同姓同名
青空あかな
第1話:偽名
――絶対に本名を言っちゃダメだからね!
1991年、ちょうど年号が平成に差し掛かった頃だ。
大学三年となった俺は、そんな先輩の言葉を胸に東北地方にある彌吉村を訪れた。
街道の小高い場所からは、昔ながらの茅萱き屋根をした家々が見える。
彌吉村は高い山に囲まれた盆地のような村で、緑豊かな木々や森が一面に広がり、東側には美しくて大きな川まであった。
長閑で風情のある田舎町。
ここで研究活動ができると思うと気分が高揚して、心臓がどくんと脈打った感覚を、俺は今でもよく覚えている。
澄んだ冷たい空気を胸いっぱい吸い込み、村に向かって歩き出した。
当時、俺は珍しい野鳥――雨鳴鳥の研究に取り組んでいた。
日本では通う大学のゼミくらいでしか研究が行われておらず、このゼミ目当てに必死に受験勉強したんだ。
歩きながら都会では見られない自然豊かな風景を楽しむが、脳裏には先輩の言葉がべたりとこびりついていた。
――何があっても本名を言わないで。偽名で通せばいいから。
俺にそう言ったのは、同じゼミにいる奥野という女の先輩だ。
元々、顔を合わせることは少なかったが、ゼミの研究のため彌吉村に行くと言ったら、「必ず偽名を使え、本名は絶対に言うな」……という旨を何度も何度もしつこく言われた。
あまりにもしつこいし、どこか切羽詰まった様子の目が気になるので、どうしてですか? と聞くと、奥野先輩は「あ、いや、ちょっと……」と言葉を濁す。
俺は疑問に思ったものの、憧れの雨鳴鳥が住む彌吉村行きをやめることはなかった。
まだ自分の目で見たことはないので、何が何でも探し出してこの目に焼き付けるつもりだった。
街道を下って村に降りると、上から見たのと同じ風景が広がっている。
剥き出しの砂っぽい地面からは土の香りが湧き立ち、草花が放つ緑の匂いとともに鼻をくすぐる。
俺が普段暮らしている世界――まぁ、大げさに言ったが要するに都会だ――とは全く別の世界に来たみたいだ。
事前に調べたところ、村長の家が民宿を営んでいるらしいので、まずは村長の家を目指す。
茅萱き屋根の家はどれも似たような外見であり、パッと見では区別はつかない。
どうしたもんかな、と思っていたら、一人の男が地面に張り付き、自宅と思われる家の軒下を覗いているのに気がついた。
農作業着の背格好から、村人だろうと想像つく。
俺は近づき、声をかけた。
「あの、すみません。この村の方ですか?」
「ん? そうだよ……ああ、観光客かい? こんな辺鄙な村によく来たね。嬉しいな」
男はパンパンと身体の砂を払いながら立ち上がる。
彌吉村は東北でも山に囲まれた小さな村なので、方言や訛りが強かったらどうしようかと思っていたが、標準語で話されて安心したな。
男の年齢は五十代半ばほどで、シミの浮かぶ頬と少し垂れた目の笑顔が優しげな印象だった。
「数日ほど滞在したいのですが、村長さんの家はどちらになりますか? 民宿をやられていると聞いたので、宿泊したいんです」
「村長の家は村の西側にあるよ。ところで、お兄ちゃんはなんて言うんだい?」
「申し遅れました。僕は……」
何度も紹介し慣れた自分の名前を言いかけたところで、奥野先輩の言葉が彼女の血走った目とともに思い出された。
――絶対に本名を言っちゃダメだからね!
脳裏にこびりついた言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
念のため、俺は難波清という本名を隠し、“田口明”という考えてきた偽名を名乗ることにした。
俺は嘘を吐くのが苦手だが、あのとき奥野先輩の忠告に素直に従ったのは、今となっては生存本能だったのだと確信している。
「た、田口明と言います」
「……そうか。良い名前だね。俺は五十嵐ってんだ。気軽にいがさんとでも呼んでくれな。さあ、村長の家はこっちだよ」
俺の偽名を聞いた一瞬、五十嵐さんはどこか残念そうな顔をした。
すぐ優しい笑顔に戻ったので、そのときはただの見間違いだと思ったが、やはり見間違えではなかったな。
さっきの光景が気になっていた俺は、歩きながら五十嵐さんに尋ねる。
「先ほど、軒下で何をされていたんですか?」
「ははは、人捜しだよ。ずっとどこかに隠れていてね。要するに、隠れん坊さ」
五十嵐さんは快活に笑って答えた。
村の子供とでも遊んでいるのだな、と微笑ましく感じるエピソードを聞き、俺も釣られて笑う。
ところが、五十嵐さん家の軒下が視界の隅でチラリと見えたときだった。
心臓が不気味に鼓動した。
軒下の高さは10cmもない。
子供はおろか、人の入れる場所ではなかった。
――人捜しって……いったい、誰を……いや、何を探していたんだ……。
そのとき感じた微かな異変を無視しなければ、俺はこんな身体にはならなかっただろう。
しこりのような疑念を胸に感じながらなおも歩を進めると、一段と大きな平屋敷が出迎えた。
紹介されるまでもなく、村長の家なのだとわかった。
「田口君、ここが村長の家さ。さぁ、入った入った」
五十嵐さんは明るい笑顔で俺を家の中に案内する。
民宿を運営しているとだけあって、ずいぶんと広かった。
土間だけでも十畳くらいはあったと思う。
最初に感じたのは藺草の匂いだ。
少し遅れて炭のような香りが漂い、俺の乱れた心を落ち着かせる。
五十嵐さんは土間にあがると、中に向かって呼びかけた。
「村長ー、都会からの観光客だよ。田口明君って言うんだってー」
「ほぉっ、この時期さ観光どはぁ珍しいきゃぇ。みんな、もうわんつか暑ーぐなてきてから来るぅもんさぁ。ワシは村長の畠山だば。よろしぐぉ」
少しして現れた村長は七十代ほどの年老いた男性で、小さくも穏やかな目と、顔に刻まれた笑い皺が優しげな雰囲気を醸し出している。
方言はきついものの、五十嵐さんと終始話す様子も和やかで、俺はホッとした。
観光ではなく雨鳴鳥を探しに来たと話すと、村長は協力すると言ってくれる。
断る間もなく村人が集められ、総勢二十人ほどの捜索隊が結成された。
五十嵐さんと村長の他、中年から老人まで。
田舎という立地のためか若い人間はいなかったので、老男女の面々だった。
リーダーは五十嵐さんが務めることになったらしく、当の本人は空に向かって勢いよく拳を突き上げる。
「田口君のために、絶対に見つけるぞ!」
村人たちもおおおー! と声を上げ、一生懸命探してくれた。
森に入り木々をかき分け、数時間も探すうちにとうとう見つけた。
大木の枝に乗る小さな青い鳥、雨鳴鳥だ。
空ばかり見ていたが、持ってきたカメラを構えた瞬間こちらを見た。
澄んだ黒い瞳は黒曜石のようで、青空のような美しい羽に俺は感動する。
何枚もの写真に収めると五十嵐さんたちも喜んでくれ、みんな優しい人ばかりなのだと、そのときは思っていた。
あっという間に日が暮れ、夜が訪れた。
田舎の夜は都会よりずっと暗い。
街灯はなく、明かりは家々から漏れ出る鈍い光だけ。
おまけに日暮れ時から現れた雨雲により、空は飲み込まれるような漆黒だった。
しとしとと雨が降る中、村長の家で俺の歓迎会が開かれた。
居間の机に数々の特産品やうまそうな料理が並び、これを食え、あれを喰えと目の前に持ってこられる。
地酒も勧められたが、俺は下戸だったので酒は断った。
今思えば、ここが生死の境目だったな。
宴会が進む中、雨の音に混じって何かが聞こえる。
ゼミで必死に研究を重ねていた俺は、すぐに何の音かわかった。
雨鳴鳥の鳴き声だ。
ところが、聞こえたのは奇妙な鳴き声だった。
「ぇーろー……げーぉー」
どこか物憂げで寂しい鳴き声。
雨鳴鳥は明るい鳴き声で有名だったので、なんだか不思議だなと思った。
それどころか、まるで人間の言葉にも聞こえ、俺は好奇心より不気味さを抱いた。
当時の俺は何と言っているのかわからなかったが、今はもうよくわかる。
逃げろ、と鳴いてくれていたのだ。
飯を食い五十嵐さんたちの宴会芸を楽しんでいると、ふと壁に青白い男の顔がぼぅっと浮かんでいるのに気がついた。
めちゃくちゃに驚いた俺は体勢を崩し、コップの水を全身にぶちまけてしまった。
五十嵐さんや村人は目を点にして俺を見る。
「どうした、田口君。そんなにびっくりして」
「そ、そこ! そこ見てください! 壁に男がいます!」
男はちょうど村長の後ろにいる。
震える指で差したら、村長が笑いながら言った。
「はは、どってんさせつまって悪がたきゃな。こいづは指名手配のポスターさぁ」
「し、指名手配……ですか?」
「んだ。田口君お、この男ば知らんかの?」
そう言って、村長は色褪せたポスターを俺に渡す。
写っているのは丸坊主で目が細く、狐みたいな顔の男だった。
青白く見えたのは、モノクロだからか。
ホッとしながら名前を見た瞬間、俺は村に来て一番心臓が跳ね上がった。
俺と同じ、難波清だった。
次の更新予定
2024年12月28日 20:05 毎日 20:05
同姓同名 青空あかな @suosuo
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