第26話 またひとつの恋を失って
「最近、来ないね。人見くん」
「そうだね」
講義終了後、教室の中でテキストをしまいながら、千鶴ちゃんに応える。
「どうしたの? 人見くん。講義には真面目に出てたじゃん」
「忙しいんじゃない?」
早く、人見くんの話題を切り上げたい。その一心で、気のない返事をくり返していた。
「あ。この前、新山さんと一緒にいるのは見たけど。何? けんかでもしてるとか?」
「……そんなところ」
そろそろ、ごまかし続けていないで、ちゃんと伝えなきゃいけないよね。人見くんのことは、口にすることすら、苦しいけれど。
「まあ、優貴たちのことは心配することないか。どうせ、すぐ……」
「玲なら、バイトに励んでるよ」
「…………」
整の声に、ゆっくりとふり向く。
「整くんじゃん。めずらしいね、朝から講義に出てるなんて」
「千鶴ちゃんこそ」
いつものわたしなら、千鶴ちゃんといるときくらい、普通にしていられるのに。今は、整に笑顔を返す余裕さえない。
「優貴」
「何?」
やっとの思いで、返事だけした。
「話がしたい」
「わたしは……」
「よかったじゃん、優貴」
千鶴ちゃんに、元気よく背中を叩かれる。
「持つべきものは、元カレだよ。いろいろ、話聞いてもらいなよ。よくわかんないけど、落ち込んでるみたいだから、よろしく! 整くん」
「千鶴ちゃ……」
いつもの調子で、教室から去っていってしまった、千鶴ちゃん。
「千鶴ちゃん、いい子だよね。たまに、とんでもないことやらかすけど」
おかしそうに、でも、優しく笑う整。
「……うん」
恋愛感情を抜きにしても、やっぱり好きだと思うし、いつでも一緒にいたくなる、そんな人。
「玲と何があったの?」
それでも、人見くんのこととなったら、話は別。
「話すことは、何もないよ」
忘れたい。今はもう、それだけなの。
「玲とのことは、口を出すつもりなかったけど……今の優貴見てたら、聞かずにはいられないから」
「今のわたし……?」
自分の手から、視線をわずかに上にずらす。
「優貴のことなら、わかるよ」
「……彼氏でもないのに、そんなこと言わないで」
たしかに、自分の全てに自信をなくしてしまった今、前みたいに人の目をまっすぐに見ることができなくなっているけれど。
「一柳くんは、純ちゃんのことだけ、心配してあげて」
「別れたんだ」
「え……?」
「別れた。純とは」
整の言葉を、何度も頭の中でくり返した。
「だから、純のことは、もう関係ない」
冗談であるわけがない。整は、そんな嘘つかない。
「どうして……」
「ん?」
何気ない調子で、聞き返してくるから。
「どうして、そんなに簡単に別れちゃうの?」
「簡単じゃないよ」
整の思いが、全然わからない。
「そういう言い方、優貴っぽくない」
いたずらっぽい、懐かしい整の笑み。
「ごめんなさい。でも」
頭が整理できないの。
「聞いてくれるなら、話すよ。軽蔑されるかもしれないけど」
「聞かせてもらえるんなら」
整が腰かけたベンチの隣に、わたしも座った。
「……純と同じだったんだよね。俺も」
少しためらってから、話し始めた整。ただならぬ空気を感じて、隣の整を見上げる。
「初めて、本気で好きになって、つき合った人。既婚者だった」
「…………」
そんなこと、考えてみたこともなかった。
「純とは違って、まさか結婚してるとは夢にも思ってなかったんだけどね」
「そう……なんだ」
多分、こういうときに、わたしは人の気持ちをわかってあげることができないのかもしれない。正しい反応の正解がわからない。
「事実を知ったときは、傷ついてさ。それで」
「それで?」
つらく苦しい予感が、当たりそうな気がする。
「腹いせに、その女の妹と寝たりした。そのあとは、もうめちゃくちゃ。優貴の知ってるとおり」
「わたし……」
うまく、言葉が出てこない。
「あきれた?」
「違う……違うの」
大きく首を振る。
「わたし、何も知らないくせに、たくさん無神経なことを言った」
整とつき合う前、やっぱり、こんなふうに話をしていて。
「無神経なんかじゃないよ」
目を細めて、整が笑う。
「優貴のおかげで変われたんだから」
わたしだって、整のおかげで、たくさんの感情を知れたんだよ。
「でも、俺にとっての優貴に、俺はなってやれなかった」
「純ちゃんのこと?」
「そう。過去の自分と純を重ね合わせて、運命みたいに錯覚してただけだから。きっと、純自身のことを全身で好きなわけじゃなかったから。多分、純もそれに気づいたんだと思う」
「…………」
自分でも、自分の気持ちがわからない。
「優貴」
「何……?」
気持ちの整理がつかないまま、顔を上げた。
「よくわかってる。優貴にとっては、今さらだって」
整は、何を言おうとしてるの?
「ただ、どうしても知っておいてほしい。優貴」
もう一度、整がわたしの名前を呼んだ。
「優貴が好きなんだ」
「整……」
「俺には、優貴しかいない」
真剣な瞳。うれしい気持ちが全くないと言ったら、嘘になる。でも。
「……いつか、一柳くん、話してくれたよね?」
「え?」
「昔、人見くんが、一柳くんのおもちゃをよく欲しがってたって」
今、ひさびさに思い出した。
「何? 唐突に」
眉を寄せる、整。
「相手のおもちゃが欲しくなるのは人見くんじゃなくて、一柳くんの方なんじゃない?」
「そんなんじゃないよ」
今度は寂しそうに、整が笑った。
「残念ながら、人見くんもね」
そんな整から視線をそらして、先を続ける。
「わたしにかまうの、飽きちゃったんだよ」
人見くんの暇つぶしの時間は、終わったの。
「だから、一柳くんも、もうやめて。わたしの気持ちを引っかき回さないで」
好きになった分、つらい思いをしたり、打ちのめされたりするのなら、もう最初から誰も好きになりたくない。
「いいよ。どう思われても」
強く、整が言いきった。
「前みたいな関係に戻れなくてもいい。ただ、優貴を好きでいるから。少しでもできることがあったら、力になりたいだけだから」
「突然、そんなふうに言われても困るよ。純ちゃんと別れたからって」
「見てたよ」
ぽつりと、整が小さくつぶやく。
「玲との距離が縮まっていくの、わかった。遠くから見てるだけで、苦しかった」
「変だよ、そんなの」
だったら、手放さないでほしかった。あの日、わたしが何を言っても、最後まで。
「純ちゃんは、どうしてるの?」
学校までやめたと聞いている、純ちゃん。
「……純なら」
視線を落とし、恥じるような整の表情。
「俺の父親と、また会ってるよ」
「そんな……」
整も、きっと苦しんだ。もちろん、純ちゃんも。
「ごめん。優貴に、そんな顔させたくて伝えたわけじゃないのに」
「ううん」
何も考えずに、ここで整を抱きしめてあげられたらいいのに。整の胸の内を想像して、そんな思いにまで駆られるけれど。
「だけど、ごめんなさい……何て言ったらいいのか、今はわからない」
わたしも、自分を保っているだけで精一杯なの。
「わかってるよ」
安心したように、整が笑う。
「待ってるから」
「え……?」
「優貴の方から、俺のところに来てくれるまで」
そうなるのが必然のような気がしてくる、自信に満ちた口調。
「待ってもらっても、無駄になると思う」
「いいよ。それだけのことを、俺はしたんだから」
相変わらず、ずるい整。つらかった記憶全部、忘れてしまいそうになる。そんなところまで、変わっていない。
気がつくと、学校の中で整を探してしまっている自分がいる。そうはいっても、必修科目以外、講義には出ていないようなのも相変わらずで。
アルバイトをたくさん入れたという人見くんの方は、一人暮らしの資金でも貯めているのかな。姿は見えなくても、常に考えてしまう。人見くんのことなんて、全て忘れたいのに……と、そこで。
「あ」
席で教授を待っている間に、お父さんからの電話の着信。きっと、たいした用じゃないよね。寂しがって、他愛もないことでよくかけてくるし、教授も来ちゃいそうだし。
授業が終わったら、かけ直せばいい。マナーモードに切り替えると、携帯をバッグの中にしまい直した。それより、考えてみたら、この講義は人見くんも取っていて、よく一緒になっていた。
必修だし、ちょくちょく出席簿を見て指されるから、代返もきかない。この時間くらいは、人見くんも来ているかもしれない。人見くんに自分の姿を見られたらと考えるだけでも、みじめで消えたくなるのに。
————— でも、整は、昔も今も、わたしを認めてくれる。整のところに戻ったら、こんな自分から、また抜け出せる?
ううん、でも……と、そんなとりとめのないことを考えていたら、お父さんから、今度はメール。二度も連絡してくるなんて、さすがに急ぎの用なのかと、メールを開いてみると。
「え……?」
気が動転して、頭が真っ白になった。どうしよう? お母さんが家の前で倒れて、救急車で病院に搬送されたという。初めてのことに、体の震えが止まらない。風邪すら、めったにひかなかったお母さんが。
どうしたらいい? もう、講義が始まってしまう。だけど、体が動かなくて……。
「どうしたんだよ?」
「あ……」
横から突然、人見くんに腕をつかまれた。
「何があった?」
「触らないで」
一瞬、思考能力を失ってしまったけれど、すぐに我に返る。
「わたしに触らないで。今すぐ、離し……」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ? とりあえず、ここ出ろ」
勝手に荷物をまとめられ、強い力で廊下まで引っ張られていた。
「言えよ。何があった?」
「お母さんが……」
うまく、しゃべれない。どうしていいかもわからなくて、人見くんに携帯を渡す。
「千葉市総合病院か」
お父さんからのメールで病院名を確認すると、外に向かって、人見くんは早足で歩き出した。
「人見くん……?」
「ぼさっとしてんなよ。早く」
「あ……待って」
人見くんの考えていることが理解できないまま、わたしはただ、人見くんのあとをついていくのだった。
「ごめんね、優貴」
「お母さん……! 大丈夫なの?」
受付で病室を問い合わせようとしたら、すまなそうに普通に声をかけてきた、お母さん。
「ただの貧血だって。さっきまで、点滴打ってもらってたんだけど」
「貧血?」
そんなこと、初めて。
「来週、同窓会があってね。ついつい、無理なダイエットしちゃって」
「ダイエット? お母さん、何やってるの?」
体中から、力が抜ける。
「大騒ぎして、お父さんが救急車なんか呼んじゃうんだもの」
「お父さんは?」
お父さんのあわてぶりが、目に浮かぶようだけれど。
「今、向こうで精算してくれてるところ。ねえ、優貴。せっかくだから、一緒にランチでもどう?」
わたしが来たことで、お母さんが声を弾ませる。考えてみたら、お母さんやお父さんと話すのもひさしぶりだっけ。
「うん……待ってて。すぐ戻ってくるから」
とりあえず、人見くんを探さなくちゃ。ここまで連れてきてもらって、お礼も言わずに別れるわけにはいかないから。外に出ると、人見くんは病院の敷地内のバス停の前のベンチに座っていた。
「ああ」
わたしに気づいた人見くんの方から、おっくうそうに声をかけてくる。
「何ともなかったんだろ? また、おまえは……」
「どうして?」
やっぱり、素直にお礼を言う気持ちにはなれなかった。
「どうして、わざわざ、わたしにかまうの?」
「おまえが勝手に、俺の視界に入ってくるんだろ? 好きでかまってるわけじゃない」
「そんなの……」
ひどいよ。わたしにとって、人見くんといることが、どれほどつらいか。それくらい、わかってよ。
「人見くんの考えてること、全然わからないよ」
「俺だって、おまえの考えてることなんか、わかるかよ。整ぐらいだろ? おまえみたいな女の相手ができる、物好きは」
「わたし……」
もう、無理。こんな気持ち、一人で抱えきれない。
「整のところに行く。整だったら、こんなわたしでも好きでいてくれるから」
「ていうか、より戻してなかったのかよ? あいつ、長谷川と別れたんだろ?」
「そんなこと、人見くんに言われたくない」
人見くんに背を向けて、お母さんとお父さんが待っている場所まで駆けていく。いまだに、こんなに動揺する。今でも、こんなにも胸が苦しくなる。でも、整になら、きっと救ってもらえる。だって、あんなにも好きになった人なんだから。
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