第14話:お隣さん_2


 お昼ご飯を食べるような時間になっても、あお君は帰ってこなかった。……帰りづらいのかもしれない。いつもなら私がなにかしら連絡を入れている。それを今日はしていない。あえてだ。かくいう私はカフェに行ったらケーキを食べたいと思い、昼食は軽めに済ました。美味しいケーキを食べるなら、お腹いっぱいよりも胃に余裕のあるほうが良い。

 このあと、彼は本当に帰ってくるのだろうか……と考えて、ふと思った。そもそも昨日、彼は本当に会社へ行ったのだろうか。もしかして、女性と旅行にでも行ったのかもしれない。今までも朝帰り自体はほとんどなかったのだ。今日は朝どころがもうお昼だが。


 スマホに届いたメッセージは、室井さんからだった。思ったよりも荷物の運び込みが早く終わったらしい。私はマンションの下で待ち合わせることにして、あお君へ『お隣さんが越してきて、あいさつに来てくれたよ。ゴミの日とか、町内会の話とかあるから、伝えるために少しお茶してくるね』と丁寧にメッセージを送った。私がいなければ、彼はしれっと帰ってくるかもしれない。


 ……帰ってきても、私は素知らぬ顔でいつも通り接するだろう。私の中で辛うじて成り立っていたナニカが、昨日の涙でもう崩れ去ってしまったから。


「さて、と。そろそろ行きますかね」


 マンションの下で待ち合わせたのは、お互い家の前で待たれるよりは気が楽だろうと思ったからだ。すぐそこで待っていると、早く急がなければと思ってしまうし、出るタイミングがたまたま同じになるならば、そのまま一緒に出ればいいだけだ。


 念のため、メモにマンションのゴミの出しかたと、近所のスーパーや病院、コンビニなどお世話になりそうな場所を書いた。既に聞いているかもしれないが、町内会長の名前と家の場所も書く。町内会に入るかどうかは自由だ。マンションは賃貸だし、子どものいる家庭は、子ども会へ入るついでに申し込むようだが、単身者や夫婦のみはとくに声はかからない。私がそれを知っているのは、現町内会長の奥さんとよく喋るからだ。このマンションの持ち主で、最上階に住んでいる。私たちが越してきた日に挨拶をして、マンションの周りを掃除したり、植え込みに水をやっているから、たまにお手伝いをしながら世間話をするようになった。年齢的には私の祖母の年齢で、なんとなく似ている気がする。祖母はもう亡くなっているから、この感覚が懐かしくて、おばあちゃん子だった私としては、つい話をしたくなってしまう。祖母もよく植物を育てていたし、家庭菜園をしていた。そのときに聞いたのだ。世間話と変わらない。いつか子どもができたときに、知っておいて損はないだろう、と。そのときまでこのマンションに住んでいるかどうかはわからないが、部屋も環境も住人も気に入っている。家賃も安くしてくれたし、住めるあいだはずっと住み続けたいと思っていた。


 エレベータで室井さんとは一緒にならなかった。エントランスで少し待ていると、室井さんがやってきた。


「お待たせしてすみません!」

「いえいえ、全然ですよ。じゃあ、行きましょうか。ここからすぐなので」

「はい!」


 カフェまでの時間……は、五分もかからない。本当にすぐ近くなのだ。私が引っ越してくる前からあるようだが、なかなか見た目も楽しめて美味しいケーキが食べられるし、紅茶やコーヒーの種類も豊富だ。テイクアウトもできるし、私はよく会社帰りに飲み物を買って帰る。夜遅くにカフェインは良くないだろうが、つい飲みたくなってしまうのだ。カフェイン中毒かもしれない。


「私はアイスカフェラテと、季節のタルトをお願いします」

「えーっと……ミニケーキのプレートに、みかんジュースをお願いします」

「かしこまりました。メニューおさげしますね」


 閉じたメニューを店員さんへ渡す。


「……私、甘いもの大好きなんですよ。だから、こういうちょっとずつ色んなケーキが食べられるのに目がなくて」

「わかります! 私もそのプレート、結構頼むんですよね。フルーツも好きだから、今日はタルトにしました」

「あ、あの、弓削さんっておいくつなんですか? 私は二十六です」

「私も二十六です! 同い年ですかね?」

「八月が誕生日なので、去年二十六になりました」

「私は六月なので、やっぱり同じですね」

「よかった! 友達もいないし、始めて来る土地なので、もう本当に、不安しかなくて……」

「わかります! ……あ、敬語なくしません? 同い年だし……」

「……良いのかな?」

「もちろん! みんな私のことシオって呼ぶから、良かったら室井さんも」

「じゃあ、シオちゃんで。私は砂苗ちゃんが多いかな……」

「それなら砂苗ちゃんで! 改めてよろしくね」

「うん、よろしく!」


 同い年の友人ができるのはとても嬉しい。砂苗ちゃんも笑ってくれている。


 私たちはケーキを食べながら、いろんなことを話した。主に砂苗ちゃんが前に住んでいたところや、勤めていた会社や仕事の話だった。それからお互いの夫の話をした。悲しきかな前ほど熱意をもってあお君の話はできない。だってもう、夫でなくなってしまうかもしれないから。


「……そっか、旦那さんは年上なんだね。休日も忙しいの?」

「今日はちょっと、遊びに行ってるだけ。でも、確かに仕事は結構忙しいかな。帰りが遅い日も多いし、会社関係の飲み会も多いし。たまに出張もあるし」

「そっか、大変なんだね」

「ま、ひとりで気楽に過ごせる日も多い……って考えたら、そんなに苦じゃないかな」

「シオちゃん強い! 私も今家にいるけど、ついこのあいだまで仕事してたから、なんだか手持無沙汰って言うか、退屈って言うか。ほら、旦那は仕事でいないし、知り合いもいないから会える人もいないし」

「まだ年度末じゃないのに、変な時期に転勤になったよね?」

「そうなんだよね。急に転勤って言われてビックリしたよ。……本当はさ、仕事辞めたくなかったんだよね。職場にも仕事内容にも不満はなかったし、自分ではあんまり専業主婦ってガラじゃないと思ってたから、単身赴任でも良いかなって思ってたんだけど」

「単身赴任の選択肢もあったんだね」

「家賃補助とか手当も出るし、それでも良いかなって私は思ったんだけど。夫は全然そのつもりなかったみたい」

「正社員でフルタイムでしょ? それで不満もなかったら、もったいないって思っちゃうよね」

「そうなの。大きな仕事も補佐だけどできるようになってきたところだったし、子どものこと考えて、働いてた会社なら絶対育休とって復帰できたしさ」


 砂苗ちゃんはすごく不満そうな顔をしている。


「子どもがいたら、旦那も単身赴任の選択肢取ってくれたのかもしれないけど。……ちょっとね、躊躇っちゃうよね」

「勝手に決めちゃうから?」

「そうそう。一個一個は微々たるものかもしれないし、他の人は気にならないのかもしれないけど。私気になっちゃうタイプでさ」

「私もそうかもしれない! もう少し相談したい……とかあるよね」

「それそれ。はーあ。パートしようかな? 越して来たばかりだから、慣れてからだけど」

「良いと思うよ! 慣れないこと重ねるより、落ち着いてからのほうが良いよね。負担も少ないだろうし」

「環境の変化ってちょっと苦手で」

「私も得意じゃない。すごく緊張するし。……あ、ごめん、渡すの忘れてた!」

「えっ?」


 私は書いて鞄にしまったままになっていた、砂苗ちゃん用のメモを渡した。


「一応、ゴミ出し以外に近所のスーパーとか病院、町内会についても書いておいたから。他に知りたいことがあったら、kicca送って? 仕事中は返せないこともあるけど、休憩時間に返すし!」

「ありがとう!」

「どういたしまして! ……今日夫遊びに行ってて良かったかも。そうじゃなかったら、あいさつして終わりだった気がする」

「私も! ……最近仕事が特に忙しいのか、異動でいろいろあるのか、ピリピリしてるからさぁ……。息詰まっちゃって。……って、こんな話するのもあれだよね。ごめん!」

「え、良いよ? 溜め込むより全然良くない? 私も嫌なことあったら話しちゃうかもしれないし」

「そう? そう言ってもらえると嬉しいな」


 私はあお君の浮気の話を口に出しかけてやめた。いくらなんでも、初対面の人間に話すべきではない。おいおい離したくなるときは来るだろうが、今はギュッと口をつぐんだ。

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