2章「バドミントンにホームランはない」
1
週が明けてもなお、放課後の空は梅雨らしい雲に覆われていた。
雨の日は吹奏楽部がうるさい気がする。
そんなボーだかブーだか響いている音がいつも以上に気になってしまうのは、私が極めて緩慢に廊下を歩いているからだ。
久原に負けて、ライオン岩の前で突き飛ばされてから、最初の練習。
このままではいけない。このまま当たり前のように部活を続けるだけではまた悔しい思いをしてしまう。
だからといって練習を休むのが何かの解決法だという気もしない。そう思って体育館へ向かおうとするも、何か足が重い。
放課後のクラスの掃除当番を忘れて部活に向かって呼び戻されてしまうこともあるぐらい一直線に走っていた体育館。今日は掃除当番もなかったから、結局むしろ早めに着いてしまった。
更衣室に入るとちょうど黒木が着替えをしていて、思わず二度見してしまう。
スレンダーな体型に似合う慎ましいブラは別にいいとして、驚いたのはその下だった。
バキバキに腹筋が割れている。
不思議なことではない。腹筋なら私もそれなりに割れている。そもそも腹直筋は縦横の腱で区切られて元々6〜8個に割れているものであり、それが皮膚の上から見えるかどうかは筋肉の発達具合以外に皮下脂肪の少なさも関係している。
だから痩せ型の黒木の腹筋が割れているのは不思議なことではないが、しかし何か威圧感というか、気迫のこもったもののように感じられて、思わずひるむ。
「おつかれさまです」
黒木がこちらに気付いて起伏のない挨拶をするころには、腹筋はピンクのユニフォームの下に隠れた。
「……ダブルス、これからよろしく」
新しいパートナーに、できるだけ明るく声を掛ける。
このあいだ久原が麗を指名したので、私と麗のペアは解消になった。私は真希を指名することもできたが、なんとなく気が進まないので黒木を選んだ。真希はどちらかと言うとシングルスタイプなので、団体戦でも
そんなことを考えて選んだ黒木だったが、何やら口を真一文字に結んでいる。
訝しげに思っていると、黒木は制服を畳みながら息を吐いて、静かに呟いた。
「そういうの、大丈夫なんで」
◆
「ファイトー! セイ!」
「ハイ!」
閉め切った体育館に真希の掛け声が響き、続いて全員の斉唱が響く。真希の後ろに続いてぞろぞろ、ドタドタ、ぐるぐると走る。
窓から光が入ればシャトルが見えなくなるし、風が入ればシャトルの軌道が逸れる。だから梅雨どきだろうが真夏だろうが真冬だろうが、体育館の窓とカーテンは閉めて練習するのがバドミントンだ。相席する他の部活には申し訳ないが。
暑さと湿気で耳がぼうっとする中、思考は黒木の言葉を反芻していた。
『そういうの、大丈夫なんで』
どういう意味かさっぱりわからない。
ダブルスよろしく、に対して『大丈夫なんで』。どういうことだろう。『先輩、よろしくお願いします!』ぐらい言ってくれるかと思ったし、その語尾には喜びすら含まれていてほしかった。こっちとしても麗・久原ペアに勝ってやり返したいので、黒木との新ペアで心機一転、頑張りたかった気持ちがある。
ちりちりと胸に反響する雑音に耳を澄ますと、自分がショックを受けているのがわかった。
人間の感情の振れ幅みたいなものに触れるといつもこういう気持ちになる。朴訥な黒木と、明るく戯れる黒木と、厚美とこっそりキスしていた黒木と、私に冷たい目を向けた黒木。どれが本当の黒木なんだ。久原もそうだ。ニヤニヤヘラヘラしていた久原と、泣きながら怒っていた久原。これから久原という人間をどう解釈すればいいのか。
私は怒ったり泣いたり笑ったりあまりしないから、そういうものが全くわからなかった。どう対処すればいいのかも、わからない。
◆
アップとノック練を終えると、早速ゲーム形式の練習に入った。
麗・久原ペアと私・黒木ペアの、新生ペア対決。
まずサーブを打ったのは久原だった。
ネットからほとんど浮かない、隙のないショートサーブ。叩けないので仕方なくドライブ気味のロブで返すと、久原の後ろに構えていた麗が綺麗に横っ跳びし、私と黒木のちょうど間の地点に鋭いスマッシュを叩き込んだ。
麗、こんな後衛もできたのか。
いざ敵になってみるとその強力さに驚く。私と組んでいたときの麗は前衛になることが多かったが、久原と麗で組むなら久原の方が背が低いので、麗は後衛が基本になる。なので飛び付いてスマッシュを打つのは定石通りなのだが、あそこまでしっかりコートカバーして強いショットを打っていけるイメージは麗になかった。
——麗、気合い入ってる?
無表情から漂う空気を嗅ぎ分けきる前に、また久原からサーブが放たれる。
黒木がハーフに落とそうとして久原に捕まり、ドライブを食らう。
私が後ろに回ってカバーし、バックハンドで何とかクリアするが、それを待ち構えていた麗にスマッシュを打たれた。
押されながらもレシーブするが、飛距離の足りない球は久原に捕まり、スマッシュを打たれる。またもや私と黒木の中間地点に打ち込まれ、お互いのラケットがガシャン、とかち合ってラリーが終わりを告げる。
「すみません」
「ごめん」
こちらが気まずくなっている間にも、麗と久原は一言二言交わしながらレシーブ位置を確認していた。
「21-16」
結局その後、1点しか取り返せずに負けた。
最後のドロップがこちらのコートに落ちたとき、麗と久原はどちらからともなく左手を挙げて、軽くハイタッチを交わしていた。
◆
道端の空き缶でも蹴っ飛ばそうとしたが、駐輪場へ向かう道に空き缶は落ちていなかった。
……なんだってんだよ。
何だか最近、説明のつかない気持ちになることが多い気がする。
今日も、ショートゲームで完敗したことや麗の後衛が上手かったこと、久原がダブルスもそこそこできていたこと、とか色々情報が混んでいる中で、特にフラッシュバックするのは麗と久原がハイタッチする光景だった。
何か悪いものでも食べたかのように胸の下がつっかえて寒くなる。
あいつら、なんなら裏でハイタッチ以上のことまでしてるんじゃないか——?
いや、なんだそれ。自らの発想の気持ち悪さに、ぶるっと身震いする。
まだ気になることがある。黒木の『大丈夫なんで』という言葉だ。何が大丈夫なんだろうか? それも胸の中にほどけない糸くずとして残っていた。
駐輪場に着き、自分の自転車にまたがる。
ハンドルを握る感覚に何かを思い出し、ふと手を見た。
久原に付けられた手のひらの擦り傷が、見てもわからない程に治っていた。
薄暮の下、じっと目を凝らして痕跡を探す。でも、どれだけ見ても生命線やらなんちゃら線やらしか見つからない。
その時、遠くから走ってくる足音に気付いた。
「先輩」
声に振り向くと、まだユニフォームのまま駆けてきた黒木だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます