甘キ爪
まとめなな
第1章 研究所の残響
正木一徳(まさき かずのり)は、コンクリート打ちっぱなしの外壁が目を引く研究所の正面扉を押し開けた。先端医療技術を志し、ここ数年にわたって多くの研究成果を積み重ねてきた彼は社内でも一定の評価を得ていたが、同時に「詰めの甘さ」でも有名だった。会議の締め切り間近になって焦ったり、実験データの最終チェックを怠ったり、ギリギリのところで粗が出る。けれども不思議なことに、これまで大きなトラブルには発展してこなかった。それどころか、すんでのところで彼が機転を利かせるせいか、結果としてはいつも成功を収めるのだ。会社の同僚たちは「悪運が強い」と半ばあきれ、半ば感心する。
しかし、彼の周囲が抱く「どこか不安定な天才」という印象は、正木自身にも心当たりがあった。過去の些細なミスや、くぐり抜けたトラブルの数々を思い返すたび、自分には何か足りないものがあると感じていた。ただし、それが何なのかははっきりわからない。漠然とした不足感と、求めても埋まらない焦燥が、彼の内面にはうっすらとした影を落としていた。
朝の研究棟はまだ静かだった。奥の実験室から微かな機械音と薬品の匂いが漂ってくるが、人影はまばらだ。正木は白衣を手にしてロッカー室へ向かいながら、昨夜の夢を思い出していた。木々のうねりや、遠くから聞こえる何者かの鳴き声。その正体を確かめようにも、なぜか足が動かなくなる夢だった。胸の奥にいやな圧迫感を覚え、それを無理やり押し殺すように目を覚ましたのを思い出す。たかが夢、と思いながらも、どうにも気が滅入る。自分の人生は、なぜか常にどこかの隙間から冷たい風が吹き込んでくるような感触があるのだ。
そんな取り留めのない思考を抱えたまま研究室へ入ると、すでに望月(もちづき)という同僚の研究員が顕微鏡を覗き込んでいた。彼は正木とほぼ同期入社だが、堅実な性格と精密さを武器に研究を進めるタイプで、「詰めの甘い」正木とは好対照を成す存在だ。
「おはよう、正木。なんだか顔色、悪いぞ。寝不足か?」
望月が振り返ると、正木は苦笑いして白衣を羽織った。夢の話をするのも面倒なので軽く言い繕うと、「ちょっと寝付きが悪かっただけさ」と答える。その一言を聞いて、望月はいつもの調子で口を開く。
「実は、おまえに声をかけようと思ってたんだ。上層部から“新薬の臨床データを取るために地方の山間部でフィールドワークを行う”という案件が降りてきていてな。どうやらおまえが行くことになるらしい。俺も少し手伝う予定だけど、先方は癖のある土地らしいぞ」
フィールドワーク。正木はその言葉にどこか胸がざわつくのを感じる。研究所のラボにこもるより外で動き回るのは苦にならないが、実験室の管理やデータ解析を中途半端に放り投げるのも気にかかった。とはいえ、決まった仕事ならやるしかない。
ほどなくして、廊下に響く足音とともに上司が姿を見せた。スーツ姿に白衣を無理やり羽織ったその様子はややアンバランスだったが、本人はあまり気にしていないらしい。「正木君、ちょっと来てくれないか」と言われ、仕方なく会議室へ向かう。円形テーブルを囲んで座ると、上司は早速用件を切り出した。
「山間部にある小さな村で、よくわからない症状を示す住民が急増している。失踪者も相次いでいるという話だ。原因を調べるために、うちが開発中の薬品や診断システムを試験導入してほしいんだが、地元が妙に閉鎖的でね……。内部で丁寧にコミュニケーションを取りながら調査を進める必要があるんだ。それで、君を選んだんだよ」
上司がそう言うのを聞いて、正木は眉をひそめた。確かに自分は社内でも比較的コミュニケーション能力が高いとされているが、それが“詰めの甘さ”と紙一重でもあるという自覚はある。上司はそれを知っていてあえて彼を送り込もうとしているのか、それとも単に人手不足を埋めるためなのか。いずれにせよ、すでに話は決まっているらしい。
「望月にも話は通してある。調査期間は一応二週間を予定しているが、延びる可能性もある。とにかく住民の協力を得ながら、可能な限り詳細なデータを集めてくれ。失踪の件も合わせて、医療的に何かわかることがあればレポートにまとめてほしい」
正木は曖昧に頷きながら、頭の中で“失踪”という単語が引っかかり続けている。集団失踪や原因不明の行方不明者が出る土地というのは、たいてい噂や迷信がつきまとうものだ。そういった現象を科学的に解明することこそが研究者の腕の見せどころ──そう気合いを入れつつも、彼の胸の内にはやはりうっすらとした不安が宿る。ここでまた自分の“詰め”の悪さが災いしなければいいが、と。
◇◇◇◇◇◇
その日の夕方、正木は街の大型書店を訪れた。地方の伝承や怪奇現象に関する書籍をざっとチェックしておきたいと考えたからだ。医療の専門書ばかりを読み漁ってきた彼にとって、民俗学の棚はやや縁遠い世界だった。神隠しや口裂け女、鬼伝説にまつわる書物の背表紙が並ぶ。どれも荒唐無稽だと一笑に付すのは簡単だが、実際に心霊的な事例が起きていると主張する人々もいる。
適当に何冊か手に取ってページをめくり、興味をそそられる箇所に目を通す。そこには「山深き集落において、しばしば鬼や悪霊が人を連れ去る伝承がある」という記述が散見された。失踪事件は古今東西どこの地域でも起きうるが、山間部は特に“神隠し”や“妖怪”などの言い伝えが強く信じられている場合が多い。正木は眉を顰めながら、こういった民話的な要素が今回の調査でも絡んでくるのだろうか、と半ばうんざりした。現実的には疲れやストレスによる集団ヒステリー、あるいは事件性のある失踪がうやむやにされているだけかもしれない。
だが、薄暗い書店の照明の下でページをめくるうち、正木は妙な既視感に襲われる。そこには「人の心の甘さを嗅ぎつけ、その隙間に入り込む妖怪の話」がいくつも記されていた。たとえば、“耳なし芳一“、“狗賊(くぞく)”や“蛇虫(じゃちゅう)”など、地方ごとに名前や姿は違えど、「詰めの甘い人間を狙う」という共通点があるというのだ。常識的に考えれば滑稽な話だが、なぜか今の彼には、それらの文章が背筋を寒くさせる何かを含んでいるように感じられた。
◇◇◇◇◇◇
調査地へ出発する当日の朝、正木はスーツケースに必要最低限の衣類や資料を詰め込んだ。タブレットやノートパソコン、携帯用の医療キットなども忘れずに。妻の奈緒子は「あまり無理しないようにね」と声をかけてくれるが、その横顔は何となく心配そうだ。正木は「大丈夫。いつもの調査みたいなものさ」と軽く答えつつ、どこか空元気な笑みを浮かべる。内心では、自分の“詰めの甘さ”が仇にならないようにと祈る気持ちだった。
空は澄んだ青。高速道路をしばらく走り、やがて山道を進むにつれ、携帯の電波は徐々に入りにくくなる。望月は仕事の都合で後日合流するとのことで、正木は会社の車で一人、カーナビを頼りに目的の村を目指した。山深い場所に差し掛かるにつれ、鬱蒼と茂る杉や檜が視界を覆い始め、朝日が木々の間から差し込む光景は幻想的だ。やがて、砂利道に入ると、看板もくたびれたものがポツリと立っているだけになる。車一台がやっと通れる幅で、落石注意の標識がやたらと多い。
下手にハンドル操作を誤ると事故を起こしそうな道を、正木は慎重に走り続ける。疲労感が増すにつれ、寝不足のだるさも相まって思考が鈍くなっていくのを感じた。こんな場所で車が故障でもしたらたまったものではない。そんな弱気をかき消すようにラジオをつけてみるが、雑音ばかりで音楽もまともに聴けない。
結局、研究所を出てから数時間、ようやく小さなトンネルを抜けた先に、その村は現れた。車の窓を開けてみると、空気がひんやりしていて、街中の排ガス臭とはまるで違う。だが、どこか重たい湿度が漂うような独特の空気感がある。村の入り口に置かれた古びた石碑には地名が彫られているが、苔だらけで判読しづらい。どうにか「甘――」という文字だけが読める気がしたが、まるで意図的に削り取られたかのようでもある。
◇◇◇◇◇◇
村に着いてすぐ、正木は役場のような建物を探した。だが大通りらしきものは見当たらず、そこら中が狭い路地や傾斜のある道だらけだ。人の気配も少なく、観光地のような賑わいは皆無。少し走ると、ようやく灰色のプレハブ小屋と、それに隣接したやや大きめの建物を見つける。近づくと、入り口に「○○村役場」と小さく表札が掛かっていた。
中へ入ると、薄暗い受付の奥に、中年の男性職員がひとり座っている。正木が研究所の者だと名乗ると、彼は淡々と手続き書類を差し出し、宿泊予定の施設を教えてくれた。必要最低限の言葉しか発しないその態度に、よそ者への警戒が色濃く表れている。失礼なのは承知の上で、正木は村の状況を一通り聞いてみたが、「自分は詳しくは知らない」「仕事が忙しいのであまり対応できない」と、一蹴される。それでもしつこく尋ねると、半ば呆れた様子で「なら長老の伴野(ともの)に話を聞くといい」とだけ教えてくれた。
村の長老。昔からいる村のまとめ役のような立場だろうか。名前を聞くだけだと年配者を想像するが、実際にどんな人物なのかはわからない。正木は粗雑な地図を頼りにして、伴野の家を探し始めることにした。
外に出ると、日差しが強いはずなのに薄暗い雲が広がり、何かが街を覆っているようにも見える。村に一歩足を踏み入れた瞬間から感じているこの息苦しさはいったい何なのか。冷たい湿気の中に、見えない“気配”のようなものが交じり合っているように思えてならない。
◇◇◇◇◇◇
伴野の家は、村の外れに近い場所にあった。藁ぶき屋根の古民家で、庭先には野菜畑と簡素な倉庫が見える。玄関先に立って声をかけると、しばらくしてから重い足取りで老人が姿を現した。白髪まじりの頭に杖をつき、刻まれた深い皺が歳月を物語る。
「なんじゃ。あんた、町から来た研究者とやらか?」
声には隠そうとしない苛立ちが滲んでいたが、その目は鋭く、ただならぬ威圧感をもっている。正木は姿勢を正し、失礼のないように自己紹介し、役場で伴野に話を聞くといいと言われた旨を伝えた。すると伴野は小さく鼻を鳴らすような仕草を見せ、「ああ、役場のもんは自分じゃ動かんくせに、こういうときだけワシに押しつけるんじゃ」とぼやいた。
伴野の家の奥、薄暗い座敷に通されると、古い箪笥や仏壇が置かれている。畳の上にはまばらに敷かれた座布団。正木が腰を下ろすと、伴野は続けるように口を開く。
「なんでも町じゃ、わしらが“呪い”だなんだと言って騒いでいると聞いておる。だがな、呪いだろうが病気だろうが、失踪して戻らん者がおるのは事実じゃ。中には若い奴もいるし、隣村の連中も巻き込まれたって話だ。人の心の弱さに入り込む“何か”があると、わしは思っとる」
その言い方は曖昧だったが、正木には伝承や迷信の類を信じているように感じられた。学術的な立場からすれば、何らかの合理的説明がつくはずだが、伴野の眼光にはそう言い切れない説得力がある。たとえば山奥で自然災害が起きたり、犯罪が絡んでいる可能性もある。だが、彼の言う「人の心の弱さ」という言葉は、まるで正木の胸を抉るように響いた。
「もしや、あんたも“心の隙”を抱えておるんじゃないか? まあ、大抵の人間は何かしらあるもんだがのう」
唐突に伴野がそう言ったとき、正木は背中に冷たいものが走った。図星を突かれた感覚があり、言葉に詰まる。伴野は答えを待たないまま、ふいと目線を逸らし、外を眺めながらぽつりとつぶやいた。
「山の神社の倉に古い書物がある。そこには“甘キ爪”と呼ばれるモノの話が書かれておるそうじゃ。村の者でも詳しく見たことはないが、きっとわしらが抱える問題と無関係ではないはず。あんたがそこを調べるというなら、まあ止めはせん」
甘キ爪。正木の胸がざわつく。この地名が「甘」で始まっていたように感じたのも、何か関連があるのだろうか。しかし、迷信臭い話をまともに信じるつもりはない。それでも、あえて知らんふりをするほど彼は鈍感ではなかった。村に流れる不穏な空気。伴野の発する鬼気迫るオーラ。そして何よりも、彼自身の心に巣くう「詰めの甘さ」への自覚。すべてが合わさって、得体の知れない予感が膨れ上がっていく。
◇◇◇◇◇◇
伴野の家を後にし、村はずれの簡素な宿泊所へ案内された正木は、部屋に荷をほどいて落ち着くと、ようやくこの村の全貌を把握し始めた。人口は高齢者が多く、若い世代はほとんど街へ出て行ったと聞く。確かに通りを歩いているのも老人や中年が中心で、子どもの姿はまったく見当たらない。保育施設や学校がないのかもしれない。
室内は最低限のベッドと机、そして曇ったガラス窓があるだけという殺風景な空間。暖房器具は小型の電気ストーブで、壁に貼られた古いポスターが黄ばんでいる。カーテンを開けると、庭先には手入れの行き届いていない雑草が伸び放題だ。外の空気はひどく冷たく、吐く息が白くなるほどの寒さだった。車での長時間移動の疲れと相まって、正木は肩が凝り始めるのを感じる。
すぐにでも寝転がりたい気分だったが、彼はまず手元のノートPCを起動して簡単なメモを取り始めた。村の第一印象、伴野の話、そして「甘キ爪」なる存在のこと。自分自身が感じる漠然とした不安を言語化するのは難しいが、あとで振り返るときに役に立つだろう。書いているうちに、村全体がまるで巨大な迷路のような錯覚に陥っていることに気づく。名もなき路地が縦横に伸び、人を迷い込ませるには十分な入り組み方。まさに“神隠し”が起きそうな環境だ。
メモを一通り終えた正木は、外の様子を見に行こうと宿を出る。夕暮れが近づいていたが、村は昼間以上に寂静としている。まばらな人影が足早に家へ帰るのか、誰も彼もが視線を合わせようとしない。まるで何かに怯えているようにも見えるし、よそ者を歓迎しないという無言の圧力を発しているようにも思われた。
◇◇◇◇◇◇
足を運ぶままに散策していると、森の際にひっそりと建つ古い神社が姿を見せた。苔むした鳥居と割れた石段。神社の本殿も板が朽ち始めており、長いこと手入れがされていないことがわかる。辺りは人通りもなく、枯れ葉が足元でカサコソと音を立てた。正木が少し近づいてみると、建物の脇に倉のような小屋があるのがわかった。もしかすると、伴野が言っていた古い書物というのは、ここに保管されているのかもしれない。
扉は錆びついた大きな鎖で閉じられており、簡単には入れそうにない。しかし、正木は隙間から中を覗こうと体をかがめる。埃まみれの暗闇の奥に、何やら箱のようなものが積まれているのが見えた。ここに本当に“甘キ爪”の記録があるのだろうか。もしそうだとして、自分はそれを読み解く覚悟があるのだろうか──そんな疑問が浮かぶ。伝承や昔話の類であれば、学術的には参考程度かもしれない。だが、この村の現状は、それでは説明できない“不気味な何か”をはらんでいるように思えてならない。
周囲をぐるりと回ってみたが、どこにも管理者らしき人の姿はなかった。ここで騒ぎを起こしては逆効果だろうし、仕方なく正木は立ち去ることにした。
神社を後にするとき、背中のほうでガサリと枯れ葉を踏む音が聞こえた。獣か、あるいは人か。正木が振り返っても何もいない。ただ静寂と薄暗い木立があるだけ。まるで彼を監視するような視線だけが、そこに確かに存在するかのように感じられた。
◇◇◇◇◇◇
宿に戻った正木は、あらためてこの村での調査スケジュールを立てようと資料に目を通した。失踪事件の年表を見ると、数年前から急激に行方不明者が増えているのがわかる。そのほとんどが未解決で、警察の捜索でもほとんど成果が得られなかったらしい。村人の協力が得られなかったのか、それとも単に山が広すぎて捜索が難航したのか。医学的に言えば、妄想や幻覚による失踪、あるいは投身自殺なども考えられるが、あまりにも件数が多い。
さらに読み進めると、中には「突然、訳もわからず飛び出して行った」「急に別人のようになった」と証言する人もいるようだ。これが単なる精神疾患であれば、短期間でここまで大人数が同じような行動を取るのは不自然だと正木は思う。ストレス性のヒステリーや集団パニックと断定するのは、まだ早すぎる。
パソコンを閉じたとき、部屋の狭さと息苦しさが急に押し寄せてきた。窓を開けてみると、夜の冷気が一気に流れ込む。風は強く、隙間風がけたたましい音を立てる。ふと、村の遠方にかすかな灯が見えた。夜の闇を縫うように、まるで人の形をした影が動いているような気配がある。だが、光は一瞬揺らめいたかと思うと消えてしまい、あたりは再び深い夜の帳に包まれた。
正木は胸の鼓動が妙に早いのを感じながら、深呼吸を試みる。ここ数年で培った理論的思考では割り切れない、まるで“何か”が自分を侵食してきているような感覚がある。この村はただの山間集落ではない。失踪事件や奇病だけでなく、土着の信仰や伝承が混ざり合った闇が広がっている──そんな予感が、理性よりも先に彼の感覚を支配しようとしていた。
◇◇◇◇◇◇
その夜、正木はまともに眠れなかった。何度まぶたを閉じても、森の奥から響く足音や、倉の隙間から覗く無数の目が脳裏にちらつく。人の心の“甘さ”に入り込む“何か”の存在を、伴野の言葉が思い起こさせるたびに、自分の過去のミスが走馬灯のようによみがえる。あのときもっと細心の注意を払っていれば──あの研究で最後のデータをきちんとチェックしていれば──詰めの甘さが取り返しのつかない事態を生むのでは、と恐怖が膨れ上がる。
まるで、すぐ背後に忍び寄ってくる“怪物”のようなイメージが離れない。そんな妄想めいた焦燥感を振り払うため、深夜にもかかわらず懐中電灯を手にして外へ出た。
村の通りは夜更けとあって人影がなく、か細い街灯がところどころにあるだけだ。闇は深く、正木が歩を進めるたびに自分の呼吸や足音がやけに大きく耳に響く。まるで誰かにつけ回されているような感覚に捉われ、何度も背後を振り返ってしまう。もちろん、そこには誰もいない。いや、いないはずなのだが、どうにも視線を感じてならない。
やがて、何もない空き地のような場所にたどり着いた。薄暗い街灯の下に立ちすくむ正木。と、そのとき、遠くのほうから誰かが歩く音が聞こえた気がする。ザッ、ザッ、と土を踏む足音。だが、そのリズムは奇妙にゆっくりで、何かが地面を引きずるようにも聞こえる。思わず懐中電灯であたりを照らすが、そこには何の人影もない。ただ、山の輪郭だけが黒々と夜空に浮かんで見える。
心臓がバクバクと鳴り止まない。こんな時間に何をしているのか、冷静に考えれば、ただ不安を増幅させているだけだとわかる。しかし、部屋にじっとこもっていても落ち着かない。それだけ、この村には異様な重圧感が漂っているのだ。正木は暗闇の中でしばし立ち尽くし、ついに恐怖に耐えきれず宿へと引き返した。
◇◇◇◇◇◇
布団に潜り込んでもなお、外の風が家屋の隙間を鳴らす音が神経を逆撫でする。薄い壁越しに聞こえるかすかな音は、風なのか、あるいは何者かが軒先を通り過ぎているのか。頭を振り、そんな不安を振り払うように目を閉じる。
やがて浅い眠りに落ちた正木の意識に、再び昨夜と同じような夢が忍び寄った。暗い森に立つ彼の周囲を、何か大きな気配がぐるりと囲んでいる。見ようとしても何も見えないが、巨大な“爪”が闇の中を蠢いているような感覚だけがある。そして、その“爪”が自分の心の奥にある隙間を抉るように差し込んでくる──そんな悪夢だった。
うなされて目を覚ましたとき、窓の外からはすでに朝日が差し込みつつあった。隣の部屋がどうやら物音を立て始めているようで、宿のスタッフが掃除に入っているのかもしれない。正木は苦い汗を拭い、布団から起き上がる。結局、ひどく疲れたまま朝を迎えてしまった。
新たな一日が始まったというのに、この村に来てからの一連の出来事は、正木を精神的に消耗させるばかりだった。だが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。行方不明者や原因不明の症状を調べるという任務は当然継続していかなければならないし、“甘キ爪”と呼ばれる謎の存在も突き止める必要があるだろう。
少なくとも今のところ、正木はまだ自分の“詰めの甘さ”が致命的な結果を招いたわけではない。しかし、その甘さは、まるで鋭利な刃のように後ろから忍び寄っている感覚がある。この村の闇と、それを形作る何らかの怨念めいた力は、まさにそうした人間の弱みを嗅ぎつけ、喰らいつこうとしているのではないか。漠然とした恐れが、彼の胸の底にわだかまりをつくっていた。
やがて、外では鳥の鳴き声が聞こえ始める。朝の村は静かだが、どこか歪んだ空気が漂っている。これから先、正木がどんな恐怖と対峙することになるのか。まだ彼自身、はっきりとは想像しきれていない。ただ、ひとつだけ言えるのは、この村での調査は容易ではないということ。そして、自分が迂闊に構えている限り、取り返しのつかないほど大きな代償を払う可能性がある。
荷支度を整えながら、正木は表情を引き締めた。再び村を歩き回り、できるだけ多くの住民から話を聞いてみよう。神社の倉に保管されているという古文書も気になるが、まずは地元の保健センターや診療所に話を伺うべきだろう。失踪事件や奇妙な症状について、何か手がかりを見つけたい。それが研究者としての理性的な行動の第一歩でもある。
時計を見ると、まだ朝の7時過ぎ。村が本格的に動き出すまで、あと少し時間がある。外へ出ても人通りは少ないだろうが、一刻も早くこの重苦しい空気を振り払いたいという衝動に駆られる。正木は宿の扉を開き、冷たい朝の空気を身体いっぱいに吸い込んだ。ほんの少しだけ、頭が冴えていくのを感じる。
そのとき、かすかに誰かが視線の端をよぎった気がして、思わずそちらを振り向く。だが、そこには誰もいない。ただ、遠くの山肌に朝陽が差し込み、木立の影が濃淡をつくり出しているだけだった。それなのに、まるで陰の中に何かが潜み、こちらを眺めているような錯覚に襲われる。まるで、何かが自分の“詰めの甘さ”を嗤っているかのように。
正木は軽く身震いしながら宿を出た。これから始まる本格的な調査が、どんな終わりを迎えるのかはわからない。ただ、目の前に迫りつつある闇は、いつもより一段と深く感じられる。あの悪夢の中で感じた“爪”の感触が現実になるとき、自分は果たして生きて帰れるのか。そんな漠然とした不安が、意外にも彼の中で熱い決意へと変わりつつあった。逃げずに向き合おう。そう心のどこかで誓いながら、正木は一歩を踏み出す。
──そして、それが、すべての始まりだった。
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