第3話 何を召喚するの?

「……き、気味が悪いわ」

「確かに、ね」


 ヴァージン館3階の大鏡――否、だ。鏡は年季を感じさせる木枠に収まり、月光に照らされた二人を鈍く浮かび上がらせている。

「何で……、和風なのかな」


 磯子が声をか細く震わせながら問いかけた。確かに不思議だとミエコも思う。基督キリスト教の教育信条を体現すべく、私立聖ウルスラ高等女学校はようふうないはゴシック・ロマネスク洋式の影響を受けた建造物に覆われている。

 尖塔を戴く礼拝堂、重厚な柱廊、彩玻璃の窓ステンドグラスの数々。

 にも拘わらず――。


「これとだけなのよね、不可解なのは」


 敷地の外れ――、ウルスラ館の北東側にひっそりと建つ小さなほこらがある。

 高さは1メートルもないのだが、どう見ても神社や仏堂の類いである。周囲はうつそうと繁る草に埋もれ、すすけた屋根瓦が歪に反り返っている。周囲の建築群と比べ異彩を放ちながらも密かに朽ちゆくその姿は、敷地内に於いても極めて異彩を放っていた。

 そして眼前の古鏡である。

姿すがた――の一種なのかしら?」


 青白い月光を頼り目を凝らす。

 高さ5尺150センチ程度長方形の大きな鏡で、ミエコと同じくらいの高さがある。四方を追う木枠のふうい経年の風格を湛え、鏡面にも微細なひびが走り、映し出される影は何処かなのである。

 異様。

 異口同音に皆が言う。

 そして怪談じみたまじない言葉を――。


「で――、磯子」

「……?」

「願い事は?」

「そ、そうだった!」

 ぽかんとしていた磯子の顔が、はっと我に返った。

 緊張と不安が滲み出る磯子に苦笑いを浮かべた――その姿が鏡に映る。月明かりに淡く浮かぶ自分達の姿に、ミエコは不思議な高揚感を覚えた。


 鏡は真実を映すもの。

 だが、今はどうだろうか? この誰もいない異境深夜の学校では常識そのものが歪み、何もかもが幻想じみている。冷たい暗闇が蹲る校舎で、幾多の願い――或いはのろいかを口にする異常な光景を――この鏡は見てきたのだろう。


「……Thee I invoke, the Bornless one…… (汝、生まれざる者よ、私は汝を呼び求める)」

 磯子が耳慣れぬ英語らしき呪文をブツブツと唱え始めた。その姿を見てミエコの胸は俄にざわめいた。


 ――呼び出すのだろう?


 磯子は静まりかえった校舎で鏡に願いを捧げている。

 だが、捧げられたからといってアタ当たり前と叶えてくれる訳もない。

 願いは大抵、成就される。

 それは一体……?

 逡巡する問いに首を傾げていると、鏡の様子がおかしいことにミエコが気づいた。


「え――」


 明るい。

 灰色がかっているが、確かにぼんやりと光を帯びている。決して月明かりではない。ミエコは光源たる三日月が雲に陰っているのを窓の外に認めた。

 反射で光っているのではない。

 では――。


「い、磯子……」

 ちょうど呪文をひとしきり唱えたのか、しんと静まりかえった空気をまといながら磯子が立ち上がった。

「噂だとね、今言った呪文を唱えてから、心の中で願い事を……」

 磯子が両手を組んだまま目を瞑っている。


 彼女の長髪が風もないのに僅かに揺らぐ。


 ――揺らぐ?

 ミエコは思わず眉を顰めた。揺れている理由が分からなかったが、数瞬の凝視と共に明らかになった。

 視界の片隅に映るもの――薄ぼんやりと浮かび上がる『何か』だ。この古ぼけた鏡から黒灰色の帯のようなものがおぼろに影をまといながら伸び――。


『よこせ――』

「な……、なに?」

『よこせ――、精気を――』


 酷くれた男の声が耳元でささやうめく。光も射さぬ洞窟の向こうから響き渡るえんにも似た、聞くに堪えないじゆ。背筋に経験したことのないほどのおぞが電流の如く走り抜ける。


 鏡の前。

 徐々に形を成す奇妙な塊を漸く認識出来た。不純なる願いを捧げる少女に鏡から帯が――、いや、だ。


「い、磯子ッ!」

 ミエコは思わず声を荒げた。鏡から伸びた長く気色悪い舌が、――しゆんどうしながら磯子を囲い込もうとしていた。

「だ、駄目ッ!」


 明らかな異常。

 見慣れぬ異形いぎよう

 は磯子に良くないことをしようとしている、その直感が脳髄を痺れさせ、本能が警鐘を鳴らす。ミエコは幽かな残光を湛える太い舌を力任せにわしづかみにした。


 突然の行動に磯子が驚き振り返った。

 その目は大きく見開かれ、驚愕と戸惑いに呆然と口が開かれ、その眼は、不思議そうにミエコを見つめて声を漏らした。


「み、ミエコ……?」

 必死の形相で掴んだ『舌』。

 肌に纏わり付くような生き物じみた触感。にも拘わらず冷たく、それでいて弾力のある空気の塊のようなは、まるで触られたことに驚愕し飛び跳ね、拒絶する子どものように身をよじした。


 刹那、ゆたっていた舌は転じてとなり、磯子の身体はまばたきをする間に幾重にも絡みつかれた。

「――い、いやぁッ!」

「磯子!」


 暗闇を切り裂く悲鳴が木霊する。いけない――、耳につんざく悲痛な叫びにミエコは力を振り絞って強く掴み直したが、舌はまるでき苦しむように暴れ出す。

 磯子の身体が強烈な力で左右にガクガクと揺らされ、その顔は苦悶に歪む。

 揺れる衝撃であえぐ声すら封じられているようだ。


「く……! な、なにか!」

 周囲を見回しても妥当なものなどない。

 眼に映るものは鏡と壁と、闇に沈む教室ばかり。たとえ何かあったとしても、この化け物を放置したまま離れることなんて出来ない。

 素手では

 ボロそうな癖に造りだけは頑丈なのだ。ガッチリと壁に埋め込まれているしよで、外すにも工具か何かがなければ――。一瞬の逡巡に、ミエコは大きく首を振った。


 ――駄目。

 今まで色んな危機があったけど、全部なんとかしてきたじゃない。気に食わないあいついじめつ子も、あいつ軟派な輩も、あいつ腐つたフィアンセも、全部ぶっ飛ばしてきたじゃない!


 だったら――。

 高ぶった感情は転じて鬨の声へ。


「こ、こんのぉおおおおッ!」


 強く握り締めた拳に乗せるのは怒り。

 助けたい想い。全身全霊の力を込めてミエコは大きく振りかぶり、その拳骨ゲンコツで憎い舌を勢い任せに殴りつけた。


 バチンッ、とゴムが弾けるような音が一帯に響き渡り、同時に目を眩ますほどの閃光クラウンが瞬いた。月光を塗りつぶし周囲を白く染め上げ、眼を灼かれる炸裂光と衝撃に、ミエコの身体は後ろに大きく仰け反った。

 眩しさに視界を奪われながらも、確かな手応えを感じたミエコは眼を細める。俄に悶絶する嗄れた叫びがミエコの耳を聾し、磯子の身体を巻いていた舌が苦しみ、のたうつ。

 しかし。


「磯子――ッ!」

 卒然、バリバリとがらの甲高い破砕音が響き渡った。霞む視界に飛び込んできたのは、窓枠ごと弾かれるように磯子の姿だった。


 ミエコの絶叫が、救われぬ夜空に木霊した。

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