013.街の食卓
町の喧騒が少し遠のく小道を歩いていると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。私は足を止めて周囲を見回す。ここは地元の人たちがよく訪れる飲食店が並ぶエリアだ。ヴァリク様も少し立ち止まり、その匂いの方向に視線を向けている。
「少し休憩しませんか?」
私が声を掛けると、ヴァリク様は少し驚いたような顔を見せた。
「ここで……食事をするんですか?」
彼は少し目を伏せながら言った。
「はい。ちょうどいいお店がありますよ。私も何度か来たことがあるんです」
私は近くの小さな食堂を指さした。外観は飾り気がなく、木製の看板には「レナの台所」と手書きで書かれている。素朴ながらも温かみのある雰囲気が漂っていた。
店に入ると、こぢんまりとした空間に心地よい温もりを感じた。木製のテーブルと椅子がいくつか並び、壁には地元の風景を描いた絵が飾られている。奥のカウンターでは年配の女性が鍋をかき混ぜており、私たちに気づくと優しく微笑んだ。
「いらっしゃいませ。どうぞ好きな席に」
私たちは窓際の席に座ることにした。窓からは町並みが見え、行き交う人々の姿がどこか和やかに映る。
「ここ、地元では結構評判のいいお店なんですよ。家庭的な料理が美味しくて」
私がそう言うと、ヴァリク様は少しぎこちなく頷いた。
「こういう場所で……あんまり食事をしたことがないんです」
彼は少し気まずそうに視線を窓の外に向けた。
料理が運ばれてくる間、私はメニューを眺めながら意を決した。この機会に少しでも彼のことを知りたい。記事を書くためというよりも、純粋に彼という人がどんな生活をしてきたのか、どんな思いで生きてきたのかを知りたかったし、見えない部分が多すぎる割に素朴な人柄に、異様な歪さを感じずにはいられなかったのもある。
「ヴァリク様は、普段どんなお食事をされているんですか?」
その質問に、彼は一瞬考え込むような表情を見せた。
「……特別なものは食べないです。あんまり気にせず、簡単なもので済ませてます」
「そうなんですか。好きな食べ物とか、ないんですか?」
その問いに、彼は少し困ったように眉を寄せた。
「……考えたこと、ないです。そういうことを気にする余裕がなかったもので……」
その答えに私は少しだけ胸が痛んだ。彼の口調は穏やかだったが、その言葉の裏には長い間味わえなかった「普通の暮らし」が感じられたからだ。
「じゃあ、今日は新しい発見があるといいですね」
私はそう言って笑顔を向けた。彼は一瞬驚いたようだったが、すぐに静かに頷いた。
料理が運ばれてきた後、私はさらに話を広げてみることにした。
「ヘンリーさんやユアンさんって、仕えている立場なのに、随分と気さくな方たちですよね。特に気にされていないみたいですが……結構仲がいいんですか?」
その質問に、ヴァリク様はスプーンを止め、少しだけ目を細めた。
「……彼らは、多分、俺の為にそういうように振る舞ってくれてるんです。友人みたいに接しているのは、きっとわざとです。ヘンリーは……頭がいい。俺が何を苦手にしているかとか……よく分かってるんだと思います」
「そうなんですか?」
私はその答えに少し驚いた。
「ええ……まあ、俺にとっても、友人……だと、思いたいんですけど……本当はどう思ってるんですかね。立場が無くなったら、仲良くしてくれることはなかったのかなと、時々思います」
彼は困ったように眉尻を下げて微笑んでいるが、どこか切なさを感じてしまった。
言葉に詰まってしまう可能性もある。次の質問は慎重に選ぶ必要があった。私は少し間を置いてから口を開く。
「その……ご両親とは、どんな思い出があるんですか?」
「両親はいな……いや……」
その瞬間、彼の表情が一瞬凍りついた。言いかけて口を閉ざし、遠くを見つめるような視線を向ける。
「父上と母上は、どちらも……厳しかったですが、躾はしっかりしていたと思います。父上の訓練もいつも大変で。でも、家族仲は良かったです。海辺の街なので、窓から遠くに見える海を見ながら食卓を囲んでいました……懐かしいなぁ」
頬杖をついて窓の外の景色を眺める彼は、まるで記憶を探るように言葉を紡いでいる。だが、その言葉の中に心に引っ掛かった単語があった。
「……海辺?」
「あ」
ヴァリク様は、頬杖をついたまま目を見開いて視線だけこちらに向けた。黒髪の隙間から見える耳がじわじわと赤くなる。
「す、すいません。あの色々都合があって……記事にはしないでください。本当に……色々と、無理なんです」
机に額を押し当てんばかりに頭を下げたヴァリク様の肩を慌てて叩く。
「き、気にしないでください……! そ、そんな気はしていたんです。あの、色々と調べてみて……話が嚙み合わないなぁって。も、もちろん口外しませんから……!」
「す、すいません……こ、ここまで自分が不器用とは思わなくて……」
泣いているのかと一瞬勘違いするくらい顔を真っ赤にして俯く彼に、場の雰囲気を変えようとしてさらに質問を続ける。
「じゃあ、しばらく会われてないんですか?」
私の問いに、彼は短く答えた。
「……会ってないです、ね」
それは、当然のような気もした。暮らしぶりの中に、両親の何かを思い起こさせるものは何もない。彼のその声には悲しみが滲んでいて、私はそれ以上の家族に関する詮索はできなかった。
「あの、少し気になっていたんですが……名字って、あるんですか?」
何気なく尋ねると、動きを止めた。
「……ないです」
それだけ答えると、また窓の外を見つめ始めた。
「すみません、こんな質問ばかりして……」
私は思わず謝る。すると彼は、少しだけ顔をこちらに向け答えた。
「気にしないでください。……どうにもならない、俺が悪いんです」
その言葉に、私は何も返せなかった。彼の口ぶりは穏やかだったが、その中には深い諦めが潜んでいるように感じられた。
店を出ると、空は少し赤みを帯び始めていた。夕方の空気が町を柔らかく包み込む中、私はふと足を止めた。
「今日は、少しでも楽しんでいただけましたか?」
ヴァリク様は私の方を見て、少し考えた後、小さく頷いた。
「……はい。ロベリアさんがいなければ、こういう時間を持つこともなかったです。ありがとうございました」
その言葉に、私は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
「あの……」
ヴァリク様がぽつりと呟く。その低い声は消え入りそうに小さく、遠慮しているのが有り有りと分かる。
「えっと……何か、行きたい場所があるんですか?」
そう尋ねると、彼は小さく頷いた。しかし、言葉はすぐには続かない。
「……俺が、昔……知っていた場所です」
ようやく口を開いた彼の声は、どこか遠くを見ているような響きだった。その視線もまた、私には届かない遠くの何かを捉えているようだった。
「大事な場所なんですね?」
私がそう問うと、ヴァリク様は一瞬顔を歪めるような表情をした。そして、何かを振り払うように軽く頭を振った後、低く呟くように言った。
「……大事、かどうかは分かりません。ただ……一応、見ておきたくて」
その言葉には不思議な重みがあった。私は何も言えず、ただ彼を見つめた。彼が言葉にできない何かを抱えているのが分かったからだ。
「分かりました。ご一緒しますよ」
そう言うと、ヴァリク様はほんの少し肩の力を抜いたようだった。しかし、その表情にはまだどこか不安の影が残っているように見えた。
彼が向かう場所には、きっとただならぬ何かが待っている。それを予感しながら、私は彼の後に続くことにした。
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