Drop.002『 Recipe choice〈Ⅱ〉』
それだけの日々が過ぎ去っても、店にあの男からの連絡が入る事はなかった。
瑠璃色の忘れ物が店に滞在する事になった当時。
流石に翌日には連絡がくるだろうと思っていた桔流は、それから一週間も連絡がない事にしばし動揺した。
しかし、それから更に数日が経過したある日。
あのクロヒョウ族の男は、何の前触れもなく、再び桔流達のバーを訪れた。
― Drop.002『 Recipe choice〈Ⅱ〉』―
休憩を終え、一度フロアに出た桔流は、早々にスタッフエリアへ引き返すと、その足で事務所に向かった。
ドアのノックすると、事務所内からは
桔流は、それに応じて足早に入室するなり法雨に言う。
「――あの、法雨さん」
「アラ。どうしたの?」
その様子から急用と判じた法雨は、穏やかながらも手早く応じた。
桔流は、そんな法雨に声量を抑えつつ要件を告げる。
「実は、この前の――“指輪を忘れたお客様”がいらっしゃってて」
あの瑠璃色の忘れ物の中身が本当に指輪なのか――。
それは、未だはっきりしていなかった。
しかし、バーのスタッフ全員が認識しやすいよう、その瑠璃色は、あの日から“指輪”という通称を与えられ、今日まで大切に保管されてきた。
そんな“指輪”の忘れ主が、今しがた、ようやっと現れたのである。
その事実を知らされた法雨は、
「まぁ」
と言って眉を上げると、すっと腰を上げた。
そして、忘れ物専用の保管棚から例の瑠璃色を丁寧に取り出すと、それを桔流に手渡しながら言った。
「はい。じゃあこれ。――まずは、こちらが本当にお客様のお忘れになったお品かどうか――から、確認してらっしゃい。――それで、もし間違いないなら、そのままお返しして差し上げて」
手渡された瑠璃色は、保管中に汚れたりせぬよう、紙袋全体がすっぽりと入るほどのビニール袋に収められていた。
桔流は、そんな瑠璃色を優しく受け取ると、
「はい」
と、静かに頷き、足早にフロアへと向かった。
フロアに出た桔流は、念のため、カウンター内から今一度あの男の顔と容姿を確認した。
端正な顔立ち、
襟足をやや長めに整えた艶のある黒髪と、左目を覆うように片側だけ前髪を伸ばした印象的な髪型。
高身長でがっしりとした体つきの――、クロヒョウ族の男。
(間違いない。――あの人だ)
男の容姿を一通り確認し、確かにあの男であると確信した桔流は、意を決して男のテーブルへと向かった。
そして、男に丁寧に一礼し、桔流は言う。
「――あの、お客様。大変失礼いたします。少しよろしいでしょうか」
すると、男はきょとんとした様子で、
「――はい」
と言うと、次いで愛想よく微笑み、
「なんでしょう」
と、首を傾げた。
桔流は、そんな男に再び軽く一礼し、続ける。
「恐れ入ります。――実は、こちらのお品についてなのですが……。――私の記憶違いでなければ、こちらは先日、お客様がお忘れになられたお品ではございませんでしょうか」
すると、男はそれに、
「え……?」
と、不思議そうにした。
しかし、次いで桔流の手元に視線を落とし、その瑠璃色の紙袋をはっきりと認識すると、途端に表情を消し、
「あぁ……」
と、無感情に言った。
そして、何かを考えているのか、それから男は黙してしまった。
そんな男の様子に困惑し、桔流は遠慮がちに尋ねる。
「あの、申し訳ございません。――もしかしますと、私の記憶違いでしたでしょうか」
すると、男はハッとした様子で取り繕うような笑顔を被った。
「あぁ、いえ。すみません。記憶違いではないですよ。――確かに、それは自分が忘れた物です」
桔流は、その男の言葉に安堵し、
「左様でございますか」
と、笑んだ。
男はそれに苦笑し、申し訳なさそうに言う。
「ご迷惑をおかけして、すみません」
桔流は、それにも笑顔で応じる。
「いえ。とんでもございません。お渡しできて安心いたしました」
そして、男の忘れた品を保護用のビニール袋から取り出すため、桔流が、
「――少々お待ちください。今、お取り出ししますので」
と続け、綺麗に拭き上げられた近場の椅子に袋を置いた、その時。
そんな桔流に、男が言った。
「――あの」
「はい?」
しばし男に背を向けていた桔流は、その声に応じて振り返る。
男は、それを見計らうようにして、遠慮がちに言った。
「それ。――もし、良かったら、お店の売り上げの足しにして頂けませんか」
「……え?」
予想だにしない男の言葉に、桔流は困惑した。
「ええ……と……。――も、申し訳ございません。お客様。――それは一体どういった……」
桔流の反応を受け、困惑するのも無理はない、といった様子で苦笑すると、男は言う。
「何と言えば良いか……。実は、それ。もう、今の自分には必要のない物なんです。――だから、自分で持って帰るよりも、お金にでも換えて頂ければと思って。――もう、どこにも行く当てがなくなってしまった物だから、せめて、どなたかの役に立つ形で手放したくて。――無理は承知なのですが……、どうか、お願いできませんか」
できるわけがない。
それが、桔流の素直な回答だった。
しかし、桔流は、苦い笑顔の奥に物悲しさを潜ませたその男に対し、これ以上業務的な対応を貫くことはできなかった。
桔流は、密かに息を吐き、開いたビニール袋の口をそっと閉じると、男に向き直る。
そして、心臓がやんわりと締め付けられるような感覚の中、桔流は言った。
「――……かしこまりました。――では、大変畏れながら、お金に――という点はお約束できませんが、改めてこちらでお預かりだけさせて頂く――という形でもよろしいでしょうか」
すると、男は安堵した様子で微笑み、礼を言った。
「――えぇ。大丈夫です。――ありがとう」
肩の荷が下りた――。
そんな心境を物語るような笑顔を見せられては、無理やりに品を返すなど、尚の事できない。
例えそれが、バーのスタッフとしてあるまじき判断だったとしても、桔流は、この男の心を想わずにはいられなかった。
何せ男は、自分では手に負えず、助けが必要だからこそ、桔流に対し、このような無理を言ったに違いないのだから。
これは、男の運命が、こうなるよう仕向けた事なのだ。
――否が応でもそういう流れになる。
法雨の言っていた、手を差し伸べるべき時が、今まさにやってきたのだ。
今の状況をそう判じた桔流は、何となく寂しげに見える瑠璃色を慰めるようにして、そっと抱き上げた。
男とのやりとりを丁寧に終えた後。
桔流は、持ち主のもとに帰れなかった瑠璃色と共に事務所へ戻り、事の次第を法雨に伝えた。
――強引にでも返してらっしゃい……!
事務所に戻るまでの間。
そんなお叱りが飛んでくる事も、桔流は覚悟していた。
しかし、その桔流の覚悟をよそに、実際の法雨は涼しい顔で言った。
「――そう。――じゃあ、このコは、またしばらくお預かりしておきましょ」
そんな法雨に、桔流はやや動揺する。
「い、いいんですかね」
法雨はそれに、穏やかに微笑む。
「大丈夫よ」
そして、不安そうにする桔流から瑠璃色を受け取りながら続ける。
「お客様がそう仰ったのなら、こちらはご希望通り保管しておけばいいの。――それに、必要になったら意地でも返して貰いに来るわ。――だから、心配しないで大丈夫」
「はい……」
桔流は、そんな法雨の言葉に、できれば心から頷きたかった。
だが、できなかった。
もちろん、今回においては、男の気持ちを優先する事はできた。
しかし、今回の件を経た事で、桔流はより一層“あの日”の事を悔やまずにはいられなくなったのだ。
(やっぱり、あの日に俺がもっと早く気付いて、あの日のうちに返す事ができてたら、こんな事にならなかったんじゃ……)
そんな桔流の心境を察したらしい法雨は、思い悩むようにする桔流を前に、静かに苦笑した。
だが、すぐに何かを思い出したかのようにすると、
「あぁ、そうだ。それと、桔流君。――今は納得がいかなくても、これだけは約束してちょうだい」
と言うなり、桔流に向かって人差し指を立てた。
桔流はそれに首を傾げ、
「? なんでしょう?」
と、言った。
法雨は、続ける。
「今後は、お客様自身が話題に出さない限り、忘れ物の話題は出しちゃだめよ」
そんな法雨の言葉を受け、桔流はふと、先ほど自身に向けられた――あの、物悲しさを秘めた男の笑顔を思い出した。
加えて、その後に見せられた、痛みから解放されたかのような笑顔も――。
桔流は、そんな男の心を想い、法雨の言葉を改めて反芻すると、ひとつ思う。
(時間が……いるのかもな……)
そして、その一旦の着地点に辿り着いた桔流は、今度はしっかりと法雨に目線を合わせて言った。
「分かりました。――今後は、こっちからは何も言わないようにします」
すると、法雨は微笑みながら頷いた。
そんな法雨は、次いで自身のデスクを見やる。
そこでは、瑠璃色の贈り物が上品に佇んでいる。
その瑠璃色を、桔流もふと見る。
法雨は、静かに言った。
「往々にしてあるものなのよ。自分の手だけでは、どうにもできない事がね」
桔流は、そんな法雨のこぼした言葉を静かに聞いた。
そして、再び保管棚に優しくしまわれてゆく瑠璃色を見送りながら思う。
(あんなに綺麗にしてもらってここまで来たのに、用無しなんて、可哀想にな……)
法雨の言葉は理解しているつもりだし、納得もしたつもりだ。
無論、自分では、あの瑠璃色を救ってやれない事も、重々承知しているつもりだ。
(分かってる。――分かってるけど、でも……)
そうであっても桔流は、瑠璃色に包まれた、あの――“誰かを幸せにできるはずだったモノ”の無念を、想わずにはいられなかった。
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