天女が棄てた羽衣㉜

「結局あの後、傷は悪化してしまってね」

 切除され、まな板のように平らにらされてしまった左胸に手を当てながら、もみじがしみじみと語った。

「応急処置が荒かったのもあるだろうけど、不衛生な針が刺さったことで敗血症を合併した乳輪下腫瘍になったの。加えてちょうど刺さった位置というのが、あまり刺激してはいけない経穴けいけつだったらしくて。良くない影響が胸全体に広がって、痛みと痺れは引くどころか強まっていった。それでも放っておいて踊り続けていたら、こういう取り返しのつかない結果になってしまったのよ」

 もみじは片方だけのヌーブラパッドを拾い上げると再び元の位置に収め、着物を着直した。

「たった一本の針で、私の胸はもう生涯戻らない姿になってしまった。それも、若菜ちゃんの思いつきの悪戯から…。

 本当はね、自らに引導を渡した理由は、もちろんゆず葉ちゃんの件もあったけれど、こうして人様に見せられない身体になってしまったからなの。些細なきっかけでここまでのことになるだなんて、運命って残酷なものねぇ」

 彼女はにこやかだが、言葉の裏に隠された感情が読み取れない。もみじは、ストリッパーという職業における必須の商売道具、すなわち自身の身体の一部を失ったことで引退に追い込まれた。生きがいと仕事を奪われた名状し難い心境は、たった今判明した犯人であるマリー若菜へと少なからず向けられているだろう。

 何事かを危惧して、ママがもみじに忠告する。

「一応釘刺しとくけど、マリー若菜のことは、この先あんまり恨まない方がいいわよ。

 その、お怒りはもっともなんだけど、本人はとっくに死んでるし、何よりも復讐心は感情の無駄遣いに…」

「おほほ、とんでもない」

 もみじは笑って否定した。

「釘を刺されなくとも、既に針が刺さっておりますからね。

 確かに、ゆず葉ちゃんの事件のショックと左胸の喪失によって、私は踊り子を引退した。

 その時は悲しかったわ。

 けれど、おかげさまでこうして小料理を振る舞う生業に就かせていただいているし、生活で苦労することもそんなにないのよ」

「今の医療技術なら、胸、ある程度再形成できると思うわよ」

「もういいの。今じゃ、人前で脱ぐ機会もございませんから……あらまあ!」

 もみじが目を瞬かせ口に手を当てた。

 視線の先には、佇立したゆず葉が依然として存在していたが、私たちも息を飲まざるを得なかった。

 生きた人間との会話ですっかり見過ごしていた中、ゆず葉は、いつの間にかもはや生身の体となっていた。


 肩まで伸びた絹のような黒髪。黄金比に見まごう全身の曲線。上質な落雁らくがんを想起させる滑らかできめ細かい肌。そして、あどけなさと大人の魅力を同包した美しい顔。

 この時初めて、ああ、彼女が如月ゆず葉なのか、ゆず葉とはこの人のことなのだ、と認識することができた。

 先ほどから一緒の空間にいたのに、今まさに初対面であるかのような感覚が訪れる。

 ゆず葉は名前の季節に似つかわしくない桜色の潤んだ唇で、微細な呟きを発し続けている。

 私たちは、彼女のメッセージを受け取るため沈黙の中傾聴した。

「もみじ…姐さん…じゃ…なかった。

 いじめては…いなかった。

 もみじ…違った。

 姐さん…いじめ…なかった…」

 明確となった頬の輪郭を涙が伝う。不思議なことに雫は、地に落ちる前にふわりと溶けて消えてしまうのだった。

「こんな解説は無粋でしょうが」

 驚愕の面持ちを隠せずにいる私に対して、マナブさんは小声で耳打ちした。

「思念体であっても、エネルギー状態の活発化によって霊魂が本来の人格を取り戻し、より高次な言動を見せたり、コミニュケーションを取ることができるケースもあります」

 私はマナブさんの説明を耳に挟みつつも、かつての踊り子二人の動向から目が離せず、感動すら芽生え始めていた。

「ゆず葉ちゃん、あなたは本当に、ゆず葉ちゃんなのね。

 ああ、ああ…ごめんなさい。あなたの苦しみに気付けず、守り抜いてあげられなかった…長年、本当の理由を知ることなく、あなたを捨て置いてしまった。

 死んでしまうほど、死んでからもなお、ずっと辛い思いをさせてしまっていたのね。

 申し訳ないことをしたわ。

 どう償ったら…」

 それはゆず葉の落涙を凌駕するほどの、もみじの号泣だった。

 ゆず葉は顔を上げ、確かにその目で、もみじを捉えた。

「もみじ…姐さん…いじめては…いなかった……」

「当たり前でしょう!?」

 もみじは反射的に、先刻同様ゆず葉の両腕を掴もうとした。

 ところが前回と異なり、今度はゆず葉の体は確かに存在する人間として抱擁を受け入れた。

 驚くもみじ。ややあって、ゆず葉を包み込むように、強く、強く抱きしめた。

「ごめんなさい、ごめんなさい…」

「もみじ…姐さんじゃ…なかった」

 二人の声は、二つの山が異なる山彦やまびこを響かせるが如く、呼応するように木霊こだまし続けた。

 もみじは、おそらく現役時代にもそうしていたのだろう、慈しむ抱擁の中でゆず葉の肌の感覚を確かめるように摩った。

「ま、最終的にはハッピーエンドよね」

 ママがしどけない様子で、それでも優しげな顔を浮かべた。

「最初からこうなってりゃ楽な話だったのに…余計な一悶着が起こってからに。許せないワ、ややこしくしたマリー若菜とかいう踊りヲンナ

「いいじゃないですか」

 マナブさんがママの肩に手を置いた。

「遅かれ早かれ、結果としてはこうなっていましたよ。

 もっとも、僕の綿密な調査報告があればこそ、でしたけど」

 マナブさんは澄まし顔だ。ママは「始まった」とでも言いたげにペロリと舌を出す。


「よかった」

 私たちの耳に、はっきりとゆず葉の声が届いた。

 それを聞くや否や、ママは二人に近づいて行った。

「名残惜しいけど、そろそろ"お会計"のお時間ね」

 これがママの、浄霊の合図だ。

 ママの浄霊方法はとりわけ変わっているらしく、実はまだ私も一度としてはっきりと見たことはない。今回、初めて目の当たりにする。

 当初、ママはもみじをゆず葉からやんわり引き離そうとした。だがもみじは意外にも頑とした一面を覗かせ、彼女から離れようとはしなかった。

 困ったように含み笑いを漏らすママ。仕方がないのでそのまま、ゆず葉の正面に回り込む。

「最後に、言いたいことはあるかしら?」

 もみじの抱擁を一身に受けながら、ゆず葉は穏やかに、そして静かに、一言を紡ぎ出した。

「もみじ姐さん、ありがとう」

 その瞬間、もみじの慟哭はより激しさを増した。一方で、その言葉を聞き終えると、ママは取り出していた古物の瓢箪ひょうたんをゆず葉の口元に当てがった。

「一口でいいわ。ゆっくりお飲みなさい」

 瓢箪はママの手によって徐々に傾けられていく。企業秘密と言われていたが、きっとあの中には御神水のような特殊な液が入っていて、それを飲ませることで「あの世にお引き取りいただく」仕組みなのだ。────これこそが、ゲイバーのママでもあるオネエ霊媒師・神田川ナツコの浄霊方法。


 抵抗することなく素直に液を口にしたゆず葉は徐々に実体を失っていき、霧のように霞んでいく。

 今しがたゆず葉を掴んでいたもみじの両手は、再び虚に帰した空間を囲うものとなっていた。

 唐突な事態に、もみじは狼狽した。一歩離れると、物質から波へと転じていくかつての後輩を凝然として見つめていたが、惜別の瞬間は待ってはくれない。

 ゆず葉の透明度が上がっていく。それは朧の光を放ちながら、テープの逆再生のように象牙のゼリー、乳白のガラス像、線香の煙と原初状態に回帰していき、やがて最終的には初めから何もなかったかのように、生身の4人を取り残した。

 ────あっけない成仏。

 誰もが言葉を発さない静寂の空間の中で、依然吹き荒ぶ突風だけが、外でひゅうひゅうと鳴っていた。


「大丈夫」

 泣き果てたもみじに、ママは励ますような声をかけた。

「ちゃんと、穏便にお引き取りいただけたわ」

「ええ、そのようですわね」

 悲嘆に暮れているとばかり思われていたもみじは、涙跡を残しながらも殊の外爽やかな面持ちで笑顔を見せた。ハンカチで涙を拭いながらしみじみと呟く。

「ゆず葉ちゃんが消えてしまう直前、頭の中に彼女の声が響いたんです。時間としては一瞬だったけれど、確かに全て聞こえた。彼女のメッセージだったんでしょうね」

「へぇ、メッセージ?」

「『もみじ姐さんのおかげで最終日まで頑張れた、踊り子として有終の美を飾れた、舞台で死ぬのは踊り子の本望とよく言うけれど、わたしは本望じゃなかったものの悪くはなかった、わたしが死んだことは不幸の偶然の連続で、事実はどうしようもないけれど、あの時の姐さんの愛はわたしとっては本物だったし、実際やっぱり本物だったのね』…あれ、おかしいわね、こんなに長い言葉を完璧に覚えてすらすらと。なんだか無意識で、誰かに言わされたような感覚」

「誰かっていうのは…」

 ふふ。もみじとママは、私が発したあまりに答えのわかりきった疑問に笑いを漏らした。マナブさんも吹き出している。つられて、私も笑った。


「逆にあの子に励まされちゃ、私もいつまでもめそめそしているわけにいかないものね。

 自分の中で、ようやく一区切りついた気がします」

 もみじは、棘が抜けきったような清々しい顔で私たちに恭しく頭を下げて礼を言った。

「彼女が亡くなってしまったのは残念だけどさ、最後には誤解もわだかまりも捨て去って、天女のように昇っていったわよ。

 一糸纏わぬ姿で光になったゆず葉は、そうねぇ、まさに羽衣はごろもを脱いだ踊り子って感じ。

 ストリッパーに相応しい、優美な昇天姿だったわ」

 ママの談を聞くまでもなく既知とした様子ではあったが、それでももみじは微笑みと共に愁眉を開いた。

 ゆず葉のことは、終生大切に弔い続けると改めて決意したらしい。家の神棚に、さかきの葉の他、柚子ゆずの葉を毎日お供えするとのことだ。

 いいわねぇとママも同意する。私もマナブさんも、顔を見合わせて深く頷いた。

 如月ゆず葉。彼女は、妄執を体現した恨みの怨霊などではなかった。どれだけ打ちのめされても、死してなお大切な人を信じようと葛藤する清らかさを持っていた。最後まで、踊り子時代から貫いてきたであろう純粋さを失いはしなかった。

 柚子の花言葉は、「汚れなき人」。


 雰囲気のこの上ない清浄感を堪能していたところ、ママの元に着信が入った。

 良いシーンなのにねぇ、とぼやきつつ電話に出たママは、絶句し、みるみる顔が青ざめていった。

「ウソでしょぉッ!?」

 絶叫すると同時、荷物を引っ掴みそのまま店を出ようとする。

 何があったのかと引き止める私たちに、ママは震える声で言った。

「ネオアートが、全焼したわ」

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