第3話

無料の求人欄の四角い枠の中に、赤いバツが増えていく。


正社員の面接は、年齢で引っかかるらしく既に四件ほど断られた。アルバイトの面接は、九件ほど予約してある。


職種の選り好みはしていないけれど、社員途用制度があるところを狙っている。


アルバイトから社員になることなど、甘い考えかもしれないけど、わずかでも望みがあるのならすがりたい。


担当の名前を確認して、電話をかける。これで十件目。コール音が二回鳴ったところ

で男性の声がした。


「あの、求人誌を見て電話しました、石原と申します。人事担当のヤスニシさんはいらっしゃいますでしょうか」


「え、ヤスニシ?」


訊き返され、数秒の間沈黙が流れた。間違えただろうか。慌てて求人誌に目を走らせる。担当安西。これはヤスニシと読むのでなかったっけ。


「あー、わかった。アンザイね」


笑い声が電話の向こうから聞こえてくる。和んだ様子の笑い声だったが、一言謝罪した。読み方を知っているはずの苗字だったのに、なんでヤスニシなどと言ってしまったのだろう。


保留音が流れた。ペンを持つ手が震えている。


読み間違えたことで、頭の中が連鎖反応を起こし始めた。「ウミモエキス」から

始まった説教を思い出し、緊張感が全身を蝕んでくる。


「お電話代わりました。担当のヤスニシことアンザイです」


最初電話に出た人から、すぐ安西さんに私の言ったことが伝わったのだろう。


よさそうな会社だと思った。向こうは冗談のつもりで言ってきたのだろうが、


今の私には笑い飛ばせる余裕がない。


情報誌を見たことを繰り返し言い、面接したい旨を告げる。


結果を出せ、頭が弱い、必要ない必要ない必要ない……。


スーパーバイザーの言葉が頭の中で反復される。十六社クビになって、次に働く会社で私はまた同じことを繰り返すのだろうか。


「……大丈夫ですか。ちゃんと聞いてます?」


安西さんの説明に相槌ひとつ打っていないことに気がついた。


持ち物をメモして、面接の日にちを決め、電話を切る。携帯を握っている手が白く、首の動脈がどくどくと波打っていた。


喉がからからに渇いていたので、自分の部屋を出てリビングへ行くと、母が台所で晩御飯の支度をしていた。物音で私に気づき、訊ねる。


「帰りが早かったのね。あんた、もしかしてまたクビになったの?」


黙っているつもりだったのに、母は鋭い。


「うん。また仕事先探してる」 


言うと、困った顔をされた。


「そんな子に育てた覚えはないんだけどねえ。さくらはしっかりしているのに」


「すみません……」


「年金はしばらく、また私たちが払うのね。お父さんもまたがっかりしちゃうわ」


「すみません……」 


肩身が狭い。日本の三大義務のうち二つを、私はまともに果たせていない。


「親がいつまでも生きてると思わないでよ。この先どうするの」


いらいらした口調だ。答えられない。正直、一日を生きるのが精一杯で、先のことを考えられない。


考えることがあるとしたら、明日から三日ほど詰まっている面接のことだけだ。


その明日でさえ、どうなっているかわからない。


明日も必ず生きているという確証と自信が、いつの頃からか私にはなくなっていた。


代わりに、時々ふらっと線路に飛び込むか、高いところから飛び降りたくなる気持ちが繰り返し心に忍び寄ってくる。


「ごめんなさい」


胸がチクチクと痛くなった。


いくら母に謝ったって、私がきちんとしていなければ意味がない。


今日の説教がよほど堪えているみたいだ。私のやっていること、放つ言葉の一言一言が全部無駄なものに思えてきて、それ以上は何も話せず、水を注いだコップを持ったまま階段を上がり、二階の自分の部屋に戻った。


『落ち込んじゃ駄目だよ。そのうちお姉ちゃんにあう職が見つかるから。妹はいつも姉を応援しています』


母がメールを送ったのだろう。さくらから私の携帯にメールが入っていた。


まだ仕事は終わっていない時間だから、多分今は小休憩中。家族間での出来事は、なんでも筒抜けだ。


さくらの言葉はいつも励みになる。ありがとう、とだけ打って返信した。


口をつけたコップから水が漏れて耳の下を流れていく。母の前では力を入れて必死で抑えていたけれど、一人になって肩の力を抜くと、さくらの応援の甲斐もなく震えがまた訪れてきて思うように飲めなかった。


怖い。働くのが怖い。この先生きていくのがとても怖い。


初めて感じたことで、理屈はなかった。そしていつもなにかにびくびくしている。


いつからこんな社会になってしまったのだろう。日本の組織や会社というものがどこへ行ってもギスギスしていて、酷く息苦しい。


働き方改革があったのだとしても、会社というところにいると牢獄に入っているような気分になる。


押し寄せる緊張感と恐怖感から逃れたくて、私は突発的にスケジュール帳と求人誌を開き、電話をかけていた。


「もしもし、先ほど電話いたしました石原と申します。申し訳ありません、他のバイト先が決まってしまったので、明日の面接はキャンセルさせてください」


嘘も方便。少し休め。脳が働きかける。


精神の弱さと甘えがそうさせているのはわかっている。みんな頑張っている。頑張るのは当然。けれど私の弱い精神は、もう頑張れない。


最後に面接の予約をしたところはなんとなくよさそうな雰囲気だったけど、馬鹿みたいに必死になって、十件全てをキャンセルしてしまった。

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