第2話 俺には、MURIGEしかないんです
「俺には、MURIGEしかないんです」
マイクを向けられた桧山は泣いていた。あと数秒もあれば完全制覇だったのに、栄光はその手をすり抜けていった。
今でも忘れることの出来ない悪夢。明日は決戦の日なのに、縁起でもない夢で目を覚ました。
「最悪や」
スマホを見ると、まだ朝の4時だった。今から起きていては本番で疲れ果ててしまう。桧山はまた眠りに就くことにした。
目を閉じると、今までの大会が走馬灯のように流れてくる。
MURIGE――それは、テレビ局の企画から生まれた巨大なアスレチックで、アクションゲームさながらに障害物を乗り越えてゴールを目指す。
巨大な丸太にしがみついてグルグルと回ったり、鉄パイプを掴んで空中に浮いているレールを滑り降りたり、反り立っている巨大な壁を乗り越えていくものもある。
どれも常人にはクリアの難しい障壁となるが、MURIGEに出て来る猛者たちは血の滲むようなトレーニングを積んできて、これらの障害を乗り越えていく。そのさまはまさに忍者のようだった。
だが、暗黒の魔城とも呼ばれる悪魔のステージは頼まれてもいないのに年々難しさが増していく。それは完全制覇者が出ようが出まいが同じことだった。「完全制覇者がいなかったのに、またMURIGEが第3ステージを難しくした」と揶揄とからかいの混じった声がネットで溢れる現象も一部では年末の風物詩とされている。
ゆえに5年に一度完全制覇が出ればいい方で、大抵の年は完全制覇者が一人も出ずに大会終了を迎える。夢も希望もないように見えるが、それでも時々出て来る完全制覇者を見たくて、毎年何人もの視聴者がこの番組へ釘付けになる。
賞金も出るが、費用対効果を考えるとまったく割に合わない。頂を目指す者たちは、金でも名誉でもなく、己の限界を超えた先を見るために挑戦していく。
そんな過酷なアスレチックゲームに当初から参戦していたのが桧山正巳だった。
社会人野球からドラフトでプロへと行くも、キャリア序盤で監督と衝突を繰り返しては干され、静かに球界を去って行った。
これといった技能もなく、学歴も並だった桧山はかつて自分のいた球場でビールの売り子をするという屈辱的な立場でくすぶっていた。
そんなところに黎明期のMURIGEの参加依頼があり、遊び半分でMURIGEデビューした。楽勝だと思っていた第1ステージであっけなく水に落ち、桧山の闘争心に火が点いた。
自宅にMURIGEの各ステージを再現したセットを作ると、周囲から奇異な目を向けられても気にせずにハードワークをこなした。その結果、次の大会では第3ステージまで行くことが出来た。
オリンピック候補などの強豪がひしめく大会へ突如現れたダークホース。人々は桧山の存在に熱狂した。誰もが口々に言った。最初に完全制覇を成し遂げるのは桧山で間違いないと。
――だが、運命の女神は残酷だった。
誰よりも努力し、文字通り血の滲むようなトレーニングを積んできた桧山は、あと少しのところで栄光を取り逃していった。
ある時は豪雨でセットが滑りやすくなっており、ある時はセットの故障でステージが機能せずに桧山は年末の冷たい水へと落ちていった。
すぐそこだと言われていたのに届かない栄光。自分の夢に誠実であり過ぎたために、付いていけなくなった家族は出ていった。一人で飯を炊き、一人でMURIGEセットのメンテナンスをして、トレーニングで怪我をすれば誰の介助も受けずに病院へと行った。
そんな努力が実ったのか、何度かの辛酸を舐めたのちにファイナルステージへとやって来た。
ファイナルステージはシンプルで、制限時間以内に一本の綱を巨大なセットの頂上まで登る、蜘蛛の糸と呼ばれるものだった。
過酷すぎる第3ステージで握力を使い果たし、極度の減量で疲労困憊の桧山は自身の体に鞭打って揺れる綱を登っていった。
もう無理かと思っていた割に、本能で体がどんどん上に進んでいく。少なくなった残り時間を知らせるカウントが会場に響く。真冬の会場には、悲鳴にも近い応援が響いている。
あと少し、あと少しだ――
手の感覚はなくなり、目の前に広がる景色はまるで現実ではない世界にいるようだった。
応援に後押しされ、頂上のパネルに手を伸ばす。ボタンは見えていないが、見えるようになってからでは遅い。天板に矢印が付いていたので、そこへ向かって手を伸ばした。
全力でボタンらしきでっぱりを叩く。
やった、完全制覇だ――
失格になれば、自身を吊るすハーネスがバンジージャンプのように緩むはずだった。そうはならず、桧山は空中に浮いていた。ということは、アウトにはならなかったはず――
だが、それならどうして自身を祝福するような音楽や実況が流れないのか。その理由を理解したくないが、薄ら分かっているのも事実だった。
――桧山がボタンを押したのは、コンマ数秒だけ時間切れの後だった。
ハーネスが落ちなかったのは、あまりにきわどいタイミングだったから機械が反応出来なかっただけの話だった。
あまりに不運な結末に、桧山だけでなく会場の誰もが声を失った。もう、完全制覇でいいじゃないか――誰もがそんな言葉を口にしそうになり、悔しさとともに呑み込んだ。
だが、失格は失格だ。
桧山の挑戦はわずかに届かなかった。
頂上で完全制覇を待っていたインタビュアーが、想定外の展開にどんな声をかけていいのか分からないようだった。それでもプロの矜持か、桧山をねぎらい、今の気持ちをそれとなく引き出していく。
頂上に立つ桧山は、魂の抜けたような顔をしていた。目の前に広がる絶景。それは本来、完全制覇をした者だけが見られる光景のはずだった。
「非常につらいお気持ちかと思いますが、桧山さんはこの現実をどう受け止めていますか?」
地獄のような空気で、インタビュアーが自身の職務を全うする。完全に止まっていた時が、かすかに動きはじめる。
桧山は茫洋とした闇をみつめながら、なんとか言葉をひり出す。
「一つだけ言える事があります」
頂上付近に冷たい風が吹く。吐く息は白く、温まった筋肉から、あっという間に熱を奪っていく。
「俺には、MURIGEしかないんです」
そう言った途端に、涙が溢れてきた。
自分の一言がきっかけで、それまで抑え込んでいた感情が押し寄せて来る。
――悔しい。ただ、その一言に尽きる。
あのボタンをコンマ数秒でも早く押していれば。綱を登る時に足も使った方が早いと少しでも早くに気付いていたら。ボタンがあと数センチでも低ければ。
色々な仮定が過ぎるも、結果は変わらない。
――暗黒の魔城はまだ存在している。誰にも完全制覇されないまま。
分かっているのは、それだけだった。
あと少しで届かなかった夢。それを追いかけて、気付けばずいぶんと年齢を重ねてしまった。今思えば、あれが最後のチャンスだったのかもしれない。
それからというものの、桧山は運命に見放されたかのようなキャリアを辿りはじめる。
第2ステージで慎重になり過ぎて時間切れ。金属チェーンのターザンロープだけで着用を許されている手袋を外し忘れて失格。第1ステージの反り立った壁を越えられずタイムアップ。全盛期からすれば考えられないようなミスで、毎年の年末を締めくくることとなった。
気付けば「完全制覇に一番近い男」と呼ばれた桧山は無冠の帝王ですらなく、第1ステージで珍妙なミスを繰り返しては散っていくネタ枠の選手になっていた。誰でも衰える日はやって来る。だけど、それがいざ自分に起こると素直には受け入れがたいものがあった。
桧山がもたついている間に、完全制覇者も本当に出てきた。桧山よりも苦労して第3ステージをクリアした夏目二郎は、力を使い果たしたと思われていながらもファイナルで火事場の馬鹿力を発揮、あっという間に綱を登り切って完全制覇を果たした。
その後も夏目に続いて完全制覇を成し遂げた人々が出てきた。いずれも5年に一度しかそのような人物が現れなかったが、「誰もクリア出来ない」と言われていた暗黒の魔城を制覇した者が出てきたことは大いに賞賛され、まるで英雄にでもなったかのように讃えられた。
その夏目二郎もとうに引退した。先日には子供が高校生になったと聞く。目の前で玉手箱を開けられたみたいで嫌になった。
俺はあと何回だけ、健康にこの挑戦を続けられるのだろう。そんなことを思うと、ふいに涙腺が緩くなる時がある。俺も年を喰った――何年も前に認めるべきだった事実に、今さらになって打ち負かされそうになる。
――まどろみの中で、頬を伝う感覚。
遠くなった意識が戻ってくる。時計を見ると、もう起きないといけない時間になっていた。
「あかん。遅刻するわ」
計画が起きる時点から狂っている。安定の桧山クオリティ。ポカミスは家を出る前から始まっている。
急いで準備すると、タクシーを使って駅へ急いだ。自家用車で行けないこともないが、自分で運転すれば会場に辿り着くまでに何かが起きることを知っている。俺は運命の女神に見放されている徹底的に。それなら、極力運命の女神と関わらない道を行くしかない。
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