家族に向かう道、故国に続く太刀
風が動いた。
物音と複数人の足音ともに松明の熱を感じ、身じろごうとしたところで、頭ごと足先まで、何やら大きな厚手の布で巻かれて、
敷物らしき分厚い布越しに、騒乱の響きが遠く聞こえた。
俺を抱えた者達は、足早に階段を登り、通路をいくつか曲がった先で、狭い開口部から俺を外に捨てた。
ろくに身動きできない状態で、俺は海に落ちた。
落下の衝撃は衰弱した体にキツかったが、冷たい海水はそれ以上に致命的だった。
ゴミのように捨てられて溺れ死ぬのかと思ったところで、体がぐいと引き上げられる感覚があった。
誰が俺をどうしようとしているのかを確認する前に意識が途切れた。
気がつくと小舟の中だった。
船底の凹凸が痛い。
濡れた身体は冷え切っていて、乾きで喉が焼けそうだ。
水だらけの海の只中で乾きで苦しむだなんて不条理だと考える一呼吸ほどだけ意識が戻って、その後はまた何もわからなくなった。
次に気がついたときは、俺は堅い寝台に横たわっていた。目には布が当てられていてあたりの様子は見えない。
体はもう濡れていなかったが、全身が熱を持って痛み、動けなかった。
誰かが絞った布で俺の顔を拭いて、別の柔らかい湿った布を口に含ませた。布を伝った水が、乾いた唇と口内を潤した。
俺は夢中になって水を求めたが、衰弱した身体はうまく水を飲み込むこともできなかった。
「あせらないで。ゆっくりと、少しずつよ……あなたは辛抱強い人でしょう?」
心地よい声が俺をなだめた。
俺は優しい手に頬や額を撫でられながら、少しずつ水を含み、また眠った。
熱に朦朧としたまま、幾度か寝たり覚めたりを繰り返し、その度に優しい声と手に介抱されたように思う。
ようやくはっきりと目が覚めたときには、目に当てられていた布は取られていた。
そこは薄暗い小部屋で、窓の板戸の隙間からわずかに射す光で、薄ぼんやりと簡素な室内の様子が見て取れた。
ふらつく足で表に出ると、中庭に面した
「生き延びたか」
「ええ。お互いに」
彼女は立ち上がると、俺の手を引いて籐椅子に座らせた。
「抱いてみる?」
乳を飲み終わった赤子を片胸に抱き、背を軽く叩いてあやしながら、彼女は俺の顔を見て笑った。
「お父様はあなたに触れるのがまだ恐いんですって、抱いていただくのはまた今度にしましょうね」
「おい」
彼女は、控えていた使用人に赤子を渡すと、籐椅子のクッションの一つを俺の背にあて直した。少し合わせが緩んだままの彼女の胸元からは濃い乳の匂いがした。
俺は彼女の胸元にもたれかかった。
「……固いな」
「乳腺が張っているもの。当たり前でしょ。授乳期の女の胸は、子供専用の補給基地よ」
優秀そうな兵站係は、咎めるようでいて、同時にどこか誇らしげな顔をした。
強い飢えを感じた。
俺は彼女に
「あなたはお粥からね」
柔らかく微笑みながら、彼女は俺の髪を撫でた。
後日、教えてもらったところによると、俺が捉えられていた港湾都市は、北の軍に攻められて陥落したそうだ。
「苦労して守ったのだがな」
「あそこは一度、炎上するさだめだったのでしょう」
お陰であなたを助け出せた、と彼女は言った。あの乱暴な扱いは、彼女の差配による救出作戦だったらしい。
「無茶をする」
「あなたがあそこに捕らえられていることは知っていたもの」
「味方の裏切りや、あの都市が燃えるのを、予め知っていたのと同じようにか」
彼女は長い間、黙って俺を見つめていたが、一言「そうね」と呟いて、静かに不思議な話を語った。
彼女は、俺の人生を物語のように夢に見たことがあるそうだ。
それは巫女が得る神託や魔女の占いのようなものではなく、もっとあやふやで、事実とは異なるところも多いものだという。
「その夢の物語の中では、あなたに妻はいなかったわ」
ただ、細部は違えども、北との戦が起こり、港湾都市が陥落して、北の勝利で終わるのは同じだったらしい。
「だから私は、夢の物語の中であなたが生き延びたということも、必ず現実にできると信じたの」
脱出方法の詳細は夢では語られていなかったため、苦労したらしい。そもそも彼女自身が乳飲み子を抱えた身で、命を狙われて逃亡潜伏中であったことを考えると、王国の支配下にあった都市の、城郭の奥にある地下牢から俺を見つけ出して脱出させようだなど、無茶も甚だしい。
「その夢を信じたならば、黙って待っていても、俺が生きて返ってくるとは思わなかったのか?」
俺が呆れて問うと、彼女は考えてもみなかったことを指摘されたというような顔をした。
「自分で取り戻さないと、二度と会えないと思ったのよ」
彼女は俺を抱きしめた。
「もう一度。こうして自分自身で、あなたが確かに生きていることを確認したかったの」
彼女はしばらくそうしてじっと俺の鼓動を聴いた後、手を解いて一歩身を引いた。
「でもこれで望みは叶ったわ。もうあなたを自由にしてあげる」
もう自分自身の望む旅に出てもいいのだと、彼女は俺に告げた。
「あなたが向かう先には、危険も多いけれど、驚異と栄光が待っているわ。危険については、必要なら私の知る限りのことをすべて教えておいてあげる。それに……そうね。必要ならその時々で私がこっそり手助けをしに行ってあげてもいいわね。本筋が変わらない程度なら、干渉しても大丈夫そうだもの。存在しないはずの妻だって、直接会わなければ別にちょっとぐらいなら……」
俺は一歩近づいて、彼女の目元を拭った。
「お前は俺をどういう男だと思っているんだ」
「……思慮深くて誠実で強くて優しい……私の大切な人」
「と言う割に、一つも信用しておらぬではないか」
「え?」
俺は憮然として文句をつけた。
「乳飲み子を抱えた嫁を残して、自分だけフラフラ旅に出た挙げ句、都合のいいときだけ支援してもらって大きな顔をするようなクズだと思われていたとは心外だ」
「ご、ごめんなさい!そんなつもりでは」
俺は彼女を引き寄せて、目元に軽く口づけた。
うむ、塩味だ。
「定められた運命だの、夢物語だのはどうでもいい。俺は俺のしたいように生きる」
「ええ、だから私のことは……」
「俺は愚か者だが、いつでも共にありたい相手を置いていくほどバカではない」
もし旅に出る運命だというのなら、お前を連れて行く。
「俺の故郷に伝わる古い伝説に出てくる一本角の幻獣は、恐ろしい怪物だったが、一人の乙女を己の決めた唯一と定めて、生涯を相手に捧げたのだそうだ」
俺は孤独な龍ではなく、お前と生きる一角の獣になりたい。
そう伝えると、我が最愛の妻は、またハラハラと泣いた。
「あなた!朗報よ」
大きく手を振りながら彼女が駆け寄ってきた。これはなにかに夢中なときの彼女だ。
「ここから北西に3日ほど行った先の山奥に、腕の良い鍛冶屋がいるそうなの」
俺は抱えている息子と二人で、彼女のキラキラと輝く眼に見惚れた。
「これであなたの大太刀が造り直せるわ!!」
「あん?」
「期待してね。もし鍛冶屋が思った通りの腕なら、オリジナルよりも格段に切れ味のいい刀を造ってあげるから。もう純度の高い隕鉄は入手済みなのよ」
「待て」
「すぐに人をやって交渉するわ。ああ、でも大事な話だから、最初は自分から会いに行った方がいいかしら」
「ちょっと待て」
「はい」
俺は一度彼女を冷静にさせねばと思った。
「今更、大太刀を造ってどうする」
「あら、だって必要でしょう」
「何に」
「あなた、故国を取り戻したいのでしょう?だったら、すっごいのを用意しないと」
幸せに暮らしながらも、俺の胸の底にわずかに残る燻りを、いつから見透かしていたのか。
陽射しの眩い、柑橘の木が揺れる小さな白いヴィッラの庭で、彼女は晴れ晴れと笑った。
「奪還から独立まで、まずは5カ年計画で概略をプランニングしたんだけど、後で聞いてくれる?」
5日後、俺は鍛冶師に会いに行った。
彼の造った大太刀は、息子の治世の後に国宝となった。
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