そう考えるより他にない。
自分達で手を下さずとも、状況をも味方につける。
(流石、伝説の殺し屋……!)
その時、グレッグの視界に一瞬、何やら〝奇妙〟なものが通り過ぎた。
「……え?」
グレッグは慌てて、それが見えた位置まで戻る。そしてその瞬間────彼は、その場に立ちすくんでしまった。
そこには、廊下の側面の壁から小さな入口を見せる細い通路があった。そこを通った先に、開けたエレベーターホールがあるという構造だ。
そのエレベーターホールに、一人の人影が立っていた。まるで、ずっと待ち構えていたかのように。
全身を覆った黒いスーツ。顔まで覆われ、目も鼻も口も無い感情を感じさせないその姿。
紛れもなく、ゲイブを襲ったという〝バティスラ〟の男の方……犬神一の戦闘形態だった。
「ひっ、ひいいいいいいいいいいいいいいい」
グレッグはもう、ひたすらに逃げるしか無かった。捕まったら終わりだ。ゲイブのように逃がしてもらえるとは思えなかった。
駆ける足音がグレッグの背後から聞こえてくる。彼の背後から、猛スピードで黒ずくめの影が追いかけてきていた。その勢いはもの凄く、すぐにでも捕まえて殺してやるという殺気に溢れている。
ただただ、死にたくないという想いだけがグレッグの頭を支配する。しかし、
「うげっが⁉」
体は、それに追いついていなかった。足がもつれ、思いっきり前のめりにスッ転んでいた。鼻や頬を思いきり床に打ちつけておりジンジンと痛みが広がってくる。そしてその瞬間、むんずと彼の襟首が掴まれた。
「……ッ!」
一瞬で、グレッグの背中に冷たい悪寒が走る。次の瞬間、掴んだ襟首を軸にして彼は仰向けに引っくり返された。
グレッグはもう叫ぶことすらできなかった。仰向けに転がされたことで、彼は自分の襟首を掴んだ相手の正体をはっきりと見てしまっていた。
一切の感情を気取らせない、真っ黒な布に包まれた顔。影法師が実体を持って現れたかのような、そんな〝異様〟な存在。
「い、いやだああああああああああああああああああああ」
影法師はものすごい力で、襟首を掴んだままグレッグをずりずりと引きずっていった。
叫んでも、誰も反応しない。
そしてそれは、グレッグ自身が招いたことなのだ。彼が爆弾を使わなければ、人々は外に逃げたりしなかったのだから。
抵抗虚しく、グレッグは廊下の突き当りまで引きずられると、そこで襟首を掴まれたまま持ち上げられ、ダン! と影法師の手で壁に叩きつけられる。いや、それは……正確には、壁では無かった。
「配電盤……⁉」
叩きつけられた時、背後のそれの蓋がキイ、と動いたのがわかる。先程電気点検をやっていた為、鍵を開けていたのだろう。
瞬間、グレッグの頭から何か液体がかかった。うわっプ、とグレッグが声を上げた瞬間、それが彼の舌にも触れ、正体がわかった。
「しお、みず」
一歩間違えれば感電の危険のある配電盤のそばで、通電性の高い塩水をぶっかけられる。そして、それをやったのは伝説の殺し屋。
「……アイス」
グレッグは一瞬耳を疑った。誰が喋っているのかと。しかしすぐに、彼はそれが影法師が発しているのだと気づいた。
「折角、楽しんでたのに」
加工されくぐもった声ではあるが、その口調は実に恨みがましかった。
もう疑いようは無かった。あの時アイスクリームショップにいたのは一達だけ。やっぱり犬神一と、それと一緒にいちゃいちゃしている嘉村八葉こそが伝説の殺し屋、〝バティスラ〟だったのだ。次の瞬間、
「あひいいいいいいいいいいやだああああああああああ」
グレッグは影法師に片手でむんずと掴まれ、もう片方の手で配電盤の蓋が開けられた。グイグイと押され、いよいよ配電盤に近づけられていく。
「おねがいですううううううああああああああああああああああああ」
ただでさえペンキとモップの洗い水と爆弾でひどい顔になっているのに、そこにベショベショにベソをかき、グレッグの端正な顔はもう微塵も面影が残っていなかった。
影法師はもう言葉を発するのをやめ、ひたすら無慈悲にグイグイとグレッグを押していく。そしてその背中が、
「あぁヅッ‼」
一瞬配電盤と接触し、バッチ! と音がした。一瞬だが流れた電気に、グレッグは悶絶する。彼の心臓は恐怖でビュンビュンと鼓動を強めた。
と────その時。グレッグを押していた力が、突然弱まった。
「……え」
影法師はグレッグから力を抜き、両手をだらんと垂らした。そして……そのままグレッグに背を向け、すたすたと歩き始めた。
「なん、で」
グレッグは考えを巡らそうとするが、先程までさんざ痛めつけられ恐怖を味わわされた頭では考えもうまくまとまらなかった。ゲイブがやられたように、自分もギリギリのところで生かしてもらえたのだろうかとそんな推察を立てる。
「は、ハハハ……」
グレッグは安堵し、急激な緊張からの落差で足の力が緩んでしまっていた。それゆえに、彼の身体は背後へとよろけ……
「ばばッ、が⁉ が、ば、ががががががががががががっが!」
思いっ切り、配電盤へと倒れ込んでしまっていた。電気がバチバチと駆け巡り、彼の身体を痺れさせる。
グレッグは突然のことで思考する余裕もなかったが、それでも生存本能がはたらいたのか身体は配電盤から慌てて離れようとしていた。しかし、
「うが⁉」
激しい蹴りがグレッグの腹に叩き込まれ、配電盤へと抑えつけられる。影法師が突然振り向き、そのままの勢いで回し蹴りをかましグレッグの身体を配電盤へと叩き込んだのだ。その足には絶縁素材の靴でも履いているのか、グレッグを通じて彼の身体に電気が流れ込むことはない。
「ばばっげ、がががが、ほ、ほおおおおおおおおおおおおおお」
バチバチとひたすらに電気が流れたのを確認してから、やがて影法師はグレッグの腹から足を離した。グレッグの身体は先程まで抑え込まれていた反動で、地面へと倒れ込む。しかしまだ、かろうじて彼は生きていた。
何か言おうとするも、しびれと火傷の痛みに何も言うことができない。
「お前」
耳元で、影法師のくぐもった声が聞こえた。
「せいぜい伝えとけ、〝モンスター〟ブラッドに」
バレている。グレッグが〝モンスター〟ブラッドの配下の者だと、バレてしまっている。
「『これ以上俺達の邪魔をするなら、本気で潰す』ってな」
影法師はそれだけ伝えると、満足したのか今度こそ本当にすたすたと去っていってしまった。
後にはただ、感電しズタズタになったグレッグだけが、廊下に無惨に残されていた。
「ほげ……。流石、〝伝説〟だ……」
それとほぼ同時に、
「なーーるほどねえ、あれが伝説の殺し屋カップルの片割れ……」
先程までのやり取りをずっと監視していた一人の女が、物陰から現れていた。
「グレッグだってそれなりに修羅場は潜ってる。それをこうもあっさりと」
彼女もまた、殺し屋。ゲイブやグレッグと同じ、〝グースバンプス・ファミリー〟の刺客。グレッグの配信に合わせ、実際にこの場までやってきていたのだ。彼女はスマホを取り出すと、早速電話をかけはじめた。
『どうした、ハンナ』
「ボスぅ! 大至急日本支部の医療班! グレッグのやつ、やられちゃったので」
『おめェはどうするつもりだ?』
「決まってるじゃないですかぁ……」
ハンナと呼ばれた女はスマホを構えたまま、
「あたしが、このヤマいただきます」
にんまりと笑い、そう宣言した。
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