Scene.24 一〇三号室の住人
圭一くんの部屋を後にして、始まったばかりの朝に白い息を吐いた。
時間が惜しい。何せ俺はこれからすべての部屋を調べようとしている。
ボイスメモにあった「一つめのお願い」を思い起こす。確か昨日すべての部屋のポストに投函したチラシが、ゴミ捨て場に捨てられているかを確認しろ、だったか。
鉄階段を降り、コンクリートブロックに囲まれた簡素な集積所の、黄色いカラス避けネットを捲ってみる。地域の燃えるゴミ袋に詰まったゴミが四つ転がっていた。
ステアハイツの部屋数は……一〇一号室から二〇四号室までだから、全部で八。すべての部屋が満室とは限らないから何ともいえないし、毎回全員が捨てているとは限らないだろう。
集積所の看板によると燃えるゴミの収集日は週に二回だけれど、実際、圭一くんも週に一度しか出していないようだし。
「それが何だって――」
首を捻りかけたが、袋の中身に目を凝らしてようやく合点がいった。
昨日の俺はすべての部屋にチラシを入れたと言っていた。
であれば、各戸に一枚ずつ投函したはずのチラシが一袋にまとまって複数枚捨てられているはずはない。
前に各戸のドアスコープを覗いてみたことはあった。どの部屋も人の気配はしなかったから、もしかすると留守か空室なのだと思ってはいたが。
誰か、各部屋に侵入してすべてのポストを管理している奴がいるということか。目的は何だろう、入居していることを装うためだろうか。
そこまでして新たな入居者を拒む理由は、察して余りある。
昨日の俺がわざわざチラシを投函したのはこのためか。
真っ直ぐに一〇三号室へ向かい、扉のポストを覗く。最近退去したという男の部屋だが、空っぽの差し出し口からは暗々とした空間が見て取れた。
「遠慮なく、お邪魔するよ」
利き手のポケットから取り出した合鍵を差し、回す。サムターンの回る音がして、呆気なく一〇三号室はそのがらんどうの玄関を晒した。
外へ流れ出てきた濃い怪異の気配に、思わず顔を顰める。
「これは……換気が必要そうだ」
煤のような瘴気に紛れて薄らと漂う血の匂いに、自然と背筋が強ばった。隠しようもない。ここで最近、誰かが命を落としている。
土足のまま上がり、暗い廊下を踏み歩く。ぬるりとした空気が足にまとわりついて不快だ。
リビングに辿り着くと、家具など何もない殺風景な空間が俺を迎えた。
空室らしく家主の痕跡もないのに、窓には分厚い遮光カーテンが引かれていた。朝とは思えない部屋の暗さは、この暗幕のせいもあるらしい。
これも入居を装うためのものだろうか。
「まったく、小賢しいね」
カーテンと窓をまとめて開けると、音もなく午前の光が差した。明度を取り戻したにもかかわらず、室内はどこか時間が止まってしまったかのようにしんと静まり返っている。
静謐、ではない。誰かが息を殺して見ているような不気味な静けさだ。本体は未だ姿を見せない。
「さて、どこに隠れているのかね」
部屋中の壁や天井を見回したが、それらしい姿はない。ただ圭一くんの部屋にも満ちていたような嫌な気配が隅に蔓延っている。
風呂場、洗面所、和室の押し入れ、キッチンの吊り戸棚……確認できる場所を一通り視て回り、そのどこにも異常がないことを確かめる。
異常はない。不自然なくらいに、この部屋には何もない。いや、なかったことにされている?
「あとは……ここか」
リビング脇にある、真新しい若緑の六畳間を見下ろした。再び踏み込み、畳同士の隙間に合鍵を差し込んで梃子の原理で浮かせる。
持ち上げた畳の下にあったそれに、俺は思わずぎょっとしてしまった。
「まさかとは思ったけど……」
畳裏に隠されていたのは――夥しい数の札だった。鈍色の血を吸った木床を隠すように無数に貼られたそれらには、判読不明の筆文字が書かれている。
魔除けか、とにかく何かを封じる意図があってそうしているように見える。のだが、一〇三号室に満ちる濃い気配は、その札の隙間から絶えず漏れ出ていた。
ここで誰かが死んで――恐らく殺されて、成仏できずに残った魂がここに無理やり縛り付けられているのだ。次の生命に巡ることすら許されないで。
「どこかの下手くそが、封印した気になってるのか。こんなことをしても、臭い物に蓋をしたことにもならないのにね」
お粗末な対処に呆れ、吐き捨てる。誰がやったのか知らないが、火元を板戸で隠すくらい愚かな行為だ。どうにも手に負えず、その場凌ぎにやったようにも見える。
ひとつ深呼吸をして、床の札に手を伸ばす。何枚かの札をまとめて引き剥がした瞬間、床から間欠泉が爆発したかのように黒煙が噴き出した。
みるみるうちに煙は無数の腕となり、すぐそばにいた俺を憑り殺そうと襲いかかる。
苦界に藻掻き爪を立てる不定形の影たちを厭わず、俺は彼らの手を取り、まとめて抱き寄せた。
「苦しいかい。こんなところに閉じ込められて狭かったろう……さあ、落ち着いたら自分の形を思い出して」
「あ……うぅぅ……」
しゅうしゅうと音を立てて腕たちはうねり、のたうち回る。
憎しみと悲しみと無念と殺意。それらが狭い場所に押し込められていたせいで煮詰められ、ドロドロに溶け合って己の身を食い人間だった頃を忘れ、ただ呻き新たな
辛抱強くその背を撫でていると、やがてやわらかい朝陽に解けるように影の縁が崩れ始めた。
「……死んで間もないみたいだね。大丈夫、貴方を縛るものはもうなくなった。まだ名前は言えるかい?」
塊だった影は徐々に形をとり、ひとりの人間の姿へ収束していく。三十代くらいの、両目を失くした男だった。
「カケがわ……とオル……」
虚ろな眼窩の男はそれだけ言い遺し、微細な光の粒になって空気に還っていく。自我を取り戻した今、向かうべき場所を指し示してやったから迷うことなく逝けるだろう。
ひとまず目の前のひとりを送り終え、俺はようやく肩の力を抜いた。窓の外からは冬の澄んだ風が久方ぶりに吹き込んでいる。が、建物全体の気配は依然として完全に晴れてはいない。
こんな部屋がまだ他にも。項垂れた視線の先に、先ほど消えた男のものと思しき血染めの床が広がっていた。一体何人が敷地内で殺され、埋められているのだろう。
真冬にもかかわらず、背筋に冷たい汗が流れる。
「これはちょっと……骨が折れるな」
ただの紙切れに戻った床の札たちは、乾いた風に力なく揺れていた。
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