Scene.2 二〇二号室の住人

 どこか知らない部屋にいた。

 一瞬だけ僕の部屋かと認識しかけ、いや、と首を捻る。越してきたばかりの部屋と間取りこそ似ているが、敷かれた花柄のカーペットには見覚えがなかった。テレビの横に並んだ、色とりどりのメイク道具。

 それらはどれも僕のものじゃない。靄がかかった頭をもたげて、ふわふわとした足取りのまま見知らぬ部屋を散策する。

 今何時なんだろう、そもそもここは誰の部屋なんだろう……どうして僕は、ここに。

 とりあえず外に出ようとして玄関に向かい、視界の端に小さな銀色がきらめいた。あれは――洗面所の鏡か。

 四角い銀鏡を振り見て――そこに僕の姿はなかった。訝しみ、それに歩み寄る。ひたり、ひたりと踏んだ床は洗面所前でぎしりと鳴った。

 白を基調とした洗面台は、特筆すべき点もないくらいどこにもありふれたものだった。腰の高さに陶器製のボウルを抱え、長方形の一面鏡が顔から腹までの高さで澄んだ光を照り返している。鏡も台も、壁に埋め込まれ設置されていた。

 どこにもおかしなところはない。僕が映っていない、ただその一点を除けば。僕の存在など最初からなかったとでもいうように、物言わぬ鏡は静かに薄暗い廊下の壁紙を映している。

「どうして……」

 躊躇いがちに伸ばした指先は、冷たい鏡面に触れて――瞬間、

「――っ!!」

 鬼気迫るような衝撃と騒音に、全身が総毛立った。何も映さない鏡の向こうから拳を叩きつけて、誰かがここにいると主張している。助けを求めるように、憎しみをぶつけるように。何らかの情念を込めて、鏡は割れんばかりに向こうから叩かれる。

 そこに、誰かがいるのか?

 思わず伸ばした指先を引っ込めようとしたところで――僕の背後から声がかかった。

「████████?」

 振り向いたその鼻先に迫っていたのは、



 ――――

 ――



「――はっ!!」

 誰もいない部屋で、僕は息を吹き返したように覚醒した。カーテンのない窓からは容赦なく朝陽が差し、視界を焼いている。

 リビングの真ん中に敷かれた布団の上で身を起こすと、しんと冷えた部屋にも関わらず全身に汗をかいていた。そんな不快感すら、現実と僕を結びつけている証のようで安堵してしまう。

「夢……か」

 どこか見知らぬ部屋を歩いていた。そこは僕の部屋と同じ間取りで、洗面所に差し掛かって……

 そこまで思い出して身震いする。そこにあったかのような風景は夢の残滓とともに意識の奥底へ消えつつあるけれど、鮮烈な恐怖は胸の奥に深く深く根を張っていた。自分自身を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸する。

 新居一日目の寝覚めは最悪だった。

 ひとまずシャワーを、と立ち上がり、洗面所へ足を踏み入れ――思わず顔を上げる。

 夢で見たものと同じ一面鏡には、怯えた顔の僕が確かに映っていた。



 熱い湯を浴びていくらか落ち着きを取り戻し、パーカーにコートを羽織って二〇一号室を後にした。スマホを取り出せば、まだ朝七時半。少し早いけれど、辺りを散策しながら出勤するのも悪くないだろう。越したばかりの部屋にひとりでいるのが手持ち無沙汰だったから、というのもあるけど。

 引越作業で出た、剥がしたガムテープの屑やら使用済み緩衝材やらが詰まったゴミ袋を片手にアパートの階段を降りる。

 階段脇のゴミ捨て場に先に積まれていた袋を見て、おや、と目を見張った。僕が抱えていた可燃用の指定ゴミ袋と、積まれたゴミ袋の色が違ったからだった。

 そこへ、こんこんと鉄階段を鳴らして誰かが降りてきた。

「おはよ。今日はペットボトルの日だよ。燃えるゴミは明日」

 挨拶に振り向くと、そこにはお隣さん――二〇二号室の美澄さんが立っていた。ショートの黒髪に紺のパンツスーツ、黒いコートの出で立ちの彼女は、薄い通勤バッグを抱えて佇んでいる。細身で色白なのも相まって、冬の空気を切り取って現れたようだった。

「そうなんですね……きちんと調べてくれば良かったな」

 実家と同じ感覚でゴミ出ししていたから、地域ごとに収集日が変わることを失念していた。頭を掻き、置こうとしていた燃えるゴミ袋を抱え直す。

 昇ったばかりの陽を湛えた美澄さんの瞳は、今日も澄み切って僕を見つめている。何だか目を逸らせない、不思議な瞳だ。僕も思わずまじまじと見てしまう。

「……どうかした?」

「ああ、いえ」

 美澄さんは小首を傾げた。駄目だ、あまり見てたら失礼だよな。

 僕は慌てて目を逸らした。

「すごく目が合いますよね、美澄さん」

 弁明めいた言葉のひとつでも言えたら良いのだろうが、口から出たのはそんな素直な感想だった。

 ああ、と口の端を曲げ、彼女は特に僕を気にする様子もなくハスキーな声で笑う。

「私、他人の目を見て話すのが癖なんだ。……圭一さんは学生?」

「いえ、社会人ですよ」

 良くされる勘違いに、僕も釣られて苦笑する。

 持って生まれた童顔のせいか、僕はいつも実年齢よりも若く見られがちだ。厚かましいかもしれないが、学ランを羽織ればまだ高校生だとも言い張れる自信はある。

「それは失礼。私は二十五歳、圭一さんは?」

「二十三ですね」

「若いね」

「二つしか変わりませんよ」

 そうか、と美澄さんは瞳を細める。勝手に近づきがたいオーラのようなものを感じていたけれど、言葉数が少ないだけで案外話しやすい人なのかもしれない。

「これから仕事?」

「そうですね」

「そっか」

 白い息をひとつ吐いて、彼女は思いついたように「じゃあさ」と提案した。

「一緒に行かない? 駅までの近道を教えてあげる」

「本当ですか」

「……ひとまず、そのゴミ袋を置いておいで」

 美澄さんは細い指で僕のゴミ袋を指す。

 知らない土地に来たばかりの僕への親切など、断る理由は特にない。元より今日は時間を持て余しているのだから、ひとりで行こうが二人で行こうが変わらないはずだ。

 申し出をありがたく受け入れることにして、僕は一度ゴミ袋を自室へ持って帰り、再び鍵をかけ直して美澄さんの背を追った。



 冬の朝の空気は景色の輪郭を強調して、道行く僕らの白い吐息をさらっていく。

 僕と美澄さんは仄温かい日差しの中、最寄り駅を目指して住宅街を並び歩いていた。

 車一台が通れるような信号のない十字路を横切り、隣の彼女はふと口を開く。

「君はどうして引越してきたの?」

 差し支えなければ、と添えられた問いに、何と説明して良いかと少し首を捻る。

 入居条件を話してはならないという決まりはないけれど、普通の転居理由というにはほど遠い。

「それが、実は……」

 SNSで見た求人広告を元に引越を決めたことを伝えたが、美澄さんは特段驚いた様子もなく頷いた。

「ああやっぱり。君もそうなんだ」

「君、というともしかして……」

「そう、私も。もう二年前になるかな」

「そうだったんですか」

「意外と居心地が良くてね。以来そのまま住んでる」

 相変わらず僕から目を逸らすことなく、事もなげに彼女はそう話した。

 なるほど、美澄さんも僕と同じく、あの不思議な求人広告を見て転居を決めたのか。指定された部屋に三ヶ月間住むことで報酬を得て、希望すればその後も家賃を払って住み続けることができる契約を利用している好例とも言えそうだ。

 聞けば、あそこに住んでいる人たちはほとんど同じ求人を見て集まっているらしい。それもそうか。住むだけで給料が発生する家なんてそうそうないだろう。僕があの部屋を見つけて入居することができたのも、ある種の幸運だったのかもしれない。

「大半の人は、無料期間を終えたら出て行く。君はどうだろうね」

 そう問う彼女の瞳にあざとさだとかそういったものはなくて、ただ僕の反応を観察しているように見えた。塀の上から何の気なしに人間を見下ろす猫の目線に近い。

「まだ一日しか住んでないので何とも……ですけど、長く住めたら良いなと思います。設備も綺麗で部屋も広いし、せっかく始めた一人暮らしですし」

 お隣さんも親切ですし。という言葉は敢えて呑み込んだ。あいにく僕はそこまで軟派ではない。

 皆まで言わずとも、美澄さんはその先の言葉を読んだように「そっか」とひとつ頷いた。ふっと吐いた冬の息は、朝靄と重なって空気に溶けていく。見上げた朝焼けは静かだった。

 そうしているうちに良く知る最寄り駅の屋根が見えて、僕らは別々の道を歩き始めた。



 ――――

 ――



 夜が更ける。

 深い闇に微睡む時刻――僕の意識は再び、知らない部屋に浮上する。

 白い壁に、僕の部屋と同じ間取り。見覚えのない絨毯とメイクポーチの部屋。

 既視感と奥底に仕舞っていた恐怖が湧き出し、身体が硬直する。まただ。どうして僕はここに……

 焦る心とは裏腹に、足はゆっくりと玄関へ歩み出す。現実感のないふわふわとした足取りの感触まで、昨日見た夢と同じだった。

 視界の端に現れた洗面所の鏡はやはり、僕の姿を映さず薄闇に佇んでいる。

 これ以上近付くな。止まれ。鏡に触れるな。

 噴き出す嫌な予感にそう強く念じても、ままならない身体は一面鏡に手を伸ばしてしまう。意識はあるのに、手足の一切の自由は奪われている。

 これは夢だ、と言い聞かせて覚醒を促そうとしても、濃い夜闇の気配は増すばかりだった。

 ひりつく緊張感の中――突然、誰かの手のひらが背中に触れた。

 悲鳴の代わりに、ひゅっと喉が鳴る。冷たい指先が背骨を撫で、骨の凹凸を確かめるように下から上へとなぞっていく。僕が生きている人間なのか見定めるような動きだった。怖気が全身を支配していく。誰だ、だ、そこにいるのは。

 やがて指先は頸椎に差し掛かり――不意に手のひらは僕の喉元に回り、ぎりぎりと締め上げた。

「……ぅ、あ」

 苦しさに身を捩る僕の耳元で、誰かの声がする。

「ねえ、███████の?」

 視界は暗転した。

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