第42話

「何か、情報が出ているかしら?」


 独り言を言いながら、玲奈がスマートフォンの電源を入れた。


「……おかあさん。大変」


「今度は何よ」


「避難指示が出ているわ」


「誰が避難するの」


「原発から二十キロ以内の人、全員よ」


 玲奈の腕がにょきっと伸びて、目の前にスマートフォンが突き付けられた。


「どういうこと?……」スマートフォンを手に取り、目の前の文字にしがみつく。「……老眼だから見にくいのよ」


 何度も同じ文字を追った。必要だったのは、情報ではなく時間だった。そうしてやっと、自分たちは避難しなければならない、とに落ちた。


「仕方がないわね」


 春花の言葉を待って玲奈が動き出す。


 母娘はストーブの火を消し、身の回りの荷物と貴重品、食糧、ペットボトルに詰めた井戸水等を玲奈の車に積み込んだ。春花はストーブの上で煮えはじめた野菜をプラスチック容器に入れることも忘れなかった。


〝希望の書〟とノート、報告書も元の通りに新聞紙に包みなおして荷物に詰めた。その包みを箱に入れるとき、「原発事故はこれの影響じゃないわよね」とつぶやいた。


「何か心当たりがあるの?」


 玲奈の疑惑の目が向いている。


「ないわよ。原発事故なんて、望むわけはないでしょう」


 春花は憤りを感じた。娘とはいえ、なんてことを言うのだろう。


「原発は安全だと言われていたのに、裏切られたわ」


 ぴしゃりと言って、玄関ドアを閉めた。


 避難指示が出たのは十二日の午後だった。テレビやラジオ、携帯電話、町の放送などで情報を得た住人はすぐに避難を始めたが、棚橋母娘のように携帯電話の電源を切り、拡声器の音も届かない場所に住んでいた住人の避難は遅れていた。


「誰も連絡に来てくれなかった?」


「え、ええ」


 棚橋の家がある地域は開拓地のために元々周辺に人家は少なく、その少ない家の多くは土地を捨てて都会に出てしまっていた。おまけに棚橋家は、学の失踪もあって村の行事に参加することが少なくなり、存在が希薄になっていた。


「これって村八分よね」


 玲奈がつぶやいた。


 春花は聞こえないふりをした。理由はどうあれ、見捨てられたことを認めたくない。


 田舎の国道は警察車両や消防団の車が並び、交通規制が行われていた。道路に点在する緊急車両と、白い防護服姿の緊張感にあふれた人物。道に立つ人々は一様に似た防護服を着ているために、警察官なのか消防団員なのかわからない。しかし、その態度から、彼らが極度に緊張しているのは良くわかった。それは生まれて初めて見る異常な光景だ。今更ながら気持ちが焦った。


 春花は顔見知りの消防団員がいないものかと見ていたが、マスクで顔が隠れているので見分けることができなかった。逆に車中の春花を見つけて挨拶をするような顔もなかった。


 母娘は混み合う道路を玲奈のアパートに向かって走った。


 地震で土砂崩れが起きた道もあった。倒木で通行止めになった道もある。一時間ほど走り、目についたコンビニエンスストアに立ち寄った。昼食用にパンかおにぎりを買おうと思ったが、商品陳列棚は空っぽだった。


「考えることはみんな一緒ね」


 母娘は苦笑し、仕方なくお菓子の袋と缶詰、マスクをかごに入れてレジに並んだ。マスクを買うことにしたのは、道中で路上に立つ警察官や消防団員が一様にマスクをしていたからだ。


 レジで、パンがいつ入荷するのか尋ねると、店員はトラックが被災地に入れないので当分は難しいだろうと応じた。


「何故、入れないの?」


 玲奈がたずねると、店員が一瞬、不思議そうな顔をした。


「原発事故のせいです。トラックの運転手が嫌がるそうで……」


 彼はそう説明してホッと小さな吐息を漏らした。


「こんなものが役に立つのかしらね?」


 マスクをかけて不平を言った。息苦しさは実感できるが、それで放射性物質を防いでいるという実感はない。


 ハンドルを握る玲奈が「さぁ?」と表情を歪めた。


「原発は安全だって言っていたのに……」


「お母さん。それ、五度目よ。起きたものはどうしようもないじゃない」


 玲奈が叱るように応じるので黙った。


 六十間近の自分より、玲奈の方が放射能に対する不安を抱えているはずだ。……親として恥ずかしい。申し訳ない、と思った。けれど、誰かに憤りを伝えずにはいられなかった。




 夕方、玲奈のアパートにたどり着いた。普段の三倍以上の時間を要していた。


 玄関ドアを開けて見ると、そこも小間物はもちろん大きな家具も移動したり倒れたりと、地震の痕跡が残った空間だった。


「あらら……」


 想像はしていたものの、こぼれるため息を止めることができなかった。


「また、後片付けね」


 玲奈が肩を落とした。


「あなた、昨日はどこから来たの? この様子じゃ、ここからではないわよね」


「ばれちゃったわね……」玲奈が小さな舌を出した。「……ガラスが割れていて危険だから、靴のままあがって」


 春花は言われるまま、土足で部屋に上がった。その時、指の傷がうずいた。


「彼の実家に行く途中だったのよ。金沢……」


 倒れた家具を起こしながら玲奈が話した。


「結婚するのね」


 嬉しかった。でも、それが表に出てこなくて冷たい言い方になっていた。


「赤ちゃんがいるの」


 玲奈が下腹部に手を当てた。


「まあ……」驚き、言葉が出てこない。しばらくしてからやっと言えた。「……良かったわね」


 長い時間の運転、地震の後片付け、ポンプでの水くみ、寒い夜。……妊婦にさせてはいけないことばかりさせた不安で頭がいっぱいになった。けれど今も、片付けの手は止められない。それをしなければ暮らせない。不安を口にするのも、いけないと思った。不安は伝播し、増幅する。思いつくものすべてを押し殺して、片付けの手を動かした。




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