第17話

「猛、すごいな。神殿の砂にこんな力があるなんて、よく分かったな」


 クルボが逃げ出す虫と地面にまかれた白い砂とを見回した。それから猛の顔と、ハンの姿を見比べるように交互に見た。


「やはり、この臭いは虫も嫌いなのだ」


 猛は足元を這っていた大ムカデを踏みつぶした。


「これなら、ハンの世話も楽になるよ」


 クルボの猛を見る目が変わった。信頼の種火がともった瞬間だった。


「あれが〝神の心臓〟なのか?」


 猛はハンの膝の上の四角い物体を指差した。見た目は変哲もない黒曜石だった。


「ああ。そうだよ」


 黒曜石は、血でぬれた部分はテカテカと不気味に光り、そうでない場所は厚く積もった砂埃に埋もれて土塊のようだった。


 猛は改めてハンを観察した。形は人間だが、よく見れば、瞳は砕けた椿の実のようで、髪や髭は、荒れ地の草木のようで、とても人間のものとは思えない。足が根となった時点でになったのかもしれない。大地の栄養を糧に生きていると思われる不可思議な肉体、無数の虫に食われて傷つき赤い血を流す肉体、……彼は何も語らず、小指一本さえ動かすことがない。


 いつの間にか、朽ちた瞳も肉が露出した肌も、黒い眼球に、褐色の肌に戻っていく。


 驚くべき再生能力!……彼の肩に触れてみる。その肌はしっとりとして柔らかく、生きている人間のそれとなんら変わるところがない。


「物語のミイラとはちがうな」


 猛は長老の物語を思い出していた。それは石の台座の上に置かれた椅子に掛けていた。大地に根を張っていたとは思えない。


「ハンは生きている」


 クルボが答えた。


「ああ、食われた跡が再生するのだからそうだろう。分かっているよ」


 彼の意見に反論するつもりはない。しかし、ハンの脳は生きているのだろうか? 数百年、若しくは数千年、ハンは考え続けているのだろうか? だとしたら、自分なら気が狂ってしまうだろう。……深いジャングルを一人、彷徨った経験からそう思う。


 感覚が生きているとしたら、それは虫に食われる痛みばかりではないのか? それは果てしのない拷問に違いない。


 もし、ハンの脳が生きているのなら、それはすでに狂ってしまっているのかもしれない。彼にはその狂気から逃げるすべがない。ハンは、それを子孫に示すことさえ出来ないのだから……。


 そうなることで彼は信仰の対象となった。それで彼が満足しているのかどうか、誰もわからない。


「かわいそうだ」猛はつぶやく。


「かわいそうだ」木霊こだまのように応えたのはクルボだった。


 ハンに同情を覚えても、猛とクルボにできることはなかった。祠の前で長い時を過ごし、ハンのくぼんだ眼が完全な眼球を取り戻したときにそこを離れた。なぜか、彼に直視されたくなかった。


 二人は言葉をなくしていた。まるで物思いにふけるように、休暇の午後を気心の知れた家族と過ごすような足取りで村に向かった。


「伝説通りなら、この近くにワニの住む河口があったのだな?」


 猛が口を開いたのは、村が見えた時だった。潮の香りがしないことに疑問を感じていた。


「河口は、東に一日ほど歩いたところです」


 クルボが指差した。


 長い時を経て、地形も変わったのだろう。それだけハンの苦しみも続いているということだ。


「海に近かったら、もっと豊かな生活ができただろうに。……時の流れというのは恐ろしいものだな」


 脳裏を日本に残してきた家族が過った。その顔が思い出せない。……妻と子供は元気にしているだろうか?


「いいえ。そのお蔭で、この村は戦争に巻き込まれずに済んでいる。河口はアメリカの船でいっぱいですよ。貧しくとも、平和のほうが有難い。これも、ハンの力なのかもしれない」


「まさか……」


 クルボは人が良すぎる。……猛は彼の無辜むこな笑顔に赤ん坊のそれを見た。そして不安を覚えた。平和な村に、自分が戦争を持ち込んでしまったのではないか?


 村に戻ると、長老が少女を連れて待っていた。


「古い建物に手を入れて、猛用に準備した」


 彼が建物に案内した。他の家族の建物と同じ高床式のつくりのそれは、猛一人が使うには贅沢に感じた。


「今日からここを使うと良い。それから、マユ……」


 長老が後ろにいた少女を呼んだ。背丈は大人と変わらないけれど、顔には子供っぽさが残った髪の長い、身体の線の細い少女だった。


「……マユがタケルの世話をする。自由に使ってくれ」


「ヨロシクオネガイシマス」


 微笑みを浮かべながら、少女は片言の日本語を話した。


「こちらこそ、よろしく。日本語は何処で覚えたの?」


 猛は現地の言葉で答えた。


「基地に果物を運んでいました」


「最近?」


「いいえ、半年前までです」


 長老が、マユは日本兵に乱暴されたので、それ以来、基地には出向いていない、と話した。


「それはすまなかった」


 猛は帽子を取って頭を下げた。仲間の兵隊が暴力を振るったり、女性を犯したりしたことを得意げに話しているのをよく聞いた。気分は悪かったけれど、それを注意することはできなかった。それが戦争だと、自分を誤魔化しし続けてきた。マユに向かって頭を下げると、少しだけ戦争から遠ざかることができた気がした。


「ハイ、モウ、ダイジョウブ」


 その時のことを思い出したのだろう。彼女の表情が陰った。




 てっきり通うのだろうと思っていたマユは、その日から猛と同じ屋根の下に住んだ。


 猛が、親の元から通えばいいと言うと、彼女は猛の妻なのだと言って帰ろうとしない。


「ワタシ、カエル。イエニ、ハイレナイ」


 彼女はそう言って悲し気な表情を作った。どうやら、長老やマユの両親は、彼女を本当の妻として猛のもとに送り込んだようだ。

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