天女が棄てた羽衣㉟

 勢い弱まらぬ暴風に抵抗しながらようやくネオアート劇場に到着した私たちは、場内の異様な雰囲気に不気味な圧倒を覚えた。

 不自然なほど静かなのだ。

 なだれ込むや否や入場口の扉が閉められ再び目貼りがされると、遮音室に監禁されたかのような深閑が建物を支配していた。

 ロビーに集まっていた劇場の人たちは、不安と恐れから皆黙りこくっている。(アイラを起こすのははばかられたため、彼女だけはルビーさんと夢香が付き添いのもと扉を開けた状態の事務室にいるという)

 煙と焦げの臭いは火災発生時よりかは幾分か治まったそうだが、おそらく消火剤と水による独特な臭いがそれらを上書きしている。

 ロビーを見渡しただけでも、確かにいくつかの燃え跡が確認でき、床はびしょ濡れだ。

 明らかに何かを感じているであろうママは、吐き気をこらえるように口元を押さえながら、支配人に問いかけた。

「全員無事みたいでよかったわ。ここに来るまでの間、おかしなことはなかった?」

「はい。あれから火も上がっていません。…何か感じますか?」

 ママは客席に繋がる大扉を一瞥した。

「あっちにいる」

 観音開きの扉は、現在は固く閉じられている。

「それじゃあ」

「当然でしょ。行くしかないんだから」

 ママは一呼吸おくと、迷いなく物々しい扉へと歩み寄った。

「なんかあったじゃない、昔のことわざで。ケツに入れなけりゃ痔にならない、みたいな」

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」

「そうそれ」

 ママとマナブさんはこの期に及んでもとぼけた応酬を披露している。(すぐに訂正できるマナブさんもさることながら、痔にならないなら入らない方がいいのではないかとのツッコミは飲み込んだ)

 私たちも後に続くが、先の事実を受けてか、扉の向こうからは得体の知れない重圧が滲み出ているような気がした。この先には間違いなく"何か"がいるのだ。実体を確認したい気持ちと、行ってはいけないという脳内の警鐘が拮抗する。

 ママが取っ手を両手で掴み、力一杯引き開けた。映画館のドアのようにそれは、ずしりと重い音を立てながらゆっくりと開口した。


「えっ…」

 客席に入った我々は、理解の及ばない光景を目の当たりにしていた。

 会場の中心、盆の上に何かがいる。

 いや、正確には、"中心"でも"何か"でもないレベルだった。

 

「これは…」

 支配人とツネさん、みるくが一斉に息を飲む。

 無論、私たちも。

「何なのこれ。何なんですかあっ」

 みるくが取り乱す寸前の様相で叫んだ。

「"ひとつのもの"に、なろうとしてる」

 ママは対照的な冷静さで呟いた。

「このモヤみたいなやつ。それぞれはゆず葉と同じように、薄弱な霊体よ。これらが集まって、柱みたいな何か巨大な存在の形を成そうとしてるの」

 確かにそれらは中央の"本体"らしき影に吸い寄せられ、今もどんどん巨大化している。

 シルエットは木のような、いや、それよりもずっと私たちに馴染みが深い、まるで……


 それが何なのか、輪郭が鮮明となり姿が判明したと同時、私もみるくもとうとう絶叫した。男性陣も絶句している。

 人間だ。あまりにも大きな裸婦だった。二本の枝に見えていたのは両腕である。盆から上半身が樹立したように生えており、頭は今にも天井に届きそうだ。

 長い黒髪に豊満な乳房。それでいて肌はどす黒く青みがかってさえいるから、美しさは皆無だ。例えるならそれは──────

「腐敗した踊り子ね」

 ママが鼻を鳴らした。

「腐り具合はうちのたけのこといい勝負よ。

 でもあいつは人をいいように操って利を得るなんてしない」

「金山さんはするよ!」

「あがっ!?」

 余計な口出しだったかもしれない

「ルナ子…""ってものを考えなさいよ…で、でもそうね。卑怯さで言えばジジイとどっこいどっこいだわ。大人しくお茶でもいてなさい!」

 当然というか、腐った踊り子はママの啖呵たんかなど耳に入っていない。この世ならざる動きで蠢いている。

 あまりに悍ましくて直視できないが、見覚えのある顔ではなさそうだった。

「この人、誰なの…」

 誰に問うともない虚ろな独り言だったが、ママは見上げながらきっぱりと答えた。

「誰でもないわ。集合体が作り出した、ただの『女性の概念』よ。ストリップ劇場って場所柄、たまたまこんな姿になってるだけ。だけどマズいわね…」

 ママ曰く、水場となり力を強めた無数の霊魂たちは、まさに水を得た魚のごとく跋扈ばっこし、結合することでさらなる暴走を引き起こそうとしているらしい。こうしている今も、靄を象った霊魂たちは巨大な踊り子の細胞として吸収され、膨らみ続けている。現に、盆はすっかり覆い尽くされ、頭は天井を越えようとしていた。

「劇場全体を飲み込もうとしてる。このままだと、になるわ」

「街一つ分!?」

 あまりに現実離れした言葉に私は卒倒する。

 この光景自体、既に非現実的ではあるのだけど。

「そもそも、誰の意思なんですか?火事になるよう仕向けてここを水まみれにして、結合して飲み込もうとするなんて」

「"総意"です」

 私の率直な疑問は、マナブさんが引き取った。

「見た限り、今回のこのパターンは指揮を取っている者がいるわけではない。生物に生存本能があるのと同じように、霊体にも存在を誇示し、力を増長させようとする本能がある。そうでなければとっくに成仏していますからね。この現象はいわば、自然の摂理です」

「そ、それじゃ」

 みるくが色を失った唇で呟く。

「暴走した災厄はここから何をするのですか?」

「形や性質を変えつつも、周りの生きとし生けるものの命を手当たり次第、根こそぎ奪うでしょうね。最悪の事態を防ぐために、本来地下に眠らせていたのでしょうが…とにかく、皆さんは危ないので極力下がっていてください」

「最悪の事態…それがまさに今ってことですか?」

「そうです。あとはママに任せるしかありません」

 後退した私たちが壁際から見守る中、ママはたった一人で怪物と対峙している。恐ろしいほど力の込もった眼差しでめ上げながら一歩も動かない。

 正直、ゆず葉のケースとは全く訳が異なる。こいつと人間では、スケール感は象と蟻ほどに差があるのだ。どうやって祓うつもりなのか。

 怪物の目は黄色く濁り、鈍い光を放っている。洞穴ほらあなのように開いた口元からは鮫の牙めいた歯が覗き、間から液体とも気体ともつかぬ正体不明のどぶ色をした流動物が絶えず溢れ出ている。ママはあの姿に意味がないと言っていたけれど、その形相は怨恨のような感情を錯覚させ、私たちを戦慄させるのに十分だった。

「神田川さん、今すぐそいつをなんとかしてくれよ!早いとこ消しちまってくれ!」

 支配人がたまらず声を荒げた。だがママはふぅと息を吐き、あっさりと却下した。

「ムリ!今のアタイじゃ、こんなデカブツどうにもできないワ」

 ええっ、と絶望の叫びに似た悲鳴が方々から上がる。

「こいつの能力なのか、邪魔が入って、なぜだかアタイの力が抑えられてるみたい。思うように動かせないの。

 一体一体祓っていくのもダメね。この数だと何年もかかっちゃう」

「じゃあどうするつもりなんだ!」

「………わかんない」

 外野は一斉にどよめいた。一縷の望み、頼みの綱であるママの口から出たあまりに淡白なお手上げ宣言。驚きと失望が同時に込み上げた。

 腐った踊り子の動きは緩慢ながらも着実に力の増大を続けている。一度でも腕を薙ぎ払えば、私たちは一瞬にして亡者として彼らの仲間入りを果たすことになるかもしれない。

「……は…を………」

 ママが何やら唱え始めた。除霊用の経文か何かだろうか?

「ほ………は……で………………」

 祝詞のりと、呪文、なんでもいい。あれを弱められるのなら。

「…ずは……おを…………る」

 しきりに指を動かしながらの思案顔。よく聞き取れないが、それはマントラと呼ばれるものよりずっと馴染み深い気がした。

 ノウマクサンマンとかオンバザラソワカとか、そういった類ではない。

「…のおは…ぜで…え…がる」

「み……ほの……けしと…る」

 固唾を飲んで耳を澄ますと、ママは、ただ思慮を繰り返し口に出しているのだと気付いた。普通の現代語だ。

「炎は風で燃え上がる、水は炎を消し止める、ということは……炎は風で燃え上がる、水は炎を消し止める、でしょ、炎は風で燃え上がる、水は炎を消し止める、」

 今までの出来事を統合して整理しつつ、解決策を模索しているらしい。

「じゃあ風は、風は、えーっと…」

 怪物の輪郭が濃度を増してきている。皮膚のどす黒いまだら模様もより鮮明に顕出し、最終形の完成を目前に思わせた。このままでは、"間に合わない"かもしれない…。

「風は炎を、いやダメダメ、風は…風は水を……」

 次の瞬間、ママの顔に閃きが光った。

「そうよ!風は水を、吹き飛ばす」

 ママが叫び出す前に、マナブさんは一足早く動き出した。

 次いでママの指示に、私たちは総出で奔走することとなった。

「風!風を起こすわよ!」

「ママ、そんな力もあるの!?」

 ママはあんぐりと口を開けた。

「バカッ!アタイが天変地異まで操れるワケないでしょッ!霊能者をどんなトンデモ人間だと思ってんの」

 そしてすぐさま気を取り直したように指令を下す。

「劇場のドアと窓を全部開けて!目貼りを剥がして、風を中に引き入れるのよ!」

 理解には一瞬時間がかかった。実際、訳もわからずただ走り出していた。他のみんなも、おろおろしながらただ遂行のために四方八方に散らばって行く。(ツネさんだけは、なぜか地下に向かって駆け込んだ)

 固い目貼りを力一杯引っ張りながらようやく意図を掴むことができた。劇場内の水分を、外からの突風によって散らしてしまうのだ。

 そんなことをして果たして意味があるのか、風が霊体に影響するのか、そんなことを考えている暇はない。私たちは無我夢中で、入場口、楽屋裏口、劇場中のあらゆる窓、それらの目貼りを剥がして開放していった。

 息の止まるような暴風が、タイミングを見計らっていたかのように攻撃的に吹き込んでくる。ガラスが割れる懸念も厭わず、ドアも窓も全開にする。

 何重にも貼られた強力なテープとの格闘をようやく終え、立っていることすら危うい強い追い風を背に受けながら客席へ戻ると、渦巻く気流の中、腐った踊り子は依然として鎮座していた。海藻のような揺らめきを纏いながら、少しだけ輪郭が薄く、体高も低くなっている気がした。…効いている。確かに風に気圧けおされているのだ。いくつかの黒塊が数秒ごとに吹き飛ばされ離散していった。

 だが弱体化には程遠いようだ。客席に届けるべき風としては、まだまだ少ないのかもしれなかった。

「お願いよォ、もう物理攻撃しかないんだってェ」

 ママの口から霊能者にあるまじき発言がほとばしり、私たちが驚愕してゲームオーバーを覚悟した直後、私はこの怪物と目が合ってしまった。先程までうつろだったのに、なぜか私を一点凝視している。

 え?と思う間があったかどうかはわからない。気付けば私は、怪物の左手に握り込まれていた。


 掌と指はそれだけで私の体を悠に超え、首から下がすっぽりと包まれてしまった。実体がないはずなのに、金縛りのように身動きが取れない。人生で感じたことのない不快感が全身に貼り付いている。震え上がることすら許されない戦慄、怖気、本能からの拒否反応。私は死ぬかもしれない。死んでしまうのだ。

 それは握り潰されるという直接的なものではなくて、途端に生きる気力が散失していくような…

「ルナ子!」

 曖昧になった頭にママの声が流れ込んでくる。

 幻聴だろうか?いや、確かにママが叫んでいるのだ。

「やられたわ。アナタは憑依体質だから、真っ先に標的にされたのね」

 空気の澱みは先ほどから肌でひしひしと感じていた。風の効力で多少弱まったとはいえ、それは依然力を持つ瘴気だ。当然、この場にいる人間全員がその影響を受けているはずなのだが、化け物からは誰が最も狙い易いかが一目瞭然だったようだ。かつてのアイラのように。

「とにかく聞いて!ヤツは今、アナタの生命力を肥やしにしようとしてるわ。つまり、そのままだと死ぬってコト!」

 事実、私は理不尽なほどあっさりと怪物の術中にはまっていた。催眠術にかかったかのように、自我が薄れていく感覚と理性の変容を味わいながら、致し方ないと諦める境地にほぼ達している。それでも、あまりに直接的だなぁママは、と苦笑したけれど。

「どうなってる!早くなんとかしろ!」

「いやァっ瑠奈さん、死なないでぇっ」

「………」

 支配人もみるくも喚いている。マナブさんは無言で解決策を模索しているようだ。

 もう心配しないでもいいよ。私、どのみちダメなんでしょ。

「強い感情エネルギーで抵抗して!怒り、恨み、なんでもいいわ!」

 急に言われても、そんなの湧かないよ。

「ああ、ダメよ!無気力になってるでしょ!負けちゃダメなの!ほんとにどんなことでもいいから!神田川ぶっ飛ばすでも、薄野のツルッパゲでも、とにかく強く思って!」

 もう、いいって。薄野さん、最後までネタにされて可哀想だなぁ。

「それじゃエロいこと考えなさい!情欲は人間の中でもトップクラスに強いエネルギーなんだから!」

 またママ、くだらないこと言ってるや。

「マナブ、なんか単語出して」

種付たねづけプレス」

 なんですか?それ。

「そんな上級者向けの用語じゃ伝わんないわよ!ルナ子、最近ヤッたのいつ?」

 最近…って、みんながいる前でそんな恥ずかしいこと。

 もう2ヶ月も前だよ。

 あの時はそう、マッチングアプリで詐欺加工をしていた男に間違って会っちゃって、

 なんとなくお茶して、流れでホテル行っちゃって、

 惰性で付き合うことになっちゃって、

 そいつとまたホテルに行った時、雑でむさぼるような独りよがりの求め方されて、

 それでも無理して頑張って応じたのに、

 終わった途端に疲れたから帰れって言われて、

 あいつ、あんなゴリラ顔のくせに、やることだけやって、私を騙して、欲望の捌け口にして、粗暴に扱って、下手くそのくせに、顔もタイプじゃないのに、いいところなんか一つもなかった、私だって嫌々我慢してた、悔しい、悔しい、悔しい、許せない、あいつ、ふざけんな、許せない、私は、あいつは、あいつだけは、あの野郎、あいつだけは!


 外から吹き込む風が煽ったのか、瘴気がかえって有利な方に作用したのかは定かではないが、私は怒りの炎に身を滾らせていた。

 はっと我に帰ると、既に魔の手は体を離れ、再びただ不気味に揺らめいている。

「よくやったわ!ルナ子!」

 ママが拍手を送っている。あれ、私今まで…?

「何考えてたのか知らないけど、とにかくこの上なく強い感情で弾き飛ばしたわ!

 さぁ、あとはコイツをどう処理するかだけど…」

 風巻の中、肩まで伸びた髪をはためかせながらママが悶々と唇を噛んでいるのが見える。

「まだ、足りないのよねぇ。この程度の風じゃ、奴を吹き飛ばせない。んもぅ、こんだけの暴風だってのに!」

「これ使ってくれ!」

 突如ロビーから響いた声に一同が振り返ると、大きな機械を携えたツネさんが息を切らしていた。

「な、何よ、ソレ?」

 冷蔵庫みたいな箱型の機械から、人の胴体ほどもあるひだ付きの太いホースが伸びている。

「送風機だ!」

 ツネさんが自信満々に答える。

「送風機ィ!?」

「こないだ、地下倉庫を整理してた時に見つけたんだ。近頃はすっかり出番がご無沙汰だったが、一昔前、黄金おうごんショーの時に大活躍した…」

「黄金?」

「ウンコだ!踊り子がウンコをひり出すショーをすると、臭いが籠るってんで、この送風機で空気を劇場の外に逃してたんだよ!」

「おぇぇ、もうやめて。想像したくない…」

 ママは入場以来催していた吐き気を別方面から更に強められたようだった。

 それでも、ゲンナリする余裕があるだけまだ冷静なのだ。

 私たちはただひたすらに、ツネさんの助力に縋り、半ば絶叫で送風を乞うた。

「ツネさん、早く風を出して!」

「今すぐスイッチを入れてくれ!」

 ツネさんはしたり顔でニヤリと笑った。

「おうよ。原因を作ったのが俺なら、責任として後始末の助太刀ぐらいしないとな。待ってろよ!」

 電源コードは既に繋がれており、あとはホースを設置してスイッチをオンにするだけだった。

 昔、実際に何度も駆動させていたのだろう、慣れた手つきでツネさんは驚くほどスムーズにスタンバイを完了させた。

「ホースの前には誰も立つなよ。いくぞ!」

 ツネさんの号令から数秒後、低く唸るモーター音とともに極太のホースから微風が放たれた。かと思えば風の音は徐々に轟音に転じ、夥しい風量が怒涛の勢いで噴射されていることを示していた。

 真っ直ぐに伸びたホースの先────巨大な踊り子を見やると、先程とは比較にならないほどの風の弾丸が直撃していた。

 弾丸は周囲のちりを巻き上げながら踊り子の胸の中心を貫き、文字通り「風穴」を穿っている。

 外から吹き込む暖流と人工的に造り出された激流は渾然一体となって相乗効果を発揮し、目を開けているのも精一杯の竜巻の中を錯覚させた。

 入場口から吹き込んできた自然風はロビーを駆け抜けて客席の人工風と合流する。その過程でさらわれて来たと思しきチラシやビラが夥しい枚数、舞い上がっていた。飛ばされた中には【ローゼン夢香&椿アイラ 合同二周年記念興行】のポスターもあり、一瞬、切ない気持ちが擡げた。

「あっ」途中、けたたましい悲鳴が上がり、続いて私も驚嘆の声を漏らした。白い房の混じった毛髪の塊。支配人のカツラが遥か彼方へと吹き飛んで行ったが、本人以外誰にも気にしている余裕はない。

 再び本丸に目をやる。この集合体は声を発さない。また、実際には人体ではないから、胸を穿ったとてダメージを与えられるかはわからない。

 それでも、明らかに苦悶し、一つ、また一つと霊体の離散が速度を上げていったのが観察できた。外からの風が水分を撫で払っている効果もあるのだろう、黒い靄が離れて行く度に、踊り子は萎んだ風船のように徐々にではあるが小さくなっていく。靄は例えると「驚いたシャボン玉」といった風情で、斜方に急上昇するとそのまま不可視となった。消滅したのか、ただの撤退なのかは不明だ。

 輪郭を強弱させながら、確かに踊り子は縮小に向かっている。今しがた天井に届かんとしていた頭部は、明らかに上との距離を開き始めていた。植物のタイムラプス映像を逆再生したかのような、樹齢の若返りを連想させる光景だった。

 気付けば、床や壁に付着していた水分も、大方乾き始めている。液体が気体へと変質し、蛞蝓なめくじの這い跡さながらに水特有の艶が輝きを失う。

「だいぶ弱まってきてる。いいわ、その調子よ!」

 ホースを客席に向けて支えるツネさんに対し、ママはカラッとしたけ声で叫んだ。

 踊り子の寸法が最大値の半分ほどになった頃、ママは懐からあの瓢箪を取り出した。

 栓を抜き、追い風の中、触れられるほどの距離までつかつかと歩み寄って行く。怪物の威圧は鳴りを潜め、私たちが投げる目線の方向もかなり低いものとなっていた。

「ふぅ。ようやく降りてきてくれたわね。さっきから首痛かったのよ。ムチウチになるとこだったわ!」

 両手で握られた瓢箪はみしりと音を立て、眼前の踊り子に口が向けられる。引き金を引く直前の銃口である。

「水がぜんぶ蒸発したらアナタも終わりよ。姿を保てなくなる。だけどアタイも早いとこ終わらせたいからね。いっぺんにまとめてお引き取り願うわッ!」

 ママが瓢箪の中身を力任せに振り撒いた。おそらく消火用の水とはかなり性格の離れた、琥珀色の濃い液体が勢いよく踊り子に降りかかる。

 触れた部分が一瞬にして蒸発していくようだった。霊体たちは離脱からの消滅という一連の反応を加速させ、既に人間を象った集合体ではなくなっていた。肢体が崩れ、いつの間にか頭部も胴体も、ヘドロのような、形を持たない不定形物と化していく。向こうが透過して見えるほどに輪郭は薄れ、今や私たちの背丈か、それよりも低い大きさだ。

 ツネさんが送風機を止める。先程までの轟音が凄まじかっただけに、外からの風はいまだに鳴っているものの、客席にはすっかり静寂が戻ったように感じられた。

「はい。最後のお前。帰んなさい」

 ママの一言とともに瓢箪は最後の一振りで、残っていた一体にとどめを刺し、シュッという音とともに一瞬で消滅させてしまった。

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